こころの哲学改
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 英国経験論哲学から出発して、認識論・倫理学の諸問題を、言わば旅歩きのように見て行きます。「知覚」モデルの哲学(経験論の認識論)の射程と限界を学びます。その健全な面と同時に、それが示す見方の狭さを押さえます。山陽学園大学「哲学」もこのページに準拠します。
〔履修上の注意〕時間を厳正に守ること。授業中やむを得ない理由で、中途退席する場合必ず許可を得ること。
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1.はじめに
 哲学的でない授業がしたい。授業は非哲学的なものの提示によって進行する。
例えば次のような述懐を持ったKは非哲学的である。
Kの世界
ベルリオーズの幻想交響曲を聞いて、人間が地上につなぎとめられてあることと、天上への志向を理解したつもりになっている(人間は卑小な存在にもかかわらず、神様を追い求めるような類の幻想を抱いている)K。*

*http://kcpo.jp/info/35th/genso0.html

 Kは初恋の人を想いながら、彼女にかき抱かれるのなら、天上に昇ったような心もちになるだろうと夢想していた。しかし初恋は無残に打ち砕かれる。そのため彼は言わば、天上に昇ることを拒否された地上の存在として、おのれを認識する。古典的な、例えばバッハのような天上の音楽にKは憧れを抱いているのだが。けれど彼は、「地上の人間」によって奏でられる、ロマン主義的音楽に共鳴する。

 いずれにせよ・・・Kにはロゴスがない。論理がない。情緒によって、あるものを他のものに取り違えている(これを気取って言えば転喩の心理学と呼ぶこともできよう)。こうした非哲学的と哲学的の「はざま」に目を向けてみたいのである。(けだし池田晶子のエッセイの大部分もこの意味で非哲学的である。)

 力学的崇高に関して『判断力批判』は言います。
 「とは、大きな障害に卓越している能力である。この同じ力は、力をそれ自身所有しているものの抵抗にすら卓越するとするならば、威力と呼ばれる。自然は、美感的判断のうちでわれわれに対して威力をもたない力とみなされるならば、力学的に崇高である」(『判断力批判』アカデミー版、Bd..V,S 260.下線ゲシュペルト)。
 まず、力と威力が区別され、人間を圧倒してしまう力を威力として区別されます。それに対抗するわれわれの側に力を求めます。威力はわれわれを圧倒し、自分自身の卑小さを思い知らせるような脅威を与えます。とはいえ、それを眺める分には、われわれを引きつけて止まぬ対象となるというわけです。
 さて、高橋和巳の小説『邪宗門』(高橋和巳、1993、朝日文庫、417-418ページ。)では、母の人肉を口にする場面は以下のように描かれていました。「私が死んだら、腐らないうちに、まだ少しは残っている私の腿の肉をお食べ」。千葉潔と母の近しさは肉という身体性によって媒介されています。それは千葉潔=高橋和巳の対象への距離の取りにくさをそのまま投映しているのではないでしょうか。「お前と私はもともと同じ血、同じ肉なのだから、神さまもそれだけは許してくださる」。ここで祈りの焦点にあるのは国家との闘いのなかにではなく、宗教のあり様をめぐったものであったことが明らかにされます。「食べさえすれば、動けるようになる。泣かんでいい。昔は、お前をみごもった時、お母さんはお前を堕そうとした。こんな炭焼き小屋みたいなところで、子供を生んでも、食わしてゆけるあてもなく、その頃も数年つづきの冷害で凶作ばかりだったからね。生まれた時にも、男の子だとわかった時には、しめ殺そうかと考えたんだよ」。戦慄すべき言葉です。無力な子を否定しようとした絶対者〈千葉潔の母〉が神と二重写しになっていることは、もはや多言を要しないでしょう。そこでカニバリズムからのフェイド・アウト。「(前略)次の瞬間、彼の体はふわっと宙に浮いた。何物かの胸に抱かれるように……」。絶対者への合一は実は絶対者を己が自身に取り込むことでした。つまり主観のうちの人間性の理念に対する尊敬を、絶対者への態度である(客観に対する)尊敬と取り違えること、このメタレープシス(転喩)によって崇高さが抱え込まれます。
 『邪宗門』の「詐取」=転喩は、『純粋理性批判』の「諸感覚の詐取」(アカデミー版、B,S.53)や超越論的仮象を引き起こす「超越論的詐取」(同、B,S.537)の否定的ニュアンスを引きずっています(『岩波版カント全集』第八巻、290ページ参照)。そうした「詐取」に全面的に依拠できないのが以下の誠実な人なのでした。
 「それゆえわれわれは、神は存在せず、また(道徳性の客観に関しては同じ帰結になるのであるから)来世も存在しないと確信している誠実なひと(たとえばスピノザのような)を想定することができる」(『判断力批判』アカデミー版、Bd..Ⅴ,S.452-453)。スピヴァクが引証する当該箇所は、この子宮と墓場の間に宙吊りにされた人間が、あくまで誠実性を貫き、宗教的懐疑に晒されることを指し示しています(Spivak, G.著、上村忠男・本橋哲也訳、2003、『ポストコロニアル理性批判──消え去りゆく現在の歴史のために』月曜社、46-47ページを参照のこと)。ここに実存の主体的投企がレアールな歴史の前で挫折し、「詐取」に全面的に身を委ねることの出来ない、高橋の「諦念」を垣間見ることが出来ます。その「諦念」は、正常/異常(カニバリズムの拒斥/衝迫)の尺度に比べ、圧倒的に凌駕しています。
〔資料〕池田晶子1999、「道徳」『中学生の教科書』四谷ラウンド、196-197ページ。
 私たちの多くは、「自分」とは「脳」だと思っている。そして、脳が死ねば、自分も死ぬのだと思っている。けれども、目に見えるものとしての物質と、目に見えないものとしての精神とは、同じものではないということを、さっき理解した。脳は目に見えるけれども、精神は目に見えない。手でも触われない。精神とは、考えている自分である。考えている自分は、物質ではない。つまり、自分は、脳ではない。こういうことにならないだろうか。すると、「自分」は、どこにいることになるのだろうか。「自分」とは、いったい何だろうか。

 確実なことは、何だろうか。しっかりと考えてほしい。
 考えてほしい。
 考えよう。①
 考えている。
 考えている。
 考えている自分がいる。②
 考えている自分がいると考えている自分がいる。
 自分がいる。
 自分がいる。
 どこまでも考えても自分がいる。
 自分がいるということ、これこそが確実だ。
 こう気がついたのではないだろうか。確実なこと、それは、「自分がいる」ということだ。「自分とは何か」と考えているそこには、必ず、考えている自分がいる。このこと以外のすべてのことが不確実でも、このことだけは絶対に確実だ。

〔問い〕上の文章に含まれている落とし穴を指摘せよ。
考えていることは確かに①の時点では確実である。また②の時点でも。しかしながら考えている存在(ただし、ここで考えられているのは人格の同一性)が同一である保証はどこにあるか。思考伝播→http://www.health.ne.jp/word/d3271.html
 持続する存在があるかどうかは、一考を要する。その時々に考えることが確実であるとしても、その主語が存在し続けるということは、池田が説くように自明のことではない。ましてや自分の考えが、統合失調症患者当人にとっては「漏れ出していく」わけで、患者本人はその誤りに気がつかないことがある。としたら、自分の考えが帰属する主語が同一であるか、さほど確実なことでもない。
 今、統合失調症の例を挙げたが、このように「哲学的」テーマと心理学の「はざま」は紙一重である。以下の議論は「哲学的」趣きをもった心理学に終始するが、心理の「肥沃な低地」に這いつくばることで、逆にそこからの離陸を図る。

2. 【印象と観念】生まれつき人間は知識をもっているか
  ――もっていないと貴方が断言する根拠は何ですか
3. 【単純と複雑】スフィンクスをいかにして考えることができるか
  ――目にするものは印象の寄せ木細工です
4. ヒュームの逸脱 今まで経験していない青【problem of missing blueとモリヌークス問題】
   加藤尚武(2008)『かたちの哲学』岩波現代文庫
5. ヒュームの視点にないもの――知覚の背面・キュビズム
   大森荘蔵(1982)『新視覚新論』東京大学出版会
6. 【印象と観念】過去は現在の記憶・「知覚」から知られる
  ――二十分前に宇宙がはじまったというラッセルの懐疑
7. 【絶対的知識と蓋然的知識】類似をめぐる若干の考察
  ――確実性の試金石となるものは何か
8. 因果関係には根拠がない・か?
  ――統計的に有意味な事象の関係について
9. 【個別と普遍】普遍代表説
  ――個物しか知らないのになぜ普遍的なことが分かるか
10. 【個別と普遍】抽象観念の背理
  ――犬を定義できますか・現代形而上学入門
11.死という観念を如何にして知ることができるか
   参考書:大森荘蔵(1976)「三つの比喩」『物と心』東京大学出版会。
12.【共時性の精神分析学】他者の心をいかにして知るか
  ――解釈的に有意味な事象の関係について
13.単純な情念が如何にして類似することができるか
  ――恋人への愛憎の類似性
14.【幸福主義の倫理学】
  ――「指を掻く方を全世界の破滅より選ぶ」
15.まとめ:哲学的童話についての感想を書く・哲学の主戦場について

2. 【印象と観念】生まれつき人間は知識をもっているか
  ――もっていないと貴方が断言する根拠は何ですか
[授業目標]生まれつき人間は知識をもっていない、とする主張は根拠薄弱であること

 生まれつき何の知識も人間はもっていないとは、当たり前のようですが。ロックが考えていたのは、主に神の観念でしたが、観念の起源となると難しい問題が残ります。そのことを措いても、人間は「生」という観念をいつ得たのでしょうか。もちろん、生まれてから。では非生(せいにあらず)という観念はいつ得たのでしょう。誘惑的な考え方の罠。それは生まれていないときに得たのであるという考え。しかしこの考え方の罠は簡単に肯定できません。
〔問い〕宇宙外という観念は宇宙という観念を得てから獲得されたのではないか。では宇宙という観念はいつ獲得されたのか。驚くべきことに「経験から超えた」観念を、「経験を介して」獲得したことにはならないか。しかし、宇宙外という観念は意味を持たないのかもしれない。
〔問い〕そもそも宇宙の全体という観念をもっているのか。http://www.youtube.com/watch?v=88KinrRU2U0

ジョン・ロック著、大槻晴彦訳、1980(←1690)、『人間知性論』中公バックス、第二巻第一章第二節、81ページ。
 そこで、こころというものは、いわばなんの刻印もなく、どのような観念ももっていない白紙である、と想定しよう。こころは、それでは、どのようにして観念をもつようになるのであろうか。人間の目まぐるしく際限のない想い(fancy)が、ほとんど無限な多様性をもって描いてきたこの膨大な観念の蓄積を、こころはどこから獲得するのか。いったい、どこから、こころは推理と知識の素材をうるのか。この問いに対して私は、ひとことで、経験から、と答える(To this I answer,in one word,from experience)。経験にこそ、私たちのすべての知識の基礎があり、知識は究極的には経験から引きだされるのだ。

 今忘れている観念があるにもかかわらず、何かの観念を持っていた、と言いたくなることもあるでしょう。例えば小学校の同窓生についての観念についてなど。もしそう言うことが有意味ならば、生まれる前から持っていた観念を忘れていたとしても、なお何らかの観念(の芽?)を持っていた言えるのではないでしょうか。
 →プラトンの洞窟の比喩

熊野純彦、2006、『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波新書、84-85ページ。
 たましいの輪廻を前提するいわゆる想起(アナムネーシス)説が語りだされるのは、この文脈にあってのことである。不死なるたましいは、すでに遍歴をかさねて、ありとあるものごとを見知っている。たましいは顕在的なかたちでは、なおなにも知っていない。けれどもたましいは、潜在的にはすべてを知っているはずである。この不知と知のはざまで、探究がなりたつことになる。
 学ぶとは、したがって、想起することである。ソクラテスは、そこで、教育を受けていない(ただしギリシア語を解し、図形と大小の観念をもつ)召使いの少年に、ただ質問するだけで幾何学の定理を証明させてみる。――なにごとかについて、知識が獲得されるとき、それはなにかとして知られることになる。論理的に、或るものがそれとして知られる、当のなにかは、或るものがそれとして知られるまえに、あらかじめ知られていたのでなければならない。知ることと想いだすことの両者は、そのかぎりで、たしかにおなじなりたちをしている。

 言わばイデアの記憶とは、観念の痕跡、そこからむくむくと観念が育つ芽のことです(しかし観念の芽って何のことでしょう?)。人は観念が成立するためには、何か「ベースになるもの」(基礎?)が必要である、と言いたくなります。が一方で、でも生まれつき心は白紙の状態である、と断定することは絶対正しいのでしょうか。
〔問い〕生まれつき「心は白紙である」とは、何らかの根拠によって正当化できるか。
 西洋哲学史において、人は生まれつき神様についての観念の芽を持っていると考えられました。明確に神様を描けなくとも、ぼんやりとした神様の観念の痕跡は持っているのだ、と。
〔問い〕貴方は神様の観念を持っていますか。持っているとして、それは生まれつきのものでしょうか。
ヒント:神様は全知全能です。しかし神という「経験から超えた」観念を、「経験を介して」獲得できると考えるなら、それもまた無理筋ではないでしょう。

 
 近代哲学には大陸合理論とイギリス経験論といった大きな二つの流派がありますが、これから「知覚モデル」の哲学ということで、イギリス経験論哲学を指すことにします。すなわち「知覚」という実際の体験を知識の基礎におく考え方です。
 
 
〔問い〕空所を補充しなさい。
 経験論とは何かについて、http://plato.stanford.edu/entries/rationalism-empiricism/では Empiricism(経験主義)を以下のように規定しています。
「経験主義者はある主題領域に次のような主張を課した。経験主義のテーゼ:われわれは   経験以外にS(或る主題領域)における知識の源も、Sにおいて用いる概念の源も、何も持たない」。要するに感覚以外の知識の源を信用しませんでした。経験論が出現する以前人間は、生まれながらにして神についての知識を   観念として持っている、と信じるのが大勢でした。「特定の主題について、経験主義は、直観/演繹や本有知識のテーゼに対応する解釈を斥ける。われわれがそうした主題について知っている限りにおいては、われわれの知識はアポステリオリ(、つまり経験より  )なのであり、〔われわれの知識は〕感覚的経験に依存する。経験主義者は同様に特定の主題においては本有観念を持っているという、本有概念テーゼに対応した含意をも否定する」。ですから「感覚経験は唯一の観念の源泉である」ということになります。「経験主義者は   が優位に立つテーゼに対応した解釈をも斥ける」。「理性のみではわれわれに知識を与えないから、理性がわれわれに優越した知識を与えないことは確かである」。「経験主義者は斥ける必要が無かったにもかかわらず、一般に理性不可欠性テーゼを斥ける」。教会の神学的な考察だけでは、何の知識も得られないというのがヒュームの立場です。ヒュームによれば、経験は   のような事柄に関する知識を与えないこと、及びわれわれの知識は誤りに開かれているとしたことを覚えておいて下さい。※これから、イギリス経験論者の一人、デイヴィド・ヒュームの『人性論』(人間本性についての論考)を主に扱います。基礎知識として一言。イギリス経験論の代表する三人は、『統治論』で有名なジョン・ロック、『人間知性新論』を書いたジョージ・バークリィ、そして人間本性の論考A Treatise of Human Nature つまり『人性論』を書いたヒュームです。ユリウス暦1711年4月26日に生まれ、 1776年8月25日に死にました。
欄外暗記事項:ア・プリオリ-経験より先=必然的
       ア・ポステリオリ-経験より後=蓋然的
 
 ロックについて:『統治論』は二編からなり、その第一編はサー・ロバート・フィルマーによって示された政治権力が父権に基づき、権力のはじまりが神とアダムの関係からなるという論を批判し、王権神授説を論駁することにあてられている。第二編ではロックは自らの論を積極的に展開しており、それは当時としては画期的なものであった。すなわちその抵抗権の思想は、ロックの生きた時代の名誉革命を理論的に正当化し、アメリカ独立戦争やフランス革命の理論的基盤となっています。また日本国憲法にもその思想が取り入れられているのです。
 
経験的知識とは、感覚・知覚から直接得られるものを言います。およそ頭で想い描いていること、つまり想起・想像は「知覚」のコピーにすぎません。
 
ここでひとこと用語上の注意。



これから現在の日本語の意味で、今見たり聞いたり触っていることを「知覚」(ヒュームの言う印象のこと)と表記して、ヒュームのperceptionとは区別します。というのも、ヒュームのperceptionとは、日本語の「知覚」のみならず、想起・想像を含めた広い概念だからです。そしてヒュームにおける想起・想像、つまり観念は「知覚」のコピーである以上、それらはイメージとして脳裏に浮かんでいなければなりません。
 
perception=impression+idea

〔注意・以下は、分かりにくいので、全部読んでしまったあとに考えていただきたい。――観念が印象のコピーである、これを「知覚モデルの哲学」と呼んでいる。哲学史的には、観念論と親近性をもった考えである。しかし印象が原物 であるとして、そのコピーである観念と、比較・対応させるすべはあるのだろうか。思い出されている印象が、すでにして今の「原物」(観念に変質してしまっているが)なのではなかろうか。ということは、原物(印象であると理解していたもの。どうも、そうした理解は誤っている。あるのは実は、変質した観念だけであろう)とコピー(観念)との比較は不可能なのではあるまいか。とするなら、「知覚モデルの哲学」は破産宣告が予告済みなのではないか。
 本書が観念論から実在論へとゆるい意味で転換するのは、こうした観念論の破産宣告見とおしにもとづいている。今述べたように、観念が印象=原物のコピーであるというのは正しくなく、心に浮かんでいるもの(観念)は、もうそれ自体で原物であるのだろう。とすれば心に浮かんでいるものは、実在に係留されている、という考え方さえできるかもしれない。ここで観念論が実在論に逆転しうるのである。ただし実在を、公の何か(例えば「言語」)に、急いで結びつけることは控えよう。その前に多くの哲学的問題が横たわっているように思われる。〕

 
 
3.スフィンクスを如何にして考えることができるか
[授業目標]
架空の存在と「知覚」の関係を考える
〔はじめに〕われわれが考えるものの内には、直接「知覚」され得ないものが含まれています。このことを説明するために、ヒュームの言う印象impressionと観念ideaを、単純なものと複雑なものの二種類に分類します。
【問題意識共有メモ】
 まずおよそ知りうるものは印象、日本語の「知覚」から、由来するというのが、ヒュームの根本的洞察です。直接「知覚」することがないものは知りうるか?という問いにヒュームなら、どう答えるでしょう。「いいえ。日本語の意味で「知覚」できないものは知りえない」と答えることでしょう。
 
〔問い〕空所を補充せよ。:花の開花を知覚すること。。
くどいようですがヒュームの論理をまとめておきましょう。「知る」とは、すなわち心にイメージを抱くことに他なりません。心にイメージを抱くこととは、直接、「知覚する」場合の他に、想起・想像として「知覚」の     を抱く場合があります。コピーって何でしょうか。写し取ること。複写。模写。しかしコピーは   がなければ、意味を成しません。したがって直接経験される日本語の「知覚」、ヒュームの言うところの印象に、さかのぼれないものは知りえないことになります。
〔問い〕丸い四角の観念をもつことは絶対に不可能か。本当にそのような図形を「知覚」したことはないか。
(四つの角をもち、四辺上の点がすべて或る一点から等距離であるような図形は考えられないか)


 皆さんは神話に登場する怪物スフィンクスをご存知でしょうか。――脱線するとスフィンクスは、想像上の動物で頭は人間、胴体はライオンから成っています。ギリシア神話上、スフィンクスは「朝は四本足、昼は二本足、夜には三本足で歩くものって何だ?」という謎かけを砂漠の旅人に対して出し、答えられないものを懲らしめたという伝説があります。
架空のものについて言えば、実物を「知覚」していないことが重要です。もし実物以外のものを見て、実物を見たのだ、もしくは実物以外のものを聞いて、嗅いで、触って、味わって、実物を日本語でいう意味の「知覚」をしたとすれば、UFOの模型を見て、本物のUFOについて何かを知っている〔、もしくは、香水の匂いがすることで、「崖の上のポニョ」の香りを知っている〕と言うことと同じような、おかしなことになります。
 知覚モデルの哲学が健全性は、実物の「知覚」にかかっています。これは言わば「科学」の精神と合致しています。というのも、実物を直接「知覚」するところに、究極的な「科学」の根拠があるとも考えられるからです(水の分子に衝突する超新星のニュートリノでさえ、トムナフーリで間接的に印象として「知覚」される)http://www.scj.go.jp/omoshiro/nobel/koshiba/koshiba1.html
 
〔問い〕空所を補充せよ。
きわめて特異なケースを除いて、印象として受け取られるものは   な印象が複雑に組み合わさっています。リンゴの実の印象を例にとれば視覚的印象に限っても、果肉部(赤+緑)と枝の一部の見え姿が組み合わさっています。さらに言うならりんごは触れればすべすべ感があり、たたけばこつこつという音がし、かじれば甘酸っぱい味がし、嗅げばいい匂いがするという五感の印象の組み合わさったものです。専門用語で言うと、こうした事態を   印象として「知覚」する、と表現します。その印象を構成するものは   印象です。
そこで複雑印象を再生するならば、   観念です。われわれは複雑観念を抱くとき、再び分解することができます。果肉部(赤)+ 果肉部(緑)+枝の一部の見え姿をそれぞれ別々に思い描くことができます。それぞれのそれ以上分解できない観念のことを単純観念と言います。
 われわれが架空の事柄を考えるさい、こうして単純なものに複雑観念を分類してから、単純観念を再び複合することをします。複雑観念から単純観念へは、言わば割り算(引き算?)なのに対し、ここでは割られた〈値〉を足す操作がなされるのです。
 
〔問い〕スフィンクスの複雑観念は何から構成されているか?
→私たちがスフィンクスのような架空の事物(虚構)を考えるさい、こうして一旦、単純なものに複雑観念を分類してから、単純観念を再び複合する。複雑観念から単純観念へは、いわば割り算(引き算?)であるのに、複合のさい〈割られた要素〉が再び足される。スフィンクスの複雑観念は何から構成されているかと言えば、それは人間を構成する単純観念、ライオンを構成する単純観念から構成されている。そもそも人間の複雑印象は再生されると、人間の複雑観念である。ライオンの複雑印象は再生されると、ライオンの複雑観念である。
 その複雑観念を分割し、人間の右目・人間の左耳・人間の下唇・・・等の単純観念と、ライオンの左後ろ足・ライオンの右前足腿・ライオンの尻尾・ライオンのたてがみ・・・等の単純観念(いずれも単純観念にしては大きな括りだが)を複合すれば、スフィンクスの複雑観念ができる。


〔問い〕ここにスライドに映したようなリンゴの実物があるとして、どのような視覚的な単純印象から成っていると考えられるか。思いつく限り挙げよ。
〔勉強のすすめ〕2°角四方の色彩片は1°角四方の四つの色彩片を複合したものではないか。無限に小さい部分から構成されていることにならないか。もしそうなら、色彩に関する単純印象はないのではないか。
 シニャックの点描画法で見えている最小単位の単純印象とはなにか。

三省堂 大辞林 てんびょう-ほう 【点描法】
 点描(1)によって描く技法。また、新印象派の画家スーラたちが印象派の理論を科学的に究明して用いた彩色技法。

→シニャックもその流れに属す。光点は判別がつかないものの、なんか細かい光点が一緒になって色を作り出しているような気分にさせる。一体見えているのは、「識別できないような微細な点」なのか。この表現は矛盾をふくんでいないか。

 
 
 
 

〔勉強のすすめ〕個々の図形の名称に言及することなく、視覚的な単純印象を表現することは可能か。そうした単純印象を言語的に表現する方策を考えよ。

4. ヒュームの逸脱 今まで経験していない青【problem of missing blueとモリヌークス問題】
 参考文献:加藤尚武(2008)『かたちの哲学』岩波現代文庫

[授業目標]経験されたことがないものは、イギリス経験論でどのように扱われたか

★単純観念に先行する単純印象がない場合を考えられるか、という問いに対して、直接それが「知覚」されたことがなくても(注意ここで言っている「知覚」はあくまで日本語の意味での「知覚」であって、ヒュームのperceptionではありません。)、考えることは可能である、と応答できます。
★微妙に違う二つの青色。その比較を通じて今までに見ていなくとも、その中間の青の印象に対応する単純観念を抱くことができるという具合にヒュームは答えました。〔ただしこれは「知覚」モデルの哲学の原則からの極めて稀な逸脱です。〕
〔問い〕ところで赤外音楽はどういう音色なのだろうか?赤外線はどういう色なのだろう?
〔問い〕ミツバチは紫外線を何色に見るか?
★とはいえ、観念には印象が先行するという「知覚」モデルの哲学の健全な精神は保たれるべきです。そうした精神がある(STAP細胞なら、ようせい、はっけん!!)からこそ、科学が「妄想」に陥らずに済むのでしょう。
 
〔資料〕熊野純彦、2006、『西洋哲学史 近代から現代へ』岩波新書、47ページ。
 ロックは『知性論』初版の公刊後、モリヌークスからの来信で、興味ぶかい問題を知る(一六九三年三月二日づけ書簡)。生まれつき視覚をもたない人間でも触覚によって立方体と球体の区別を知っているけれども、当人が開眼手術によって視覚を獲得したとき、当初そのふたつを見わけることができるだろうか、という設問である(いわゆる「モリヌークス〔モリニューと表記すべきであるという異説もある〕問題」。中略)。ロックの答えは、否である。そのひとは「手を不均等なしかたで圧迫する立方体の尖角が、立方体の尖った角としてあらわれる」という経験を経ていないからである。「球がひとつの面によって限界づけられていること」は、デカルトがそう考えたようには、万人の直観の対象ではなく、すべての人間が共有する本有的な観念でもない。

 この開眼手術を受けたばかりの人は、目で見る経験をまだ積み重ねていないはずです。言い換えれば過去の視覚情報のストックはないということになります。ですから、その人は言わば「純粋視覚」をしているのです。他方、視覚以外の触覚では経験しているとして、それを補助手段として使わないで、視覚だけで形を識別できるでしょうか。
 現代の信用がおけるデータでも開眼手術によっても形は、眼で「識別できない」という結果が報告されています。

〔資料〕加藤尚武、2008、『かたちの哲学』岩波現代文庫、102ページ
 先天性白内障で十六歳の時に片目だけ手術を受けた日本人の場合の報告がある。手術前からよく触ってよく知っていた茶碗、さじ、帽子だとか、特に教えて名前がいえるようにしておいた球、立方体、円、三角形、四角形の木片も、目の前に置かれただけではそれと気付かず、名前をきかれても答えをきかれても答えられない。急須を見て「何か」とたずねるので、「急須だ」と教えてやると、触って知っていた時の急須はもっと複雑な形だったと言ったそうである」。
【問題意識共有メモ】
 純粋視覚では形の認識は行われていない。→バークリィはここから触覚から得た情報を蓄積して、それと純粋視覚を総合することによって形が成立すると考えた。
→コンディヤックはそれに対して、空間の奥行きが視覚的に見て取られるという異論を提出した。

 加藤尚武によれば、ロックの書簡の要点は三点にまとめられる[→加藤尚武、2008、『かたちの哲学』岩波現代文庫、99ページ]
① 生まれつき目の不自由な人が今は成人して、同じ金属のほぼ同じ大きさの立方体と球体を触覚で区別することを教わり、それぞれに触れるとき、どちらが立方体で、どちらが球体かを告げることができる。
② 開眼手術でその人が見えるようになった今、テーブルの上の立方体と球体を初めて見て、触れる前に視覚で区別でき、どちらが球体でどちらが立方体かを言えるか。
③ 絶対確実には言えない。なぜなら、目の不自由だった人は、球体と立方体がどう触覚を感発するかの経験をしているが、「このように触覚を感発するものは視覚をこのように感発するはずだ」という経験、すなわち、手に触れる立方体の尖った角は、目に尖った角のあらわれかたをするという経験をまだしていないからである。
http://knowledgeandexperience.blogspot.com/2011/05/molyneux-and-puzzles-of-vision-part-ii.html

〔資料〕David Hume,A Treatise of Human Nature,1978, edited by L. A. Selby-Bigge, 2nd ed. revised by P.H. Nidditch, Oxford: Clarendon Press,p.35.
 「偉大な哲学者〔ロック〕によって注意を向けられたことだが、われわれのperceptionは心にもともと刻印された性質や構成で、個々独特に制約を受けており、それを超えて、感覚に対する外的対象が影響することによって、私たちの思考が促されたり妨げられたりすることは決してできない」。

〔前途瞥見〕

・机の裏側の見えは、印象として与えられないのに知っている。
・過去の出来事の知識は、印象として与えられないのに知っている。
・普遍的なことがらは、印象として与えられないのに知っている。
・因果的知識は印象によって正当化されないのに、知っている(つもりになっている)。

 こうしたことがらを考えるにつけ、ヒュームの路線に忠実であろうとすれば、そのことが知識に対する疑い・不信へと導くことに気づく。それに抵抗するためには、「人生論的決定」(一頁参照)にすがらざるをえないかもしれない。そうした「決定」の最たるものとして、実在への信?というものがあるように思われる。いささかヒュームその人から離れるかもしれないが、ヒュームが懐疑論を展開した後、理性的には正当化できないが、生きるうえで前提とせざるをえない虚想に言及するさい、そうした「決定」的要素を認めたという、見方を選びたいと思う。〔これに対して、実在を信ずるのは観念論ではないか、という反対意見があろう。しかし実在論の極北では、知と信が収束しうる、と答えたい。・・・このあたりヘーゲルの『信と知』の問題に接続する、やっかいな地雷原である。〕

5. ヒュームの視点にないもの――知覚の背面・キュビズム 大森荘蔵(1982)『新視覚新論』東京大学出版会
[授業目標]ヒュームの考察射程に入らない、視覚の問題としてどのようなものがあるか

〔問い〕次のような答え方はなぜ間違っているのでしょう。
 昨日、机の裏側に回ったとき、こう見えた。またさっき、机の裏側に回ったとき、こう見えた。両者の見え方は等しかった。したがって今の机の裏側は、これら等しい過去の経験から、類推できる。                             。 
 今、見えていない机の裏側の知識を想像するという考えには、大問題があります。
 背面に回るならばXが見えるとします。                    。 背面に回ることによって知られる机の裏側は〈今の〉机の裏側ではないはずです。
 未来の机の裏側でしょうか。                         。
 知られるのはその時制の(現在の)知覚のみです。                     。
 
※知覚していない事実が想像と反することはいくらでも想定できます。それは、〈今〉という時刻が一回限りであるという根本的な事実に拠るのです。
しかしながら机の裏側を知覚していない時、机の裏側がすっぽりと抜け落ちているなどとは考えません。言うならば厚み・奥行きがあるという了解、つまり机の裏側を読み込んでいます。つまり見えていない相(アスペクト)を風景に籠めて見ています。比喩を使えば風景はキュビズム的に立ち現われているのです。これは、ヒューム的な単眼的見方からの逸脱です。
〔問い〕キュビズムを説明せよ。
 岡山出身の有名なキュビズム画家の名前を挙げよ。    。
 それまでの絵画。                   。
 いろいろな角度から見たものの形→                      。
 立体的なものを平面的に理解しようとするのではない。              。
【問題意識共有メモ】
 知覚モデルの哲学ではキュビズム的な把握を処理できない。あくまでも知覚モデルは、遠近法主義的。今、視覚に関する二つの考え方を紹介しました。第一に奥行きを読み込むキュビズム。第二に「知覚の背面」を切り捨てる遠近法主義的写実。この二つのあいだに、哲学的な謎が口を開けています。
 
〔問い〕「キュビズムの謎」に関する以下の記述の空所を補え。
知覚の背面に属するものは何も机の裏側だけではありません。例えば時代劇の賭博においてイカサマサイコロが登場しますね。イカサマサイコロの中の特定の部位に、   が入っていて、ある数字の出る確率が高いというようになっています。そのサイコロの表面だけを見ていれば   は見えません。しかし当のサイコロをイカサマサイコロとして見ることにおいて、中に錘が入っているんだな、という思いを籠めることができます。ということでそうしたイカサマサイコロの中の錘も知覚の背面。
それから後ろを向いた人の、   にある右目。ある人を直接見ているとき、向かって   には必ず左目があるはずです。右側に裏側にある相手の右目を見ることはできません。にもかかわらず、後ろ側を向いている人の、   に右目の思いを籠めて、後ろ姿を見るはずです。つまり先と同様の「キュビズムの謎」が成り立ちます。
そもそも自分の  自体、知覚の背面に属するのではないでしょうか。確かに水面や鏡に映った顔は知覚できます。しかしそれは直接知覚された  ではありません。水に映った  は波紋で歪んでいます。そもそも鏡が自分の  を見せてくれているのだ、という保証はどこにあるでしょう。運動感覚と巧妙に一致する形で、鏡像がたまたま像を結んでいる、ひょっとしたら貴方の毎日覗いている鏡は、そんな魔法の鏡かもしれません。
 例えば顔の持つそうした不可知性に光を当てたのがエマニュエル・レヴィナスという20世紀の哲学者でした。例えば見られているものは、私の視覚の対象として与えられる限り、私の意識の一部でしかない。「絶対的な他者」があるなら、それは、その相対的な「他者」の向こう側にあり、相対的な他者のなかで痕跡を示すようなものであるだろう。そのような「他者」の現われとは「顔」である」。つまり顔自体は「知覚」されない、自分の他者であることを強調したのです。 http://www.ne.jp/asahi/village/good/Levinas.htm
〔資料〕鷲田清一、2002、顔の項『事典 哲学の木』講談社、150ページより。
 「〈顔〉という現象の特異性は、まず、それが見えているのに見えないという点にある。他人の顔をまなざそうとして眼を向けても、相手のまなざしがこちらに向けられ、眼がかちあうと、ひとはすぐに目を逸らせて、視線を外す。じっと見つめあうということに耐えきれないで。ということは、他人の顔をひとつの対象としてまなざすことは、盗み見というかたちで、つまり相手の視線が別のものに向かっているときにその顔をそうとは気づかれず横から見るというかたちでしかできないのである。ということは、〈顔〉は他の物体と同じように対象として見えるものではないということである。
 〈顔〉にはもうひとつ特異な現れ方がある。じぶんの〈顔〉である。じぶんの〈顔〉はこれまた見ることができない。その写し(たとえば写真)は見ることができても、〈顔〉として他者に現れ出ているそのわたしの顔は、わたし自身は対象としては終生見ることができない。じぶんの〈顔〉はだから想像するしかないもので、その意味でも〈顔〉は見ることができない」。
〔資料〕大森荘蔵、1982、『新視覚新論』東京大学出版会、16-17ページoomori.pdf へのリンク
 「二次元の視覚風景とは想像できないものなのである。絵とかスクリーンの上とかの風景が奥行きをもって見られる。しかしそれらが「実は二次元だ」ということそのことが三次元の視覚風景の中で初めて言いうることなのである。絵が三次元の画廊の風景の中で壁にかかっているからこそそれが(例えば)遠景に二次元に見えるのである。しかし、その中に立っている私を含めてその画廊全体の風景が二次元であるということは想像不可能なのである。
 だいたい、視覚風景とは私を包む風景である。私を中において私の前後左右上下の風景なのである。そして、その私自身は三次元の肉体、体積をもつ肉体としてしか考えることができない。この身体図式は視覚的であるとはもちろんいえない。しかしそれが視覚的であろうとなかろうと表と裏と中身がある三次元のものとしか考えることができず、そして視覚風景とはこの三次元の私の身体を包むものとしてしか見ることができないのである。だから当然、この三次元の私の身体を包むものとして視覚風景は三次元でしかありえないのである」。
 
「知覚の背面」の話は終わり。かくも知覚の風景は直接に「つかめない」多面的なものを抱え込んでいるのです。
★先のキュビズムと写実主義の間にある「キュビズムの謎」は、容易ならざるパラドクスをはらんでいます。そこから得られるのは、直接知覚できないものに、人間は思いを致すことができるという教訓。つまりヒュームの「知覚」のとらえ方は、窮屈すぎるのです。
〔問い〕見えているのは左図のような、「べったりした」風景だろうか。奥行きという論点を措いても、視界の「枠」を不用意に書いているという、過ちを犯していないだろうか。見ることと視点の移動ということは不可分の事柄ではないか。視点の移動を前提にすれば、「枠」というものは決して描けない。
〔勉強のすすめ〕風情(ふうじょう)の心理学 。知覚は情緒的要素にも汚染されている。では一般に色彩は心理状態を表しているものと言われるとはどういう意味においてか。
赤は「活動的で心身ともに健康だが、荒々しい塗り方や黒と一緒に使用の際は苛立ち」といった心理状態を表わしていると言われる 。
そのことはランボーという詩人が、「母音」と題するソネットに寄せて、
  
I(アイ) は緋色、吐いた血の色、怒り或は陶酔のうちに 
  改悛する人の美しい唇の笑み

と述べていたことを思い出させる。赤は心騒ぐ情動を興発する色調なのである。

 「相」として認知的な側面に注目してきたが、実は情緒的に「染色」されているのではないだろうか。すなわち、色彩表現に見られるように、作者の情緒的な層=風情(大森荘蔵の表現)が、絵画に投影されている。つまり風景には、「キュビズム的視線」が流用されているだけではなく、感情的な色眼鏡も盗用されている。これは何も、絵画に限ったことではない。喉が渇きに飢えている場合、茶碗はお茶を飲んでくれたら好さそうな、誘惑的な「風情」を醸す。また虚構に関連して、幽霊にびくびくしているとき、柳の枝の、さも襲いかかるような「風情」は強迫的である。
単に複視点的な情報が積み上がっているだけではなく、このように情緒的な情報も私たちの「知覚風景」には累加されているのである。情緒と実在が濃密に接合しているとしたら、幽霊のごとき虚構の迫真性を語ることもまた可能かもしれない。たとえそれが反省的には、心理的所産であるとしても。


6. 【印象と観念】過去は現在の記憶・「知覚」から知られる
  ――二十分前に宇宙がはじまったというラッセルの懐疑

[授業目標]過去の存在に関して、「知覚モデル」の哲学がもつ限界を知る
 「思い浮かべていることは、日本語の「知覚」のコピーである」というのが「知覚モデル」の哲学の基本。改めて注意を促しておけば、ここでの「知覚」はヒュームが言うところの印象にあたります。すなわち感覚器官を通して外界の事物や身体内部の状態を知る働き、もしくはその働きによって獲得されたイメージを言います。それに対して他方、ヒュームの観念は想起・想像されるイメージのことです。これら印象と観念をあわせて、ヒュームはperceptionと呼んだのでした。
 
〔問い〕以下のものは印象か。観念か。
   ・十秒前に聞いた「問い」という言葉の聴覚的響きの記憶。それは今、聞こえぬ。
・先にこの文を読んでいるとき、考えついた計画。 〔例えば恋人とデートするという計画は、恋愛映画の想像に似ていないだろうか。〕
・映画「ジュラシックワールド」(二○一五年)のストーリー。あらかじめ本で読んでおり、それを知っていたとする。・・・映画で現に見ている分には印象なのだが。ストーリーをたどるさい、恐竜を想像しているのである。
【問題意識共有メモ】
 「知覚」モデルの背骨は曲がっていなかったか? 今までの「知覚」モデルの道筋を振り返ろう。
 「知覚」モデルのテーゼ「思い浮かべていることは、日本語の「知覚」のコピーである」を言い換えれば、「観念は印象のコピーである」となります。
 
 
※恐竜のしっぽについて 図鑑で恐竜のしっぽを浮かせた状態で載せているのは最近のことでしょう?
 80年代後半あたりから恐竜の学説が大きく変わっています。コンピューター技術の発達により、筋肉の量や体重バランスを正確に計算し、CGで視認できるようになったからです。「恐竜は尻尾を引きずらないで歩く」説はそれ以前からありましたが、広く知られるようになったのは映画「ジュラシックパーク」(1993年)からですね。今から見ると間違いの部分も多いですが、当時の最新の学説を取り入れています。昔の恐竜図鑑で書かれていた、「ブラキオサウルスは水中で生活していた」という説は斥けられています。
 かつてプラキオサウルスは、体重が重いため水中にいて浮力で体を軽くしていた、長い首も頭頂部にある鼻の穴も頭だけ水面にだして呼吸をするため、とものの本には書かれていました

Break time
ジュラシックワールド
〔問い〕印象として直接「知覚」できない、過去のものはなぜ知りうるか。
 恐竜の化石を「知覚」しているが故にこそ知りうる。もしくは化石について覚えている知識がある故にこそ知りうる。                。
 恐竜に関連して「知覚」したもの・記憶しているものは何か。               。
 「知覚」した内容・及びそのコピーである観念(つまり過去の知識)は、ネットワークになり、知識の体系を作っている。         。
〔資料〕バートランド・ラッセル、1921、『心の分析』LecⅨ、159-160ページ。■
 「どれほど記憶に信念が伴っていようとも、そのことは、実際にその出来事が起こったということと論理的に無関係である。そもそも過去が存在したということさえも、信念の存在とは論理的に無関係なのである。
世界が五分前に、まさに五分前にそうであった通りの状態で、そして人々もまたまったく非現実の過去を〈覚えている〉状態で、生じてきたのだという仮説を立てても、この仮説は論理的に不可能でない。異なった時間の出来事のあいだには何ら論理的必然関係はありはしないのである。それ故、現在及び未来において起こるいかなることも、世界が五分前から始まったという仮説を反証できないだろう。かくして、過去の知識と呼ばれるものの成立は過去とは論理的に独立であり、全面的に現在の内容として分析可能なのである。

※遺跡や化石が五分前に作られたという言明は、それ自体理解可能である。http://www.strangescience.net/beringer.htmベリンガー事件のように化石が偽造された例もある。
〔問い〕しかし「私は昨日キンピラゴボウを食べた」という記憶が五分前に作られたとは、どういう事柄なのだろう。
 もしキンピラゴボウを食べた事柄と不整合な事実があった場合、作られた記憶は、記憶という身分をもたないだろう。したがってそれは偽造された「記憶」というよりは端的に、記憶の「偽造品」、――記憶と誤解されたことがあったとしても――「記憶ならざるもの」ではないか。つまり偽造された「記憶」は、「記憶」と呼ぶことさえおこがましいのである。

【問題意識共有メモ】
 ヒュームに留まる限り、この懐疑に対する答えは出ない。
→「経験の示すところによると、心に現われた印象は、再び観念として心に現われてくるが、その現われ方には二通りの異なったものがあるだろう。ひとつには、新しく現われるさい、その最初の活気をかなり保ち、ある程度印象と観念の中間であるような状態の場合。そしてまたひとつには、その活気をまったく失ってしまい、まさに観念」としてあるような場合である。第一の仕方で印象を反復する能力を、私たちは「記憶」と呼び、第二の場合を「想像力」と呼ぶのである」(David Hume,A Treatise of Human Nature,1978, edited by L. A. Selby-Bigge, 2nd ed. revised by P.H. Nidditch, Oxford: Clarendon Press,p.8)

 ベリンガー事件での化石の偽造における場合とちがい、ラッセルの場合、世界の証拠がことごとく、「知覚」・記憶ともども偽造されているのである。そうならば、世界全体に疑いを向けることになる。完全犯罪はもはや定義的に犯罪として認知しえない。したがって完全偽造は、もはや本物と見分けがつかない。逆に言えば、完全偽造は、本物一般への信頼を滅却してしまう。何でもかんでも、偽造品に成り果てる可能性にさらされよう。懐疑論として、一層根深い疑いが、ここに浮上する。それは実在論を食い破って、観念論すらも、懐疑の危険におとしいれる。〔けれども、――手の平を返すようで何だが、この懐疑はさほど破壊的ではない。私たちが出会うコピーとしての観念は、全部が全部コピーなら、話がひっくり返って、すべては本物、実在と一致している〈生き方をしている〉のである。極端な訂正を及ぼすかの場合でさえ、その記憶の核となる事実は、実在と「一致」しているのではなかろうか。つまり私たちは実在にいつも出会っているのではなかろうか。〕

7. 【絶対的知識と蓋然的知識】類似をめぐる若干の考察
  ――確実性の試金石となるものは何か

【問題意識共有メモ】 自然的関係には、「類似」「近接」「原因と結果」があるとヒュームは言います。 例えば、コントを演じる「たっち」。肥えた片方を思い描くとき自然にもう一人の双子の兄弟を連想しませんか(類似)。また例えば上野駅を思い描いてください。そうすると駅に隣接した公園の西郷隆盛像が浮かぶはずです(近接)。若しくは火を思い描いてください。当然、火は熱いものだという了解があります。つまり、火という観念は熱という観念と自然に結びついているのです。言い換えれば原因としての火は、結果としての熱を自然に連想させるのです(原因と結果)。
 他方で無理やり思考によって、観念を結び合わせることがあります。複雑な因果連関を考えて見ましょう。台風が来る。台風がリンゴの木からリンゴを落下させる。その結果、リンゴの値段が上がりアップルパイの値段も同時に上がる。普通、台風という原因からアップルパイの値段の高騰という結果は連想されないでしょう。しかし無理やり想像力の羽根を羽ばたかせることによって、観念間の結合は可能です。この場合も原因と結果の関係にある観念ですが、自然的関係ではなく、哲学的関係と見なすべきです。

〔問い〕『タッチ』の達也と和也は似ている。「建也と和也の顔が似ている」ことと「建也と和也の顔が同一である」ことという二つの知識があればどちらの方がより確実か。  双子の観念に類似が認められるとき                      。

 それに対し、同一性は絶対確実な知識ではないのです。                   。
 
類似のように確実な知識のことをヒュームは絶対的知識と呼んでいます(正確には、絶対的知識は関係という複雑観念ですから、留保が必要です)。急いでチャートにして、まとめておきましょう。
 類似に関する知識は疑いがたい。⇒すなわち確実である。
 
ヒュームの知覚モデルの哲学にとって重要な概念装置が登場しました。すなわち哲学的関係の中でも、疑いを挟む余地のない絶対的知識(knowledge)と、蓋然的知識(probability)の区別です。関係は自然に想像によって結合する自然的関係と、反省によって媒介される哲学的関係の二種類に分かれます。絶対的知識は哲学的関係の中の区別です。
http://oll.libertyfund.org/index.php?option=com_staticxt&staticfile=show.php%3Ftitle=342&Itemid=28#toc_list
【ポイント】 哲学的関係には、類似・同一・時空的関係・量的関係・性質・反対・因果の七つの関係があります。これらは二つの組に、分かれると考えられます。すなわち比較される観念にのみ依存する絶対的知識と、観念にはなんの変化がなくても変化しうるような蓋然的知識です。類似、反対、性質、量的関係は絶対的知識なのに対して、残りは蓋然的知識です。

 perceptionに与えられることが、知識の経験論的な判定基準になると考えられるだろう。言わば意識にナマのかたちで与えられている、ということが確実性の基準である。
 perceptionに何が所与として与えられていることの基準は、結局、「その否定が想像不可能である」ことに尽きる。
but
ケンタウロス像は想像可能ではないか。ということは、ケンタウロスはperceptionに所与として与えられていることにならないか。

〔資料〕David Hume,A Treatise of Human Nature,1978, edited by L. A. Selby-Bigge, 2nd ed. revised by P.H. Nidditch, Oxford: Clarendon Press,p.624.
 「信念とは単なる想念(simple conception)と異なる特異な感じ(peculiar feeling)に他ならない

op.cit.p.628.「ひとたび記憶に触れる事情が挙げられるや否や、このまったく同じ観念がたちまちのうちに新しい光の下に現われて、言わば以前と異なった感じをもつ。同じ観念は、この感じの変化以外にどんな他の変更がなくても直ちに記憶観念となって、同意を獲得する」。

※存在しているものについて想うか、存在しないことについて想うかの区別、もしくは絶対的関係について想うか、蓋然的関係について想うかの区別は、観念の様式である「感じ」のちがいによって説明できるかもしれない。ケンタウロスが存在するか存在しないかの判定基準は、「知覚」にさかのぼることができるか、というより「実在する」という感じが伴うか否かに由来する。注意:ケンタウロス像は実在するが、ケンタウロスは実在しない。

8. 因果関係には根拠がない・か?
  ――統計的に有意味な事象の関係について
[授業目標] 帰納的推論には確実な根拠がないことを理解する。

〔問い〕「4月生まれの日本人はリーダーシップを発揮している」という法則性を導き出す因果的仮説を幾つも考えなさい。

 一番、素朴な仮説は、小中学校で4月生まれの生徒は一番早く生まれているから、心身ともに発達が顕著で、それ故にリーダーを演じる機会が増えるせいにするものである。

 シュタイナーの論じるように無意識的にも「(私の周りの)世界は善であふれている」という感覚を早く、習得した児童は他人に対して善行をなす習慣をいちはやく身につけ、その結果として、他者からの信頼・他者に対するリーダーシップを獲得する。
 コールバーグの論じるように対人的同調を早く身につけた子は、大人からよい子として認められるから、優越心を感じるようになる。リーダーシップはその優越心の裏返しである。
 マズローの論じるように発育の早い子供ほど、他者から承認を受けたいという欲求を強くもつはずで、そのことがリーダーとなる心理的背景を形作るようになる。

〔問い〕「かくかくしかじかだから4月生まれの日本人はリーダーシップを発揮している」という因果的仮説は必ず成立するか。

 ここで少しヒュームの因果分析を見てみましょう。
 哲学的関係としての因果関係とは、因果関係の観察現場に立ち会わないで、それに関する判断を下す場合です。例えば、木から離れたリンゴは、地球に引かれて落下することを想像する場合。もしくはタレントのブロマイドを見たらファンになると、想像する場合のように。もっと因果関係を複雑にすることも可能でしょう。例えば、1kg重の重さがかかると、本棚が倒れるといった関係や、さらには、ブランコ乗った、人の重心の上げ下げが揺れを大きくするといった関係などが哲学的関係です。
 ヒュームによると反省してこうした因果を帰属させる場合には三つの基準が働くと言います。

〔問い〕ヒュームの因果性の基準を三つ挙げよ。
①      ②      ③     。 

 重要なのは必然的関係ではなく、恒常的な連接関係・つまり規則性が因果関係の必要条件と考えられたことです。

注意 ビリアードの衝突において因果関係などなく、玉が当たると続いて他の玉が動く、という現象の連続があるにすぎないでしょう? 
以下、ヒュームの因果性の分析において、個々の観察から法則を導き出すこと〔帰納的推論〕に、疑いが提出されたのかのでしょうか。
まず一回の観察だけから、理論や法則を導き出すことは不可能です。例えば、普遍言明として「私の買う宝くじは常に当たる」を考えて見ます。この文章も「常に」という形で、普遍的な事柄に言及している法則です。もし一回宝くじが当たったとして、「私の買う宝くじは常に当たる」と言えるでしょうか。決して、そうは言えないでしょう。
〔問い〕では一個の経験、「一個の玉が当たったら、他の玉が動く」ことから、玉の衝突は必然的に他の玉の運動を惹き起こす、という法則を導けるでしょうか(少し考えてみてください)。
では十分多数の観察言明が得られたら、普遍言明を導き出せるでしょうか。「私のもらった年賀はがきのうちには、これまでずっとお年玉切手当選のはがきが含まれていた」、故に「私のもらう年賀はがきの中には、必ずお年玉切手に当選したものが存在する」と言えるでしょうか。
 今日まで、多様な条件のもとで、多数のカラスを観察したが、それらはすべて黒かった。これを元にして、すべての「カラスは黒い」と結論することは妥当か。
 この帰納的推論の前提は、「カラスXは時刻に黒いということが観察された」といった形の、多数個の単称言明であり、それらすべてが真であるとみなしている。しかし、次に観察するカラスは白かもしれない。明日、地球は小惑星と衝突して木っ端みじんとなり、太陽は東から上らないかもしれない。
〔問い〕経験的法則が、必ずしもすべての場合について当てはまらないことの例を考えよ。
 
〔資料〕A・F・チャルマーズ著/高田紀代志・佐野正博訳1985、『新版 科学論の展開』恒星社厚生閣、39ページ。
 例えば帰納主義者だった七面鳥の哀れな物語があります。日曜日にも、水曜日にも、雨の日にも、晴れの日にも、夏の日にも春の日にも、何時も九時になると餌を与えられていたとします。そこで七面鳥は帰納的推論を実行して、毎朝九時になると餌を与えられるという結論を導き出しました。しかし哀れなことに、この推測〔帰納的推論〕の結論は、誤りであることが明らかになるのです。というのも、クリスマスイヴの日、餌を与えられる代わり首を切り落とされてしまい、丸焼きになって食卓に出されることになったからです。[→バートランド・ラッセル著、中村秀吉訳、1964、『新訳・哲学入門 50』現代教養文庫・社会思想社、64ページ]
 

〔課題〕およそ、宗教というものは科学以前の実践によって先取りされるものである。そうした宗教に強みがあるとすれば、どのような点か。
〔解〕循環構造が宗教の弱みであり、また強みである。次のようなケースを考えてみよう。イエスは神の子である←なぜか・聖書でそう述べてあるから正しい←なぜか・聖書は神の子イエスがそう述べているから正しい。というなら、結局「イエスは神の子である」を繰り返し述べていることになる。つまり、論証以前に、「イエスは神の子である」を先取りしている。その意味で帰納の手続きと似ている。宗教についてはむしろ、論理による正当化を語る前にこう述べればよい。「宗教的な真理が存在する。ピリオド」。
 この独断で居直ることは宗教の非合理性だろう。もう少し回りくどい表現を使えば、観念形態として完結していると言うのである。たしかに「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」(ウィトゲンシュタイン著、野矢茂樹訳、2003、『論理哲学論考』岩波文庫、149ページ)というウィットゲンシュタインの言葉に相違して、語りえぬ(論理的に正当化しえない)ことについてあえて宗教は言及する。つまり宗教は、科学では表立たないことについてあえて示唆している。してみれば信仰の強みは、端的に或る種のことがらを、あえて説諭するところにある。
 だが宗教という枠を外して、生まれ変わりを考えてみよう。記憶をとどめず生まれ変わることは、永続しない一回の生を生きることと同じである。つまりこのことは、一回の生が無限億回の生まれ変わりと等しい重さをもつことを意味する。ニーチェの永劫回帰参照。〔「おまえが現に生きており、また生きてきたその生を、おまえはもう一度、いやさらに無限回にわたって、生きねばならぬ。そこには何一つとして新しいことはなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思いとあらゆるため息、おまえの生の言い尽くせぬ大小すべてのことが、おまえに回帰せねばならぬ(後略)」(ニーチェ著、1980、『華やぐ知識』白水社、341章)。〕
 一回限りの生に自足することのうちには、永劫回帰と等価の、この一度きりの生を限りなく愛おしむことが含まれている。たとえ生というものが、無意味なもの、よしんば限りなく乏しい意味しかもたないとしても。

9.【個別と普遍】普遍代表説
  ――個物しか知らないのになぜ普遍的なことが分かるか

[授業目標]普遍をいかにして知ることができるか

★「知覚」されるものは特殊である。ゆえに特殊でないなら「知覚」されない。ゆえに普遍は「知覚」されない。
★「知覚」モデルの哲学は「知覚」されるものだけが認識されるとする。つまり「知覚」されないものは認識されない、と考える。→ここから普遍は認識されない、と「知覚」モデルの哲学は考えた。
★もしくは普遍で認識したつもりになっているのは、実は特殊な観念である、と。
★裏返せば、普遍的な抽象観念は存在しない。

〔資料〕大森荘蔵、1999、「存在の意味」『大森荘蔵著作集 第八巻』岩波書店。■
 「普遍に関する経験論者の苦情の源は、普遍が何を意味するか了解できないという点にある。個別的な個々の犬が何であるかには何の問題もない。その姿を見、その声を聞き、手でなでればよい、つまり知覚によって苦もなく了解できる。ところが犬一般という普遍は見えもせずさわれもしない、捉え所がないというのである。ロックが提案した三角形一般に対してバークリィが、等辺でもなく不等辺でもない、直角でもなければ鋭角でもない、そんなないない尽しの三角形などあるはずがない、と嘲笑したのがそれである。
 だがバークリィのせりふの欠陥は見え見えであろう。つまり彼は、普遍的三角形に個別的三角形と同様な知覚可能性を要求してそれがないことを罵っているのである。しかしこれはバークリィに限ったことではない。ソシュールを始め言語学者の多くは、一般名辞である「牛」とか「三角形」の意味として得体の知れない「イメージ」を考え勝ちである。すなわち、想像の中で知覚できるような牛や三角形の定かならぬ姿を一般名辞の意味だとするのである。
 普遍を何か知覚可能なものと考える、というこの強力なしかし何の根拠もない誘惑に負けるのが、経験論者や唯名論者のはやり病なのである。そしてヒュームのように、了解済みの個別者の把握から何らかの心理的あるいは論理的な仕組みで普遍の了解を組立てようとするのが、それは論点先取とか循環論の罠に落ちてしまうことはフッセルが『論理研究』でとっくの昔に指摘した通りである」。

〔問い〕普遍的なものを見たことはあるか。赤十字のマークをそこかしこに見たとして、普遍的な博愛精神を見たことになるか。

〔資料〕David Hume,A Treatise of Human Nature,1978, edited by L. A. Selby-Bigge, 2nd ed. revised by P.H. Nidditch, Oxford: Clarendon Press,p.17.
 「抽象観念、もしくは一般観念に関して、きわめて重要な問題が提出されている。抽象観念が心に思いいだかれるとき、それは一般的なのか、それとも個別的なのか、という問題である。さきごろ、一人のすぐれた哲学者〔バークリィ〕がこの点についてそれまで認められてきた意見に異論を唱え、一般観念は実際はすべて個別観念であり、それに一定の名辞を付加したものにほかならないと主張した。この名辞が個別観念にもっと広い表現の範囲を与えて、機会に応じて、それと似たほかの個物を思い起こさせるのだ、というのである。これは学界で近ごろなされた最もすぐれた、最も評価すべき発見の一つだと私は思う」。

〔問い〕赤を思っていたとする。その赤は、具体的にどのような例である場合があるか。

〔問い〕個別的な観念しか思い描けないとして、一般に三角形の内角の和が二直角であることは、どのようにして分かるか。〔注意・この普遍代表説のストーリーは、巧みに普遍ということを回避しているように見える。しかし、あらかじめ普遍ということを、すでに知っていないと、平行線の作図自体ができないことに気づく。異なる三角形において底辺に対して、同じ平行関係にある直線という、普遍的な了解のもとでの平行線を引かなくてはならないのである。あらかじめ、同一の関係にある位置関係を読み込まなくては、到底、思考を進めてゆくことができない。すなわち普遍的な考えを先取りしているのである。つまり、具体的で特殊な経験を相手にしているつもりでも、経験の本質に関連する普遍的なものを密輸入している。このような事情を考慮して、現象学は、普遍的な本質を直接把握する、本質(範疇的)直観をもちだした。すなわち、経験的のなかの本質をどんぴしゃりと射貫く、精神的「眼差し」を人間はもっている、と言うのである。ちなみに九鬼周造という哲学者(わたくしの親戚ではない)は、日本文化に固有の「いき」という概念の本質をつかむことが可能であると考え、『「いき」の構造』 という本を著わしている。〕

〔資料〕David Hume,A Treatise of Human Nature,1978, edited by L. A. Selby-Bigge, 2nd ed. revised by P.H. Nidditch, Oxford: Clarendon Press,p.22.
 「どんな一般的名辞を用いるときでも、われわれは個物の観念を形作るのだということ、その際、これらの個物を残らず取り上げるのはほとんど、というよりけっしてできないということ、そして、取り残された個物は、その場の事情が必要とするときは、それを呼び起こす習性によって代表象がなされるときに限られるということ、これらはたしかなことである。かくしてこうしたことどもが抽象観念、及び一般的名辞の本性であり、そして前述した逆説のように思われること、すなわちある観念は、その本性が個別的なのに、代表象作用は一般的であるということも、このように説明されるのである」。

 バークリィとヒュームの異なる点(ヒュームの独自性)
→一つの心像(image)がそれに類似する個別的観念すべての代わりとなるのは、習慣的連想によって、それら諸観念を再生させる機能をもつからである。例えば三角形一般を考えているときとは、あれか、またはこれかの三角形を不定な仕方で考えるという場合ではなく、どんな三角形をも指示しうるものとして三角形という言葉を用いている場合を指している。
※注意 バークリィが抽象一般観念を斥けるのは、単にそのような心像が存在しないからではない。ある場合、例えば神や意志の観念の場合、彼は心像のない観念を認めている。彼が否定しているのは、抽象観念を対象となしうる能力と、数学者が彼らの証明に抽象観念を必要とするという主張である。

10. 【個別と普遍】抽象観念の背理
  ――犬を定義できますか・現代形而上学入門
[授業目標]
犬の定義にとって本質的なことは、生物学的規定でないことを知る

抽象観念を文字通りの意味で受け止めるならば、リンゴを考えることはないないづくしのリンゴを考えることと直結します。これはわけのわからん抽象的なリンゴを考えることになって、矛盾を抱え込んでしまうのではないか・・・ここに抽象観念が表舞台に出られない訳があります。この弱みが自覚されるようになったのは、二十世紀初頭の現象学運動です。
【現象学】 (2)意識に直接的に与えられる現象を記述・分析するフッサールの哲学。現象そのものの本質に至るために、自然的態度では無反省に確信されている内界・外界の実在性を括弧に入れ(エポケー)、そこに残る純粋意識を志向性においてとらえた。実存哲学などにも影響を与え、サルトルによるイマージュの現象学、メルロ=ポンティによる知覚の現象学などが生まれた。三省堂提供「大辞林 第二版」より
 
それ以前にこのないないづくしの抽象観念の落とし穴に答えようとした悪戦苦闘から、普遍代表説が成立した、と言えます。あらかじめ言っておけば、普遍代表説は普遍の問題に関する最終的な回答を与えたわけではありませんし、これから述べる批判によって、代わりの最終的解決が与えられたわけではありません。
まず、ないないづくしのリンゴを考えることがどれほどの矛盾を抱えているか、確認しておきましょう。
例えば女優の観念を思い描いてください。心に現われるのは特定の女優の個別観念と普遍代表説ならば答えるでしょう。例えば女優といった時、心に現われているのは、福原愛ではなく伊東美咲のイメージであると、普遍代表説なら答えるでしょう。心には、ないないづくしの、奇妙極まる抽象観念現われているのでしょうか。それよりは、具体的イメージ伊東美咲の方が考えやすい。つまりないないづくしの女優を考えるよりは、「めぞん一刻」の具体的イメージを浮かべていると言った方がよほどわかりやすい。
 問題は一般的なことを考えているとき、頭の中に抱いているイメージは何か、という一点です。
 
〔問い〕めぞん一刻の具体的イメージを浮かべているときどんなイメージか。

犬の生物学的な規定
 脊椎動物亜門の食肉類(ネコ目)哺乳(ほにゆう)類の一グループ。食肉類哺乳類とは一般に、肉を切り裂くのに適した臼歯(裂肉歯)をもつ。古生物学的には漸新世以降に多様化したとされる。ネコ科・クマ科・イヌ科・アザラシ科が代表的で、肉食性の種が多いが、主に植物を食べるものもいる。鰭脚(ききやく)類を含まないとする主張もある。食肉目。
 特にイヌ亜目[現在知られている限りでは、約4,200万年前(新生代古第三紀始新世前期後半ルテシアン)の北アメリカ大陸の平原に出現したダフォエヌス亜科(Daphoeninae。ダフォエヌス属[Daphoenus]のみ。アンフィキオン科[en]に属す)をもってイヌ亜目の始まりとする。]のイヌ属 イエイヌを指す。[from Website]

http://ja.wikipedia.org/wiki/E%E3%83%86%E3%83%AC0655%262355#.E3.81.AD.E3.81.93.E3.81.AE.E3.81.86.E3.81.9F.E3.83.BB.E7.8A.AC.E3.81.AE.E3.81.86.E3.81.9F

 マンガ『永遠の野原』に登場するのは犬のみかんです。同じくマンガ『みかん絵日記』に登場するのは猫のみかんです。というわけで、なぜ犬の集合を集めるさい、(犬の)みかんのみが拾い上げられるのか、(猫の)みかんが切り捨てられるのか、という問題が生じます。そこで犬とは何であるか、生物学的な規定を知る前から分かっていたことに気がつきます。

南総里見八犬伝における犬
 ①嘉吉元年(1441年)、結城合戦で敗れ安房に落ち延びた里見義実は、滝田城主神余(じんよ)光弘を謀殺した逆臣山下定包(さだかね)を、神余旧臣・金碗(かなまり)八郎の協力を得て討つ。義実は定包の妻玉梓(たまずさ)の助命を一度は口にするが、八郎に諌められてその言葉を翻す。玉梓は「里見の子孫を畜生道に落とし、煩悩の犬にしてやる」と呪詛の言葉を残して斬首された。→犬は人間の従者であること・もしくは人間より劣った存在でありこと。
 ②長禄元年(1457年)、里見領の飢饉に乗じて隣領館山の安西景連が攻めてきた。落城を目前にした義実は飼犬の八房(やつふさ)に「景連の首を取ってきたら娘の伏姫(ふせひめ)を与える」と戯れを言う。さもあらん、八房は景連の首を持参して戻って来、義実にあくまでも約束の履行を求める。その結果、伏姫は八房を伴って富山(とやま)に入った。
 ③富山で伏姫は読経の日々を過ごし、八房に肉体の交わりを許さなかった。翌年、伏姫は山中で出会った仙童から、八房が玉梓の呪詛を負っていたこと、読経の功徳によりその怨念は解消されたものの、八房の気を受けて種子を宿したことが告げられる。懐妊を恥じた伏姫は、折りしも富山に入った金碗大輔(八郎の子)・里見義実の前で割腹し、胎内に犬の子がないことを証した。その傷口から流れ出た白気は姫の数珠を空中に運び、仁義八行の文字が記された八つの大玉を飛散させる。これが里見八犬士に宿る玉の由来である。→八犬士はいずれも忠義の士である。犬が従順な存在であることがほのめかされている。

Break time
https://www.youtube.com/watch?v=fEgLpstBTqQ

〔問い〕日常的に了解している犬(イエイヌ)の定義はどうなるだろうか?(ここでは名目的定義を問題にしています)

〔問い〕虚構の中に登場する犬も、犬の本質を共有しているのではないか。これに対して、ディズニーのグーフィーのように、人間語を話せる犬は犬ではない、という応答もできるだろう。しかし人間語を話せるという属性は、グーフィーの特殊な性格ではないか。もし人間語を操れるものが、すべて人間であるとしたら、『吾輩は猫である』の猫も人間と言うことにならないか。

11.死という観念を如何にして知ることができるか
   参考書:大森荘蔵(1976)「三つの比喩」『物と心』東京大学出版会。
[授業目標]死後を想像できるというのは、どのような意味か考察する

 ヒュームに従うと、基本的に観念に対して印象(「知覚」)が先行します。
 もちろん内省の印象のように、観念がよみがえって現われるとき、新たに印象が生じるという例外ケースはありますが、基本線では印象、日本語で言う「知覚」が先行します。
【問題意識共有メモ】
 私たちは死を知っていると思っています。けれども、元々、想像することすら不可能なものではないでしょうか。
 
〔問い〕不思議なことに(!)、想像不可能なことを想像している、と言いたい局面に出会います。例えば帰謬法(背理法)という証明方法があります。ルート2が無理数であることの証明〔を行え。〕のさい、想像できてはならないことを想像しています。
  
〔問い〕想像不可能なものとは何でしょうか?例えば、丸い四角を想像不可能であると言いたくなります。けれどもそれは本当に想像不可能なのでしょうか?四つの直線が四つの角を作りながら、しかも或る一点から等距離にあると想像することはできませんか?丸い四角の観念は本当にないのだろうか。曲面上の四つの測地線で囲まれていながら、三次元的にはある点から等距離である平面は考えられないだろうか。例えば球面上の四角は球体の中心から等距離にある!!
 逆に言えば、今見えていない公園の樹木とか、眼前の机の裏側とかを、想像することは簡単なことなのでしょうか?一体想像不可能とはどのような事態を指すのでしょう?
 暗闇の中で赤く見える薔薇(実はHPの画像のようには赤く見えない)。                          。
 考えの筋道がこんがらがっている。                       。
 想像不可能とはどういうことか、われわれは明確に考えることはできない。
〔問い〕空所を補充せよ。
 もう一度、机の裏側についての、省察にもどりましょう。そのさい、現世から離れた事柄を想像しているなどと思ってもみないでしょう。しかし今見えていない机の裏側は見えないことは絶対確実です。そこから、想像されているのは現在の机の背後なのではなく、後刻、机の後にまわった時に知覚されるであろう未来の背後なのである、という答え方をしたくなります。おそらく「存在するとは知覚されていることである」という     ならば、何を想像しているかと問われて、未来に見る知覚的想像をもち出すことでしょう。ここには「車の渋滞のような思考の滞り」があります。相矛盾した思考の両極が絡まりあっているのです。一方には日常茶飯の     =これから見る未来の机の後姿、電気をつけた時のバラの赤色があり、他方には      =机の現在についての想像(現在の背後の知覚的想像)が並んでいます。
〔問い〕キュビズム的現われについてまとめよ。
そこに机が見えていて、思い出したその後姿は、過去の見え姿でしかありません。したがって、現在の後姿は架空の世界での後姿以上を出ません。にもかかわらず、その架空の想像なくして、この机は今、現に見えているようには見えないでしょう。つまり机は、後姿を引き摺っている、もしくは机の「知覚」には、架空の想像が籠められているのです。
 
【問題意識共有メモ】
 そうした知覚が引き摺る思いの「独特さ」を強調するため、大森荘蔵は、ヒュームの使った言葉をかりて「虚想」(fancy)と呼ぶことを提案しました。
 
fancy =to believe without being certain <she fancied she had met him before>
 「虚想」についての理解のために・・・ここでヒュームのお勉強。物的実体ばかりか、心的実体をヒュームは否定します。
※補足:実体とは、独立に存在し、時間的持続性をもっているものを言います。
〔問い〕現象するのは、刹那の印象や観念にすぎないようにも思えます。だからといってヒュームは外的物体がない、という結論に急いだりはしません。外的物体は「虚想」であると言います。ではどのような意味において「虚想」なのでしょうか。
     には正当化されないが      にとって不可欠なものと見なす。
「虚想」は理性によって正当化されないものの、現実を構成していく必須の一部です。
〔問い〕空所に人名を補充せよ。
         の警句に「死とは他人にのみおこる事件である」という言葉があります。また古代の      は唯物論を信奉し、自分は死を経験することはないと論じました。しかるに、その一方で人は自分の死後の家族を案じ、身辺を整理し、葬式は簡素にと遺言し、遺贈を約束するのが人の現実です。それが自分の生き方において、死後の存在し続ける他者の世界を「レアリティ=実在性」のあるものとして考えることです。
〔問い〕わたしは自分の死後の世界を想像できるでしょうか。
 それにもかかわらず、たとえば自分の葬儀風景の知覚を想像するならば、それは前提となるべき条件、自分の死という条件を犯しての想像です。つまり、自分はまだ死んでいない、少なくとも死に切ってはいない限りでの想像です。それは生きることのできぬ死者たる私が生き残る、という虚想なのです。〔ただし、知覚できないで記憶がただ堆積する存在が、死後の私なのかもしれません。ただし、そう断言できる根拠もないし、――驚くべきことに――それを打ち消す根拠は、何もありません。〕

〔勉強のすすめ〕自分がいる限り、自分がいなくなることは考えられない。自分がいないということでさえ、自分がいることを前提したうえでの話である。ということは、どこまでも考えている私がいる。その私が、死を考えられるということは、一つの不思議ではないだろうか。考えてはいけないもの、想像できないものにもかかわらず、死は〔思考の産物ではなく、〕現に存在する。しかも、死とは一つの無、「ない」ではないだろうか。死とは無があることであり、存在する私が無を考える。しかるに存在するものがおのれの存在せぬことを考える、ということは無理な話ではないか。
 この不思議にどう接していけばいいのだろう。一つは不思議を不思議のままで認め、打ち止めること。そもそも想像できないことについて私たちは、確たることを知らないのである。考えられないはずの無を考えてしまっている。能力の限界を超えた思考である。おそらく、人生観・死生観のプライヴァシー〔私的な物語り〕に属する「矛盾」である。その「矛盾」を「矛盾」のまま受け容れるのが一つの態度であろう(「死後が有でありながら、無を考えることができる」、「そもそも死後の私は無ではない」という考えについては、次の〔勉強のすすめ〕参照)。
 もう一つは、不思議さを消去する態度。そもそも、死とは、「内側から見た」実質をもたない概念なのであって、その体験を想像するのは、土台無理な話なのである。恐らく「痛みのない歯痛」の概念でせよ、内と外(?)の区別を想定をしたうえで、内の痛みを消去するという操作によって、その概念を獲得できる。それに対し、死の場合、内と外の区別が、そもそも成り立たないのである。この区別が意味をもちえないとするなら、死とは徹頭徹尾、外側からなる概念であり――他人の死体を見、それを「外から」観察するということで尽きている。それ以上でも以下でもなく、そこには何の紛れもないことになる(池田晶子、1999。野矢茂樹、2014(←2004)を参考にした)。
〔勉強のすすめ〕私は死後の自分を想像できるだろうか。おそらく難しい・・・・。それでも死後、自分が存在していると言いたくなる気分はある。ただし死を考えられないというのは、死後を洞察できない有限な能力のうちでの話である。しかし人間は、無限を考察する能力をもつかもしれない。ひいては「霊的な能力あり」と言いたくなる。とするなら、それに対応して、死後「生き残る存在」?となるかもしれない。死んで、霊的な「理想的」存在に変貌するのであろうか。例えば、死後の私は、記憶の想念だけが降り積もる奇妙な存在ということになるのであろうか。
 いややはり、死後の私の存在を考えることはできないのである。自分がいなくなることは考える能力を超えている。つまり、あくまで死とは無である。しかもこの無は、現世の存在と比較することができない、特異性をもった絶対的無ではないのか。たとえ死という「不可能性」が、生きるということの、人生観的背景をなすことはたしかだが、絶対的無の特異性を否定することはできない。要するに死というものは、絶対的無、特異的無として、実在の彼岸に把握されるのではないか(けだしこれが、現に実在すること、つまり「実存」ということを前面に立てる実存主義なのである)。
 死後を絶対的無・・・さらに強めて絶対的無ですらない無なら、それは分からない。それゆえにこその、迫真のレアリティーをもってくる。例えば以下の大森荘蔵の発言を参考にせよ。大森荘蔵座談集(井上忠・加藤信朗との対談) 、1994、86-87ページ。
 「大森 それ(根拠はまた死の問題とも引っかかってくること)は私、なんともまだ迷いの最中です。今のお話の死んだらハデスへ旅行して昔の死人と会うというんだったら、普通の意味では死んでいないわけですね。本当に死ぬというのはわれわれの感じでは、自分がなくなることです。それも、物がなくなる、消滅する、といったなくなり方ではありません。世界に面している私が居なくなくなること、したがって私の面している世界もなくなることです。私はそれに恐怖を感じます。正直に申し上げまして、この死の恐怖ということから、井上(注:井上忠)さんのように私は逃れることはできません。しかし、その死の恐怖と言ったときの、その死ですね。死ということをわれわれが考えるとき、あるいは死に脅かされるとき、私はまだ死んでないから、死や死の恐怖を考えられるのです。と同時に死んだことがまだないので、何を考えてよいか確かでないのです。私がもっておりますその恐怖の死を、私はまだ見定めることはできないわけなんです。この、今こういうことを喋っている私そのものが居なくなる。これは何か財布がなくなるとかそういうんじゃなしに、まったく何もかもなくなるわけですね。と、私は今は考えますが、一体それで何を考えているのか……、私には見えません。しかもですね、見えないにもかかわらず、なくなるということには冷汗のようなものを感じます。ですから、これ以上申し上げることはできないんです」。

12.【共時性の精神分析学】他者の心をいかにして知るか
  ――解釈的に有意味な事象の関係について
[授業目標]心身問題に関連して、精神分析学の概念に親しむ

 古典的な哲学的問題として、他我問題と呼ばれるものがあります。すなわち他者の心はいかにして把握しうるか、他者の痛みの意味はどうなっているか、について問うものです。
〔問い〕空所を補充せよ。
近代哲学の父     は世界が物と心の二種類の実体からなっているという   二元論を持ち込んだ、と〔俗に〕言われます。もし物と心が別々の存在なら、心はいかにして物についての事柄を知りうるのか、が問題となります。さらに言うと、もし心に他人の心の   しか知りえないならば、その原物に関する知識を獲得できないでしょう。というのも知られうるのは、その写しだけであって   には手が届かないからです。ここから、「私は痛い」という命題の痛みは理解しているが、方や「  の痛み」の意味は知りようがない、といった問題が派生します(他我問題)。なぜって私の心の中にあるものしか、感じ取ることができないのですから。どうしても私が「感じえない」ものには、意味の与えようがないと思われます。
 これに対して、ヒュームは自らの基本路線に反してまでも、感覚主体の敷居を越え、他人の感情を知り得る(感情の共有に限定されていることに注意して下さい)という可能性を残しました。すなわちそれが   という、情念のメカニズムです。感情は共鳴できるかもしれませんが、痛みは共有することはできません。
〔資料〕Hume,David,A Treatise of Human Nature,1975, edited by L. A. Selby-Bigge, 2nd ed. revised by P.H. Nidditch, Oxford: Clarendon Press,p.317
 「或る情念が共感によって心に注入されると……外的記号によって知られるだけでこの記号が情念の観念を心に伝えるのである」。
 
  すべての知識の源は、日本語で言う「知覚」であることに注意しておきました。もし自分の「知覚」しか知りえないならば、(心の)知識は私に限定されるでしょう。にもかかわらず、ヒュームは情念(感情的なものに限定)を他人と共に感得することを認めました。
源氏物語に見られるように、心的情念はヒュームのごとき、特殊なメカニズム(ただしヒュームの共感を採用したというわけではありません)によって認知されます。それに関連して、源氏物語の霊魂観について言及しておきましょう。しばしば『源氏物語』は「もののけの文学」と呼ばれることがあります。
※源氏物語といえば、丸谷才一の小説『輝く日の宮』が思い出されます。その中で、『奥の細道』が執筆された動機をめぐる挿話、泉鏡花的な短編小説を織り込みながら、源氏物語の「光源氏と藤壺」の最初の契りがなぜ描かれていないか、という謎解きが推理小説もどきで、されています。それが話の横糸なら、主人公国文学者杉安佐子の恋物語は縦糸です。
〔資料〕宗雪修三、1999、「もののけ」の文学『世界の文学24 源氏物語』朝日新聞社、8-104ページ。
 平安時代における「もののけ」や「霊」の主に貴族間での歴史社会的状況、さらに平安時代の文学における「もののけ」「霊」の種々相については、藤本勝義氏によって精緻な研究がなされている。それによれば、平安時代初期には、政治的な怨恨を抱いて死んでいった者たちによって起こされた、社会的な疫病や天変地異を鎮めるために、その鎮魂を目的に行われた「御霊会」が中心であったが、平安時代中期以後にはそれは衰退し、むしろ特定の個人にとり憑き苦しめる「もののけ」「霊」が問題とされるように変化していった。
 そのような歴史社会的状況を背景として、しかしたんなるその反映や文学的題材としての利用にとどまらず、『源氏物語』は、独自の「もののけ」観やそれとの密接な主題的関わりによって、希有の文学的達成をなし得た。すなわち、未曾有の文学的形象が与えられた六条御息所の「もののけ」の心理と働きによってこそ、『源氏物語』は、その文学的主題が作品全体としての深まりのうちに、継続し追求されていったのである。そういう意味で、『源氏物語』は「もののけ」の文学、いや「六条御息所のもののけ」の文学であると言えよう。
 賀茂川でみそぎをする斎院に供奉する行列は、当時たいへんな見物であり、その見物席を得るためにしばしば激しい争いが起こったのであるが、忍び姿で見物に来ていた六条御息所のところに後から葵上の車がやって来て、両者の間に争いが起こり、御息所は散々な目に遭った。この車争いの日以来、御息所は葵上に対する恨みを意識の深層では消すことができず、結果的に生霊となって葵上にとり憑き、最後には死に至らせてしまうのである。
 このように、「もののけ」が生霊の形で描かれるのは、六条御息所が文学史上はじめてであり、そのことによって、「もののけ」として憑く側の人間の心理の隅々が描かれることが可能になった。また一方、「もののけ」の存在という社会的俗信を、まったくそのまま信じていたわけではなく、その正体を「心の鬼」(=良心の呵責)と考える近代科学的視点も併せ持っていたことによって、「もののけ」の跳梁に立ち向かう光源氏の深層心理、すなわち後悔・嫌悪・自責・悲哀にいたる、こまごまとした心理描写を可能とし、さらに光源氏の一生を見通す光源氏物語の主題にまで関わり得たのである。

例えば若菜下の祈祷の場面が思い出されます。以下若菜下からの引用。 ■

 「いく壇もの御修法の壇を壊して、僧たちも残るべき人は残っているが、ばらばらと立ち騒ぐのを御覧になると、「それではもう最期なのだ」とお思い切りなさるその情けなさに、他にどのような比べるものがあろうか。
 「そうは言っても、物の怪のすることであろう。まことに、そんなにむやみに騒ぐな」
と皆をお静めになって、ますます大層ないくつもの願をお立て加えさせなさる。すぐれた験者たちをすべて召し集めて、
 「有限なご寿命であるから、この世でのご寿命が終わったとしても、ただ、もう暫く延ばして下さい。不動尊の御本の誓いがあります。せめてその日数だけでも、この世にお引き止め申して下さい」
と、頭から本当に黒い煙を立てて、大変な熱心さでご加持申し上げる。院も、「ただ、もう一度目と目を見合わせて下さい。まったくあっけなく臨終の時をさえ、会わずじまいであったことが、悔しく悲しいのですよ」
と取り乱している様子は、生き残っていらっしゃることができそうにないのを、拝見する心地は、ただ想像できよう。大変なご悲痛を、仏も御照覧申されたのであろうか、このいく月もまったく現れなかった物の怪が小さい童に乗り移って、大声でわめくうちに、だんだんと生き返っていらっしゃって、嬉しくも不吉にもお心が騒がずにはいらっしゃれない」。

 このように紫の上に憑いていた死霊が、病魔退散のおまじないをしているマジシャンが連れて来た「小さき童」、男の子に移りまして、それで紫の上の容態がすこし持ち直します。そしてこの小さき童が源氏の君に人払いをお願いして、髪を振り乱して泣いて、怨み言を言います。そして、和歌を一首詠みまして……わたしの罪が軽くなるような供養をして下さいと願うわけです。

〔問い〕源氏物語における霊的現象の特質について述べよ。
 疑心暗鬼という考え方。               。
 心の迷いと霊。                   。
 近代的精神分析学的発想。              。
 疑心暗鬼を生ず:《「列子」説符の注から》うたがう心が強くなると、なんでもないことが恐ろしく感じられたり、うたがわしく思えたりする。つまり、分析対象となる人物の心理的な迷いが投影されて、霊的なものが目に映ると考えられます。「亡き人の託言はかけて(=かきつけて)わづらふををのか(=おのれの)心の鬼にやあらぬ」(「紫式部集」44番歌)
物と心が違う存在であるかぎりでは、源氏物語は伝統的な物心二元論です。しかし源氏物語の霊は、心を独立したものとは考えず、精神分析のように、生者の心の迷いとしました。そこには、因果的なカテゴリーに収まらないものがあります。では現代の精神分析学は、精神現象(霊的現象)の特質をどこに求めているのでしょうか。
〔問い〕空所を補充せよ。
精神現象には目的論的構造が見出せることのみならず、ユングが言う    という、因果関係からの逸脱があります。何か二つの事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近接性」をもつとき、たとえ時空間の秩序がある、この世界の中では、因果性において何の関係ももたない場合でも、随伴して現象・生起する場合があります。これを、    の作用と言います。
     の典型例とされるのは以下のような例です。「彼(ユング)の治療していたある若い婦人は、決定的な時機に、自分が黄金の神聖甲虫を与えられる夢を見た。彼女がその話をユングにしているときに、神聖甲虫によく似ている黄金虫が、窓ガラスにコンコンとぶつかってきたのである。この偶然の一致がこの女性の心をとらえ、夢の分析がすすんだことをユングは報告しているが、このような例が、心理療法場面ではよく生じる」(河合隼雄「宗教と科学の接点」岩波書店■)
★散逸した文書『オリンピカ』の伝えるデカルトの夢
 失われた手記『オリンピカ』のなかでデカルトは、「私は一六一九年十一月十日、霊感に満たされ、驚くべき学問の基礎をみいだしつつあったとき」に一晩で三つの夢を次々にみたと記している。最初の夢では「とある通りに沿って烈風にあおられながら、学院にたどり着こうと骨折っていた。ようやく学院の中庭にたどり着いたが、なおも突風のさなかで体をもちこたえるために悪戦苦闘しなければならなかった。ところがふと気がつくと、周囲には人々が、さもやすやすと立っていたのである」。再びまどろむと雷鳴が轟いた。眠りからさめると部屋は閃光に満ちていた。第三の夢には万学を集成した辞書がが現われた。それとともに、「然りと否」(Est et Non)で始まるローマの詩人アウソニウスの詩句が登場したという(小林道夫著『デカルト入門』ちくま新書、36-37ページ。D・C・グッドマン著/大谷隆昶訳、「デカルト哲学における神と自然」渡辺正雄監訳『宇宙の秩序』創元社205-206ページ)。

〔問い〕どういう背景から、デカルトはこのような夢を見たと解釈するか。可能な仮説を作りなさい。〔解〕デカルトに精神の高揚と霊感をもたらした「驚くべき学問の基礎」とは、数学による諸学の統一であって、新たな学問研究プログラムへ、野心を抱いていたのである 。そして一旦、その方法が確立されれば、意図も易く難局に対処できること・そして偉大な業績を上げられることを、易々と直立する人間・万学の詩句は象徴していると思われる。
 ヒュームの共感に、因果的側面を見出すことも不可能ではありませんが、「外的記号によって知られるだけでこの記号が情念の観念を心に伝える」という、記号-意味の関係として、共感が捉えられていたことを思い出しましょう。つまり外的記号と意味は別のものでありながら、それらを統一化する視点があったのです。意味自体は、外的記号を離れて存在しえない、という点で両者は分離不可能でしょう。ここに因果的メカニズムに汲みつくせない、ヒュームの共感の一側面を見て取れるでしょう。すなわち、因果的側面に還元できないという点において、〔ヒュームの〕共感は精神現象(霊的現象)に特有のものであると言うことが出来ます。

13.単純な情念が如何にして類似することができるか
  ――恋人への愛憎の類似性

〔資料〕David Hume,A Treatise of Human Nature,1978, edited by L. A. Selby-Bigge, 2nd ed. revised by P.H. Nidditch, Oxford: Clarendon Press,Appendix,p.637.
 「明らかに異なる単純観念の間にさえ、互いに相似ないしは類似することができる。また、その類似点ないし類似の事情は、相違点から別個であることも、分離できることなど、いささかも必要としない」。
 
※以下では特に単純印象である単純な情念の、類似の問題を取り上げましょう。情念とはパッション、つまり感情のことです。ヒュームはすべての単純観念(印象)は類似していることを根拠にして、情念がすべて類似することを主張しました。
〔資料〕Hume,David,A Treatise of Human Nature,1978, edited by L. A. Selby-Bigge, 2nd ed. revised by P.H. Nidditch, Oxford: Clarendon Press,Appendix,p.637.
 「観念の完全な単純性は、分離ないし区別のあらゆる可能性を排除する。個々の音・味・匂いについても同じである。これらは個々、現象全般において、また一般的比較において、無限の類似性を許容する」。
 
〔問い〕ヒュームにおける「内省の印象」とは何か。
 かつて印象として経験した寒さ・飢えを観念として反復するとき         。
 内省の印象とは    の一種。                       。
 以上からどんな教訓を得られるでしょうか。それは、単純観念(印象)といえども、包括的な名詞で指示することができるのです。言い換えれば、厳密な共通事情がなくても類似したものを総称できます。

〔資料〕芥川龍之介『侏儒の言葉』■
わたし
 わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。
   又
 わたしは度たび他人のことを「死ねば善い」と思ったものである。しかもその又他人の中には肉親さえ交っていなかったことはない。
   又
 わたしは度たびこう思った。――「俺があの女に惚(ほ)れた時にあの女も俺に惚れた通り、俺があの女を嫌いになった時にはあの女も俺を嫌いになれば善いのに。」
   又
 わたしは三十歳を越した後、いつでも恋愛を感ずるが早いか、一生懸命に抒情詩(じょじょうし)を作り、深入りしない前に脱却した。しかしこれは必しも道徳的にわたしの進歩したのではない。唯ちょっと肚(はら)の中に算盤(そろばん)をとることを覚えたからである。
   又
 わたしはどんなに愛していた女とでも一時間以上話しているのは退窟(たいくつ)だった。
〔資料〕ラ・ロシュフコー著、二宮フサ訳、1989、『ラ・ロシュフコー箴言集』岩波文庫。
 「女を愛せば愛すほど憎むのと紙一重になる」。

補足:女を愛さなくなったら、憎悪が疎ましさと隣り合わせになる、というのもまた真理である。

 愛が一種陶酔的な自閉感情であるのなら、それは「自己の濃密な感情を味わいたい」という欲求にもとづく。ただ現実においては、人間の陶酔へと耽る傾向には限界があり、その所為で他の価値を犠牲にすることを伴う。だから、愛の異常なまでの没入は、他の価値の回復とともに消沈する。陶酔で自己完結するためには、障害によって緊張性を常に必要とする。つまり愛を維持し続けるとは、愛の倒錯を追求し続けることに他ならない[→『事典 哲学の木』、2002、愛の項] 。ちょうど『あしたのジョー』の白木葉子のように。〔もしくは風と共に去りぬ。〕

 

 すべての情念は単純である以上、類似しているのです。

〔資料〕加藤尚武、1983、『ジョーク哲学史』河出書房新社、236ページ。
  「意識(対自)の内発性が、絶対的な能動性であるとき、対自と対自の関係はどのようになるか。私にとっての他我の存在は、私の存在といかにかかわるか。サルトルは卑近な例で説明している。
 「私が嫉妬にかられて、興味にさそわれて、あるいは悪癖にそそのかされて、扉とぴったりと耳を当てがい、鍵穴から中を覗いている場面を想像してみよう。……私は私の諸行為を何ものかに帰し、それによって私の諸行為を性質づけるということはできない。私の諸行為は決して認識されるのではない。反対に私は私の諸行為である」(『存在と無』三-一-四)。
 私は耳になり切っている。私は私の行為の主人である。「ところが突然、廊下で足音のするのが聞こえた。誰かが私にまなざしを向けている。……私は突然、私の存在において、襲われる。本質的な変容が私の構造にあらわれる」(同)。血の気がひいて、見る私は、見られる私に変容する。私はもう私の行為の主人でない。他人のまなざしの奴隷である。まるで私自身が風呂の水であったところへ、突然、誰かが、風呂の栓を抜いたかのように、私は「存在の減圧」をこうむる。私と他者との関係は、認識の関係でない。存在の関係である。私の存在減圧を代償としてしか、他者にとっての私の存在はない。「私の存在の無とは、他者の自由である」(同)

 私が他者とかかわるさい、必然的に相手を奴隷にするような、主と奴の関係が成り立ってしまうこと。たとえ他者をわがものとし、他者と合一するような愛の体験においてすら、その根本には、相手を否定する要素が含まれていること。言わば、サディコ-マゾヒズムの関係が成り立ってしまう。そのことをサルトルの文章は教えてくれる。かようにも、愛と憎悪はやすやすと逆転しうるものなのである。
 愛、もしくは共同行為における連帯は、必然的にくずれざるをえない。愛はその最も親密なかたちにおいてさえ、憎悪の芽を含んでいる。
〔勉強のすすめ〕ヘーゲル『精神現象学』における主と奴の弁証法について調べてこよう。サルトルのサディコ-マゾヒズムはヘーゲルをいかほどか、なぞっている。
*ヒント→加藤尚武、1983、「ヘーゲル「精神現象学」入門」有斐閣選書、96ページ。 「生命を賭さなかった個人も、なるほど人格(Person)として承認されもするが、しかし、自立的な自己意識として承認されるという真理を達成しはしなかった」(ホフマイスター版S.144,大全集S.111-Z.34)。だからといって、実際に相手の自然的な生命を奪ってしまうなら、相手によって承認されることなど生じるべくもない。そうした所業をヘーゲルは、……「意識の否定ではな」(ホフマイスター版S.145,大全集S.112-Z.19)(く、むしろ生き延びる(überleben)こととして捉える。)しかし生き延び方に違いが出てくる。「自分だけでの存在」を貫きとおした自立的な意識と、自らの生命に執着するあまり、相手の意識に屈服した意識という二つのあり方に分裂する。前者が「主人(Herr)」であり、(後者が「奴隷(Knecht)」である。)…… 主人は「自分だけで、自立できない奴隷によって承認される一方、主人に依存する奴隷は、主人が自分に対して行う自立性の否定を自ら行い、奴隷の境涯を全うする。この関係は、相互承認になってはいない。
Break time
https://www.youtube.com/watch?v=PBfe9uX0Xk0
サルトル・愛?https://www.youtube.com/watch?v=ohOcptVc8uo

〔資料〕須藤訓任、2006、「憎悪/憎しみ」の項、『現代倫理学事典』弘文堂、549ページ。
 「スピノザBaruch de Spinozaの感情論にあっては、愛は「外部の原因を伴った喜び」、憎は「外部の原因を伴った悲しみ」として定義される(『エチカ』第3部定理13備考)。こうした事例においては明らかに、適宜語を入れ替えさえすれば、互いに反転するように定義がなされており、それだけに愛憎のコントラストは鮮明に自覚されており前景化されている。
 語の簡単な入れ替えによる語義の反転は、事実としての愛憎それ自体の逆転の容易さを同時に示唆する。つまり、人は何ごとかを愛していればこそ、ごく些細なことをきっかけとして、その愛の対象を逆に憎むようになるのだし、しかもその際、愛が深ければ深いほど、憎の程度も増大する。(憎の愛への逆転についても同様。)」
〔資料〕David Hume,A Treatise of Human Nature,1978, edited by L. A. Selby-Bigge, 2nd ed. revised by P.H. Nidditch, Oxford: Clarendon Press,p.330.
 
「しかしながら愛憎の対象はつねに或る他の人だから、明らかに対象は適切に表現すれば情念の原因ではありえないし、それのみでは情念を引き起こすのに十分でない。というのも、愛憎はその感情においてまったく反対であり、しかも同じ対象を共有しているのだから、仮に対象も原因だったとすれば、反対の情念を同程度に産み出すことになるだろう。とすれば、まさに端緒から愛憎は互いに他を相殺し合い、どちらも決して表に現われないはずであろう。したがって、対象とは異なった或る原因があるにちがいない」。

 ヒュームの言うように愛憎は、原因となる主題(基体)を別にすれば、対象だけによって判別が付くようなものではない。つまり素のままの対象には愛を抱くこともあれば、憎を抱くこともあります。

 高橋和巳『悲の器』 大学教授、正木典膳は現象学的刑法学を創始した法律学の泰斗である。典膳は、家政婦の米山みきを妊娠させ、妻の死後も結婚し なかったばかりか、大学教授の令嬢栗谷清子との婚約を発表したため、みきから不法行為による慰謝料請求の訴えを起こされる。 自らの法理論によって法廷闘争を展開し、典膳はみきを名誉毀損で訴え返すが、法廷には典膳を指弾する証人として、清子の姿があった。

〔資料〕高橋和巳、『悲の器』第十六章■
 「もし、まず一人の女の像を思い浮かべてみて、その容姿や気質、あるいはその立居振舞いが不満で、その像を消し、別のイメージを次に代置したのなら、私は倫理的な狡猾さを非難されても、崩壊感は感じずにすんだであろう。また、政治に興味をうしない、荒淫に溺れる皇帝のように、はたされなかった別世界の代償を柔らかな夜の夢に託し、女体から女体へとさすらおうとするのなら、世間的威信の失墜はあっても、渇望の純粋さだけはたもてたかもしれない。ところが、私はまったく無関係に二つの像を思い浮かべ、しかも、なんの罪の意識もなく、その重複する像を同時に眺めていたのだ。排中律が、そのとき私の精神のなかで根拠をうしない、倫理的にではなく、論理的に自分が破滅しそうな危険を感じた。すべてが終わってからも、弟の規典だけが見抜くことのできた奇妙な意識の悖徳だった」。


〔勉強のすすめ〕以下に掲げる文章のように、広い意味で「感情」という言葉を用いるとすれば、他にどのような感情が存在すると思うか。
〔資料〕植村恒一郎、2002、感情の項『事典 哲学の木』講談社、211ページ。
 「感情」は、誰もがよく知っている自明なものであるように見えながら、簡単には見極めがたい広がりをもっており、それを定義したり学問的に扱ったりすることは意外に難しい。たとえば「喜び」や「悲しみ」、「怒り」や「不安」、「好き」「嫌い」といった一般的な感情ばかりでなく、「後悔」「満足」「恥」「嫉妬」「同情」「共感」「あこがれ」なども明らかに感情であり、また「自己愛=ナルシシズム」「兄弟愛」「プライド」「ルサンチマン」「現実感」「疎外感」「喪失感」など、特定の事柄に関わる感情もある。感情には、「怒りの爆発」のように短い時間だけ現れるものもあれば、「自己愛」や「ルサンチマン」のように当人の人格と一体化したものもある。感情は、人間の置かれた特定の状況、そこでの認識や欲望の在り方、当人の人柄や徳性といったものと切り離して単独で論じることは困難である。感情を問うことは人間存在を問うこととほとんど同義であるのだが、しかしあえて限定するならば、感情とは、我々が他者に対して一定の態度を取る、その態度の基本的な方向性を示すものであると思われる。近代以降の西洋哲学においては、人間存在の根本を「自由」に見出すという志向がきわめて強いので、感情はとりわけ人間の「自由」との連関において考察されてきた。デカルト、スピノザ、そしてサルトル等にみ〔られ〕るように、自由と感情は深く結びつくものなのである。
 
 

14.【幸福主義の倫理学】
  ――「指を掻く方を全世界の破滅より選ぶ」
[授業目標]幸福主義倫理学の心理の襞を分析する

道徳的に善いことをすると快感を抱く、その行為を見ると共感によって観察者が同じ道徳的快感を転写するとヒュームは考えます。その結果、快感を抱く行為に足並みがそろい、均しく道徳的な行為に向けられるというのがヒュームの考え方です。
sympathyの語源=共に降りかかるsym+pathos
[利己心と共感]
〔資料〕Hume,David,A Treatise of Human Nature,1978, edited by L. A. Selby-Bigge, 2nd ed. revised by P.H. Nidditch, Oxford: Clarendon Press,p593.
 他者の心情は、ある程度まで、われわれの心情となることがなければ、われわれを動かすことはない。しかし、われわれ自身の心情になった場合には、あたかも、それらがもともとわれわれ自身の気質や性向から生じ来た場合と同じように、われわれの情念と対立し、また増大させるのである。他者の心情は、それが他者の心に隠されたままにとどまっている間は、われわれにどのような影響も与えることはできない。しかも、それらの心情は、たとえ知られても、単に想像や想念の域を出ることがなければ、……それだけでは決してわれわれを動かすことはできないだろう。

※私たちは他者の心情を「共感」することは、ごく身近な人の場合でさえ、そんなに容易なことではありません。ましてや縁の遠い他者の心情を「共感」することはほとんど、起こらないことのようにも思えます。つまり今、地球の裏側で起こった殺人事件を「ひどい」と思っても、手をこまねいたままであるのが人間本性の一つのあり方である、と言えるでしょう。一つの確律として、遠い他者、もしくはかけがえのある他者との「心の交流」じたいは、高すぎる目的であると打っちゃっておく、という態度もありでしょう。

 sympathyの考えがヒュームからスミスに伝えられることになります。自分にとって好ましいからこそ、他者のために為す。
利己心をめぐるヒューム・スミスの考え方を見ておきましょう。伊勢俊彦氏のヒューム解釈はある程度、ヒュームにおける利己主義を裏付けます。
〔資料〕ヒュームの道徳哲学における規範的コミットメント
 「ヒュームによれば、社会的秩序の骨格をなす「自然法」は、利益の感覚に導かれた人為にもとづく。してみると、われわれが、たがいの関係を自然法の命ずる正義の諸規則によって律するのは、それが有用な結果をもたらすかぎりにおいてのことであるはずである。実際、ヨーロッパ人が北米先住民を、また、多くの国々において男性が女性を、力によって圧迫し、財産その他にかんする権利を制限している事実をはじめ、正義の諸規則の埒外におかれた不平等な関係が現実に存在することに、ヒュームはしばしば論及している。この場合、力をもつ者たちは、そのような不平等な関係の方に自らの利益を見出しているがゆえに、それを固定し温存しようとするのである。規範を基礎づけるのは有用性であるというヒュームの立場からは、こうした現存の不平等を批判できないはずではないのか」。
 
スミスの立場は自己中心的です。そもそもスミスは『道徳感情論』の中で、人間は自己中心的であると述べています。―シナの大地震による不幸があったとしても人類愛のあるヨーロッパ人でさえ無視するだろう、という言葉によって記憶されています(Smith, A.,1979, pp.137-138■)。
ここから生活に必要なものを得たいならば、他人の仁愛に期待できず、交換するほうが貴方にとっても利益になるともちかけて、自愛心を刺激するという、心理メカニズムが働きます。したがってsympathyをめぐる問いは、利己的な存在である人間が、他者の境遇に関心を寄せるのはなぜか? という形に変わります。これにスミスは答えて、互いの利己心の追求の原理がある、という洞察を得ました。自愛心への関与が顕著になる。

★ホッブズ説の要約:人間は本性上利己的な存在なので、自然状態において万人の万人に対する戦いは不可避である。この戦争状態を脱するための必要な条件が「自然法」に他ならない。人々は、理性によってこの「自然法」を見いだし、それに基づいた社会契約を結んで主権者に権利を譲渡すれば、平和な社会へと移行できるのだ。

 そもそもホッブズ説の根底には、人間は利己的な存在であるという前提がある。ここに一個のアップルパイがあるとして三人が三人とも利己的な存在ならば、丸々一個を奪おうとして喧嘩が生じるのは目に見えている。この喧嘩では決着がつかない。これがホッブズの自然状態で想定している万人の万人に対する戦いの状況である。
 

 権利(アップルパイを分与してもらう)を国家に移譲し、国家制度の前提するルールを結ぶさいも「只乗り」を完全に排除しえない。逆に言えば、そうした逸脱を想定しつつも、刹那的で衝動的で非合理的に利己的なだけの人間を、狡知に長けた長期的利益を追求する利己的な人間に引き上げることがルール遵守のかぎである。
 だから、社会契約の仕方で問題が立てられ、それこそがポイントだと意識されるとき、真の問題はすでに解決されている。そのポイントとは、だましだまされるということがあっても、トータルに見て自分が得をするメカニズムになっていれば――自分も社会も万々歳である。つまり全体として利己的な約束のふりが有効に働く社会においては、社会的秩序ばかりか、社会契約はもう成功している。つまり、契約するのは、約束を守るか破るかのみが問題だからではない。
〔問題〕ホッブズが主張した自然状態の人間のあり方で、自己保存の本能にもとづいて他者と闘わざるをえない状態のことをどのように表現したか。
〔問題〕ホッブズは社会契約で主権者に対して自然権をどうすべきだと考えたか。
☟ホッブズの倫理学説 ホッブズ=マンデヴィル説の主要特徴として(浜田義文、1981、『カント倫理学の成立 イギリス道徳哲学及びルソー思想との関係』勁草書房、20-21ページ)。
 第一に、利己的人間観。人間の行為の真の動機をなすものは「自己愛」*である。この点について補足しておけば、それは人間の情念*と行為に関する事実認識であること。
 第二に、自己愛*が理性と結合している。注:小児の無邪気の利己心とは異なり計算ずくであること。
 第三に、利己的本性の発見は、自然的個人の自発的原理たる「自己保存の欲望」の発見を意味した。
 第四に、理性の活動の余地が残されているが自己愛*に比べて従属的役割を演ずるにすぎないこと。
 第五に、人間把握のリアリズム。仮借なき人間観察にもとづいていること。

【問題意識共有メモ】・・・個人主義の転調。
私\相棒 逃げる 留まる
逃げる 二人ともたぶん助からない 私は確実に助かり相棒は死ぬ
留まる 私は死に相棒は助かる 二人ともたぶん助かる

 個人主義を貫くこと、或る意味エゴイズムを追求することにおいて、社会的秩序が自然に出来あがる。もとより只乗り に控え目でなければ、秩序はなりたたないが。

〔問い〕囚人のジレンマ的状況で、囚人同士が協力する場合と、社会契約の類似性について論じなさい。
〔答え〕マッキーという倫理学者が『倫理学』という本の中で、以下のようにジレンマ的状況を説明している。「私と相棒は前線に配備された二人の兵士だとする。二人がそれぞれの持ち場に留まって戦えば、救援隊が来るまでもちこたえて、二人はたぶん助かる。もし二人とも逃げれば、敵はただちに追撃するので二人の助かる可能性はかなり低くなる。一人が持ち場に留まって、もう一人が逃げた場合には、「逃げた者が助かる可能性は、二人とも留まった時よりも大きくなるが、留まった者の助かる可能性は、二人とも逃げた時よりもっと小さくなる」。
 このジレンマの選択において、双方が社会的協調を目指して、留まれば(これが社会契約の場合に当たる)、社会的に最善の状態が実現するが、人の常として相手を出し抜こうとするから、双方が逃げて(これが自然状態に当たる)、社会的には望ましくない状態を迎えてしまう。前者では長期的利益が追求されるのに対して、後者では短期的利益が追求される。

Break time
https://www.youtube.com/watch?v=7ZpQcGLLrE4
〔勉強のすすめ〕
デフレスパイラルと囚人のジレンマの類似性を説明せよ。

15.こころの童話を紡ぐ・哲学の最前線
[授業目標]印象に残った哲学的問題を、童話の形にする・中島義道の哲学童話を参考にする

 今、見ることの出来ない机の裏側の観念は、存在するかどうか、子供はお母さんに尋ねてみた。
 「ねえ、お母さん。見えないのにその裏側について、何かイメージをもてるの?」と。お母さんは、料理をしていた手を止めて、驚いて聞き返しました。「坊や、何を言うの。熱でも出ているのかしら」。お母さんは机の向こうの引き出しを開けて、体温計を取り出した。「お母さんってば。は熱などないよ。机の裏側の観念のことの方が、大事なんだ」。「何を言っているの、この子。今、お母さんは、机の中の体温計を取り出したでしょう。それが何よりの、机の裏側のイメージをもっていた証拠よ」。
 坊やはここで考えました。「お母さんはたしかに机の、向こうに行ってから体温計を確認した。でも、机の裏側に回る以前は、確認するだろう体温計のイメージをもっていなかったんじゃないだろうか。だってお母さんは、体温計を取り出す以前、体温計の表示を知らなかったはずさ。この論法で行けば、机の裏側に引き出しが、すっぽり収まっていたことも、想像以上をでないさ」。
 坊やが大好きなヒュームの『人性論』にこう書いてあったのを知ったのは、お母さんに尋ねてから413時間後でした。「単純観念はすべて、それと対応し、それが正確に再現する単純印象に起因する」(中公新社、『人性論』抄訳413ページ)。ただし、そのことを理解したのは九鬼教授の講義を聴いた後の話に属します。
 〈教授の解説:机の裏側というのは複雑観念であるが、先行する裏側の複雑印象がなかったのだから。もちろんそれを構成する単純印象も存在しない〉
 坊やは、それから熱を出した。体温計のお世話になり通しです。そういうわけでたびたび、あの机の裏側に回る経験を積みました。でも坊やの疑問は解けません。
 「お医者さん。には見ることの出来ない机の裏側の観念などもっていない気がしてならないのだけど」。お医者さんは答えて言いました。「哲学病かの?坊やは。今まで私の見てきた机の裏側には、ちゃんと板が貼り付けてあった。その机の裏側もそうなのじゃないかい」。坊やは言う。「せんせ。確かにあの・その・過去の机の裏の記憶を、観念としてもっています。でもみんな過去の話ですよ。今、この机の裏側はミニ・ブラックホールでないと保証はどこにあるんです?」。「坊や、哲学病に効く薬を処方してあげよう」。お医者さんがくれた、その薬がただの小麦粉であることを、知ったのは、また別の、別の話に属します。
 坊やは、今度はブラックホールの勉強に力を傾けました。たまたま親戚の物理の先生がいたのでこう聞きました。「今、この机の裏側にブラックホールが・・・」。こう言いかけると途端に物理学者はさえぎった。「坊や、シュヴァルツシルド半径とかちゃんと勉強したのかい?ブラックホールがあると言えるためには、それ相当の質量が必要なんだよ。それは科学法則によって、因果的に割り出せるさ。見えなくても因果関係で推測できるんだよ」。
 坊やが『人性論』の次のくだりを読んだのは、その417時間後でした。因果関係は「感覚機能を超えてたどることができ、見もせず感じもしない存在や事象について知らせる唯一の関係」である(中公新社、『人性論』抄訳417ページ)。
 でも
坊やは物理学者さんとは違う方法に気がつきました。何も今、机の状態を知るには、見る必要はないのではないだろうか、という着想です。つまりじかに手で触れるのが、視覚で確認するよりずっと確かな方法ではないか、と思いいたったのです。もちろん、こうした触覚論を知ったのは、大きくなって「存在するとは知覚されていることである」で有名なバークリィの本に出会ってからでした。
 ・・・そして
坊やは大人になって、年老いて、死んで行きました。今、は墓石の下です。そんな彼にとって、あの机の裏側は何なのでしょうか。無なのでしょうか。いえ、それをとやかく言う権利を、はもっていません。その謎は、かつて坊やだった、あの「私?」にしか、明かされないのです。

 いささか話は飛ぶが、大森実在論の継承として注目すべきは、野矢茂樹の業績である。
★野矢茂樹、二○一六、『心という難問 空間・身体・意味』講談社。
 大森哲学から継承した眺望論の完成を目論んだ野心作。眺望論とは、ありていに言って、知覚風景一元論を日常的な素朴実在論に引き直して解釈しようと試みるもの。独我論的な大森哲学を、公共的な言語を介して「他者に出会った哲学」に改鋳しようとする。すなわちクオリア=〈感覚の実質〉はすべて、公共的に語り出される可能なタイプに媒介される。ちなみに野矢の筆致は、〈事柄に即している〉。不平めくが、そのため、基本的には日常的な直観に忠実すぎる。
 ここで、はたしてクオリアが公共的か、はたまた言語で表出できるのかという問いが発生する。そしてこうした問いによって、言語が私的なのか、という反省へと促される。と言うのも、クオリアが、ごく私的なものであるとするなら、他人のそれと似ていることが可能であるという語り口も、禁じられるはずだからである。私には〈痛み〉の実質が感じられる。しかしながら他者の〈痛み〉は感じられない。そもそも両者を比較することすらできないのだから、同じ「痛み」という言葉で括れない。話を今に限定しても同じ構造が成り立つ。今の〈痛み〉は感じられるが、過去の〈痛み〉は今感じられない。とすれば、両者は比較不能となり、私的言語*によっても、〈痛み〉を捉えることはできない。ここでウィットゲンシュタインの私的言語批判――言語は公共的でしかありえないという見解――を破棄するよう迫られる(ただしここでの話はもっと過激で、私的言語は無意味である、クオリアに相当する対象自体、無意味である、という極論なのである)。
★永井均、二○一二、『ウィトゲンシュタインの誤謬』ナカニシヤ出版。
永井によれば、ウィットゲンシュタインは、自分の病気=独我論を治療するためのすばらしい治療法を開発したが、自分の病気だけは治すことができなかった、……彼の『青色本』はその失敗した治療記録である、と言う。
 曰く……
 ウィットゲンシュタインの言語的独我論において、「他人が痛い」ことや「他人が悲しい」ことが疑わしかった(認識論的懐疑)のではなく、そもそもその言語表現の意味が分からないという懐疑だったのである。他人の私的体験は経験の限界の外にある(他人なのだから)。 現実に世界を見ており、その身体を切られると本当に痛みを感じ、その身体だけを実際に動かせる、唯一の存在から世界は拓けている。だれにとっても、そう言える構造が成り立つが、そのような現実存在=私は一つだけなので、この事実は言語で語ることはできない。さらに私に通用する私的言語ですら、不当な普遍化を及ぼしているとされる。〔もとより、刹那的な発話は、言語の要件をみたさぬものとして使われるにすぎない。〕つまり独在者「私」が、他人が私と公共的に〔ひいては時間的に刹那をまたぎこす〕「同じこと」を語る可能性は否定される。別の言い方をすれば、クオリアもどき〔それは無意味なのだから、実在する真正のクオリアではなく、もどきにすぎない〕に可能的に当てはまる言語は、存在しないということである。
 永井によれば、言語の意味ともども他者をも消去した水準で成立する問い、すなわち「なぜ〈私〉は永井均なのだろうか」「今現実にはなぜか〈私〉である永井均が、かりに〈私〉でなくただの永井均という人であったとしても〈私〉でないその永井均も、この現実と全く同じように「なぜ永井均が〈私〉なのか」と問うであろうから、永井均は〈私〉でないことはありえないのではないか」という問いによって、独在的な〈私〉の次元を炙りだしている。
この永井の言語観と結合した独在論を、管見の及びうる限りもっとも、先鋭に批判しているのは、三浦俊彦の論考である。
★三浦俊彦、二○○七、『多宇宙と輪廻転生』青土社。
 この著作の末尾に、当該著書のエッセンスを要約した付論『「意識の超難問」の論理分析』が収録されている。そこで三浦は「私はa(個体定項)である」という文章について以下のような、三つの解釈を提示し、永井的な「なぜ私はaなのか」という問いが、哲学的には「超難問」ではなく、「難問」 にすぎないことを示そうとした。その三つの解釈とは
①「私」及びaという文字を、それぞれ自分自身を指すものとして理解する。誰にとってもこの文は真である。
 ②aという文字を、ただ一人の特定の人物aを固定的に指すものとし、a以外の人にとっては、この文は偽であると理解される。
 ③aという文字はただ一人のa氏を指すのだが、「私」とはa氏自身のことと理解される。誰にとっても、この文は真である(ただしaの指示対象が存在するのならば)。
 三浦と永井の議論はすれ違っている。と言うのも永井の、個々の(?)「私」の論議領界は可能的という意味で、別個に設定されているにもかかわらず、それでいて現実的には〈私〉が、世界の唯一の拓けであるという構造をもっているからである。それを前提として、言語の公共性を否定するのである。それに対して、三浦の議論は、クオリアに対応して、現実的にも可能的にも、私の「中身」が厳然として存在していることを議論の出発点としている。要するに、言語の公共性がその必須の階梯となっている。つまり三浦の議論と永井の議論とは、土俵がそもそも違っている。両者を比較すれば、永井の議論が現実にむきだしの「トークンもどき」(それは、もはやタイプに対するトークンではないので、語の本来の意味でのトークン*ではない)たる〈私〉で推移しているのに対し、三浦の議論では、多様な可能性中に置かれたタイプ* で捉えられる「私」において、推移している。
 まとめれば、観念論対実在論という対立の、彼岸というものが拓ける。そこから、私というトポスを、実在ならざる現実性に定位するか、それとも可能な人格にあたる存在者に定位するかという、現実性対可能性の対立が現われる。この対立は、言語を「一人綾取り」めいた虚構とするか、それとも言語は徹頭徹尾、公共的とするかの対立と重なってくるであろう。
 筆者の立場は、この現実性-可能性問題のいずれに与するか、定まっていない。ただし〈私〉の私的レベルの問題が片づいても、人生論的な〔くだらない?〕問題系は、残るであろう。そうした問題系からヒュームを読み直すための参考書として二冊挙げておく。
★Árdal, Pall S. (1966) Passion and Value in Hume’s Treatise, Edinburgh: Edinburgh University Press.
姓はアーダルと読む。ヒューム情念論の古典的名著である。生きてゆくうちで紡がれる情念が、分析の俎上にのせられている。
★犬塚元、2004、『デイヴィッド・ヒュームの政治学』東京大学出版会。
 ヒュームの社会哲学の研究書として定評のあるもの。日本におけるヒューム研究の画期をなした。「大文字の他者」との生たる人生の問題、例えば共和主義等に、興味をもたれたら是非読んでいただきたいもの。


〔文献一覧〕個々の箇所で言及したから省略する。詳しくは「改訂版哲学3.14」=phil_314_2020_v1.pdf へのリンク参照のこと。