2006/12/02
ヒュームにおける「ふり」をする理性
九鬼一人(岡山商科大学)
はじめに
アマルティア・センは個人の境遇や意識の主観性によって制約された自然的・社会的規定要因を排除し、客観的評価を目指す(後藤玲子、2002、第一章)。そうしたセンの構想のうち、「豊かな生のための自由」の指標として、人間の選択できる「機能」の可能性の組み合わせにより定義される「潜在能力」に、衆目は一致して注意するだろう。
まず「機能」(functioning)の内容を確認しておこう。多様な人がなし得る様々な「機能」は、利用可能な財の「特性」と、
(個人的特徴Fiと財に対する支配権Xiに条件付けられた) 利用者の利用関数の両方によって決まる。例えば机は、その「特性」が変数となりつつ、字が書けるという利用関数を介して、勉強の道具となる。つまり、どのように使われるのかという観点から、利用者が机に対して持つ「機能」が決まってくる(Sen,
A. K., 1999, 59頁) 。「潜在能力」はそうした「機能」空間に張られる集合の形で表された主体の自由度である。それは人が或る基本的な事柄をなしうることについて、例えば「十分に食物が与えられていること」・「早死」しないこと・「自尊心」・「共同体生活に参加できること」までを含む(Sen,A.K.,1988,28頁等)[1])。パットナムの解釈に従えば、こうしたセンの基本線は常識的見解を前提していることになる[2])。
以下では斜視であることを自覚しつつ、センにおける「特性」をヒューム哲学の一側面に遡及することを通じて、道徳的性質の現われ方を相対化する理性に反省を促す。もちろんヒュームの場合の、道徳感情論をいくら強調しても強調しすぎることはない。とはいえ、従来の理性と情念の二元論解釈と距離を置き、改めて「虚構」に立ちどまる理性の働きに注目する。それを「ふり」をする理性という鍵概念の下で総括したい。
@力能としての徳 センのアプローチにおいて、「機能」「潜在能力」のベースとなる財の「特性」を、ヒュームの情念の原因となる性質と対照しよう。
そもそも道徳感情は、アーダルの指摘するように愛という間接情念の変形である限り(T,p.614, cf.p.473,pp.574f.)、快という印象間と、対象の観念間の二重連合を介したものとして心理的に説明される。例えば美徳を伝える性質があって人物に愛を感じさせるなら、道徳的是認(approbation)がなされる(T,p.614)。つまりそこにおいて、美徳の生み出す印象と、愛という内省の印象とが、快さの類似性を介した印象間の連合によって結びつくと共に、原因たる性質と対象としての他者とが、観念間の連合によって結びついている。
このように、ヒュームの価値論を主観的価値説と見なす方が自然としても[3])、価値は情念に作用する性質と見ることもできる。なぜなら「私が他者を愛する」という場合、私に快を起こさせるのは、他者に帰属する性質(T,p.330)、美徳だからである。そうして現われる性質に志向性の奥行きを認めることは可能である(Strawson,G.,2000,pp.42-48,Wright,J.P.,2000,pp.94f.等を参照のこと)[4])。
つまりその志向性概念によって価値性質が抽出される。例えば愛する場合「或る美徳」という性質を、〈或るものに対して持つ美徳の感覚〉とは違う水準で認めていたと解し得る。そこでセンの倫理学説に接合するヒューム哲学の側面にのみ注目したい。幾つかの箇所で言及されている、性質たる美 (beauty)[5])の議論はmutatis
mutandisヒュームの有徳な(virtuous)性格について妥当するであろう。
ホッブスにおいて「力」と「誉あるもの」という標題の下で論じられた「美徳としての名誉」が、情念の原因(T,p.295)たる性質としてヒュームに受け継がれた。たしかに「道徳性は感情(sentiment)によって規定される(determined)」が、その道徳感情を与える力能たる「心的な行為または性質」を美徳と言う(E,p.289)[6])。ここで個々の性質としての美徳・悪徳[7])が直覚されることに注目しよう
(Hope,V.M.,1999, 22頁以下)[8])。ちょうど「残酷さ」[9])を見ることができる如く道徳的性質を感じるのである。
「われわれは、性格が快をもたらすから、性格が美徳をもつと推理するのではない。われわれは性格がしかじかの特定の仕方で快をもたらすのを感じることにおいて、実際に性格が有徳であると感じる」(T,p.471)。
一般的観点から考察された「性格と行為」のみが、独特の快苦に作用する(T.p.472)。つまり〔有徳な〕性格が道徳感情の源であることを踏まえ、以下では最近の認知主義的ヒューム解釈[10])に棹差して、美徳に客観的な契機を見出すものである[11])。ともすれば、我々はヒュームによる力能批判(T,p.157)に目を奪われ、美徳の所与性を見失いがちであるが、ホッブス・ロックとの共通点を酌み取るべきである[12])。
Aヒューム哲学における理性 ヒュームにとって、内容を持った心的対象は表象であって、それに遡及する態度に、推理に係る見解は依存している。すなわち分析対象を単純印象たる情念(cf.T.p.637)に限定することによって、心理的分析の域内に立ちどまろうとする。数学的又は経験的な理性(T,p.458)は心的状態中、表象しか対象としない(Millgram,E.,2005, p.208)。動因となる情念は、表象からかけ離れたものとして理解される。ヒュームの言う代表象議論(representative argument=R.A.)、「真理や理性との矛盾は、模写として考えられた観念と観念が表象する対象との不一致に存している」(T,p.415)をブレンターノ的な志向性に修正して総括できるならば、情念は「表象的(representative)性質を何ら含んでいない…根源的存在」(T,p.415)である以上、情念と理性の間には何の関係もないことになろう。つまりここから有名な理性と情念の二元論解釈が俗に出来する。
ここで解釈が分かれる。第一にヒュームは実践的推理に関して懐疑的な立場を取ったという解釈。それはヒュームの心理主義的意味論 (Millgram,E.,2005, p.211)に則って、ミルグラムのように以下の解釈と結びつく。ミルグラムはアリストテレスの名前に道具的合理主義をかぶせるのが不適切であると同様に、ヒュームを道具的合理主義者とみなすのは適切でないと言う
(Millgram,E,2005,p.198)。「何をなすべきか」については、「である」からの推理によって達し得ないとした「である/べきである」問題の議論を、丹念に跡付け
(Millgram,E.,2005, Chap.7)、ヒュームの理論理性が実践に関する議論の俎上に載るものでなかったと論じている(Millgram,E.,2005,
p.204)。そうして「ヒュームは道具主義者ではなく、実践的推理に関する懐疑論者であったのである」(Millgram,E.,2005, p.208)と結論付ける。すなわち「道具的合理主義を捨てさせ、懐疑的解釈を促した、表象に焦点を結ぶヒュームの意味論」(R.A.)が「実践理性」を棄却せしめたのだ、つまり懐疑論に留まるのだ、と言う。
第二に道具的合理主義解釈。もし代表象議論(R.A.)に従えば、情念は理性の下に置かれないことになり、もっぱら情念が実践を統括するとも言えよう
(Korsgaard,C.,1997, p.249)[13])
。
人口に膾炙するところによれば、ヒュームの道具的合理主義解釈は以下のように言葉を継ぐ。すなわち代表象議論(R.A.)に従う理性は行為を促迫・禁制するのに重要な役割を果たさないのだ、詰まるところ、理性は複雑観念の演算処理に携わるにすぎないのだ、と。結局、行為はその目標や欲求が何であれ、それが行為者の目標や欲求に裨益するのならば、その時に限り合理的になる。行為の連鎖は動機化されていない欲求に遡及される(cf.Smith,M.,1987,p.36,
Lewis, D.,1988,p.323)。だから欲求がキャスティングボードを握っているのだ[14])、とされる。
懐疑論的解釈・道具的合理主義解釈ともども抱えている問題として、第一に間接情念の志向性に係る問題がある。間接情念が「単一かつ均質な印象」(T,p.277)であるにせよ、「情念がもつ感覚、もしくは特有の感情」(T,p.286)の他に「思惟の特有の方向性」(T,p.286)を認めていたことは、志向性モデルで間接情念論が組み立てられていたことを意味するからである。志向性のシナリオの只中に現われる嫌悪・向癖は、快苦の予期に拠った(T,p.414実践的)推理の結果であることに注目しなければならない。
第二に情念の志向性が理性と関わりを持つことは、また次のような事態に見て取ることができる。ほっとした情緒(例えば犬に噛まれずに済んだという安堵、これは「知覚」である)が犬から逃れたいという欲求の終了を意味するように、そうした情緒は判断によって引き起こされる、認知的機能を具えた情念と見なせる。第三に「感じ」
(feeling T,p.624)という一種の情念を伴う認知的契機である信念は、実践の場面において因果的な力を持ち(T,p.119)、「感じ」が生気の程度において勝った観念(=「一切の人間活動の支配原理となる」信念T,p.629)の指標であることを補足しておこう。
[セチヤの実践的推理解釈]道具的合理主義一般ひいては懐疑論的解釈を斥ける別の解釈の方向として、セチヤの解釈がある。彼は以下のような点に注目する。
ヒュームは「善への一般的な嗜欲や悪への一般的な嫌悪」(T,p.417)に、―或る特定の快の生気ある観念から情念への移行を説明することに眼目をおくためにではなく、―〔特定の快苦に限らずunspecified〕快苦一般の間のバランスを現わすより生気の衰えた信念の、動機として持つ力を説明するために言及している( Setiya,K.,
2004, p.372)。つまりヒュームは、欲求以外の動機化にも訴えたのである。のみならず「人の一般的性格や現存する性格」(T,p.418)といったような、欲求のカテゴリーの中に括れない認知的な性質にも、理由として言及している。
もちろん理性だけでは意志のいかなる働きの動機ともなりえないし、意志の統御において理性はけっして情念に対抗できない(T,p.413)。しかしながら、もしいつでも快楽主義的な信念が、情念に媒介されるという見解を取るならば、情念が理性に対立し矛盾する(T,p.415)ことすらポイントを失うであろう。
こうした状況証拠(cf.T,p.414)を踏まえると、真理を目指す理論的推理と異なる、情念を帰結とする推理、すなわちアンスコムが彫琢したような実践的推理に近いもの[15])を、ヒュームに求められる(Setiya,K.,
2004,p.374)。『人性論』第三巻で道徳的区別を「理性から引き出」せるかと問うたさいの理性(T,p.458)による推理とは趣きを異にする、嫌悪・向癖の情緒を引き起こす推理があったと思われる(
Setiya,K.,2004,pp.374f.cf.T,p.414)。善への一般的欲求に盛り込まれた心理学的原理(cf.T,
pp.416f.,440f.,444f.)に、そうした欲求に係る理性の心的機構が「実践理性」の名に相応しいことが示されている[16])。
ただしヒュームは実践的推理を、快苦の予期を含んだ情念を帰結とするものにしか認めないから、欲求は常に快苦との連想によって作り出されるとしても、情念を直接、惹き起こすとは限らない。あまつさえ仁愛と憤怒の欲求は、決して直接的な仕方で愛憎という間接情念と連接していないという意味でも、実践的推理は限定的である (T,p.368)[17])。
[ウィリアムズの洗練された理性解釈]ヒュームは信念を生じさせるための理性しか、認めなかったとは俄かに言い難い。なぜなら実践的推理は理論的推理と全く異なり、後者の余地は残されているからである。
ところで、九鬼はすでに旧聞に属する(?) ブランド (Brand,
W., 1992) の考察に依拠して、知性的契機がヒュームの道徳判断において不可欠であることを論じている(九鬼一人、2003、第三章第一節)。もしヒュームにおいて「実践理性」というべきものがあるのならば、それは(センの)「潜在能力」と同様の、知性的要求に適ったものであろう。つまり道徳判断のさい自分の立場は相対化(/相関化)され(T,p.582)、観察者には利害や快が同一の形(T,p.591)に統整される。
先に述べたセチヤの「実践理性」解釈はブランドの解釈によって或る程度補強されよう。すなわち「ヒュームは情念や行為の動機付けとしての実践的推理について、穏健的な概念を持っていたのだ」(Setiya,K., 2004,p.376)という見通しに押し出される。
こう言うと、ヒュームの懐疑論を無理やり捻じ曲げているのではないか、という怪訝の声が漏れ聞こえて来そうである。そこで、見過ごされがちな『人性論』の一パラグラフを引いておきたい。「およそ理性は生気に富むとき、すなわち〔自然的な〕或る向癖と交わるとき、同意されるべきである。しかし、自然的な向癖を欠くとき、われわれに作用するどのような資格(title)も決して持つことはできないのである」(T,p.270)。
このくだりにおいて、理性と情念の関係は協調を旨としていたことが表わされている。つまり純粋理性は頼りの置けないもので、感情が理に適うことの感覚(sense)を教えなければならない。ここに「理性は情念の奴隷」という修辞に汲み尽くすことのできない理性の微妙な位置価が見られる。ウィリアムズに拠れば、ヒュームの理性概念は周到に洗練されたものだが、外見上「我々の理性に適っている知性の下方修正版、すなわち理性的同意の我々の規準をゆるめたもの」(Williams,C.,1999,p.3)のように見えているだけなのである。
たしかにヒュームの立場は「不合理主義」(nonrationalism)の傾きを持っていることは否定し難い。しかしながら例えばバークリが理性的考察を徹底的に推し進め、物体の否定に至ったことと比較しよう。バークリのアポリアは「不合理主義」への加担というより、純粋知性に無批判であったことにおいて見出される(Williams,C.,1999,p.4)。そのバークリと対照的に、物の存在を議論の出発点で認める(T,p.187)ヒュームは、思弁に耽ることを推奨せず、「善良な紳士」が「哲学探究の僚友」「哲学上の発見の聴取者」であることで諦める態度を取った(T,p.272)と言えよう。とはいえ「反合理主義」(irrationalism)ではない。それは物体の存在や道徳的区別等を共に認める、不可知論者ならざる姿勢に現われている。『人間知性研究』で不可知論から訣別する唯一の方法は自分自身への拘泥から身を引くことと述べられ、(バークリとは違って)過剰な理性の使用に制約が及ぼされていたことが思い出される(E,p.170)。つまりまじめに考察を徹底せずに、迷路に陥ることを回避する(cf.
Williams, C., 1999, p.5)のがヒュームの両義的な理性的態度[18])なのである。このように考えなければ、『人性論』第一巻「知性について」の最終パラグラフ「懐疑的な諸原理があるにもかかわらず〔それに抗って〕……特定の点に関して、特定の瞬間にそれら〔諸原理の〕眺め方に応じて、われわれを断定的にし確信させる〔自然的な〕傾向性に従うことも、また正しいのである」(T,p.273)が理解できない。
全的懐疑論の疑いを中和するためには、洗練された人間本性を待たなくてはならない。例えば「本性が早晩すべての懐疑論的な議論の力を打破し、それら議論が知性に対して影響をもつことを妨げる」(T,p.187)とヒュームは言っている。真なる哲学者が穏やかな懐疑論によって安心立命(at ease)に達する、という所以である(T,p.224,cf.Williams,C.,
1999,p.63, セネカやエピクテトスの洗練された懐疑への言及はHume, D., 1987, p.172参照のこと)。 これを評して、ウィリアムズは論証的理性が限定され、「われわれはヒュームが記述する想像依拠的な働きに理性の概念を適用することによって、それを自然化しうる」
(Williams, C., 1999, p.17)と言っている。
Bヒュームの価値の対象相関性 ここでの理性の両義性が、価値性質個々の現象の仕方と価値性質の客観的把握という二面性に現われている、と解することで、認知主義に近い方向で居直りたい。
さて第二性質において、例えば「この熱」という性質が人の体温の高い部位に比べ、より体温の低い部位に〈熱く〉現われるのは、性質の客観性と矛盾しない。つまり価値性質は、その性質の現われ方との関係が、第二性質が主体のポジションに応じて、その現われ方と相関的な点で、第二性質と類似している[19])。この類比に訴えることにより、ヒュームが「道徳的な是認および否認〔その都度の感情:補足引用者〕を判断とは区別している」(Hope,V.M.,1999,124頁)のが理解できる。
先の道徳感情論(その原型となる間接情念論)が、美徳的性質に依拠していることを鑑み、道徳的判断の基底に美徳的性質を想定して考察しよう。
α美徳の現われ方は性質のみならず状況に依存している。例えば性質として帰属できる「特性」としての赤は、赤く見えるべき状況では赤く見える状況依存性を要求する。ちょうど闇の中のバラが、暗闇という状況と相関的に現われているように。たしかに暗闇の中でバラが赤く見えると言うのは、現に見えないものを歪めて把握する過ち(Wittgenstein,
L., 1968,§514)である。だが「闇にあるバラ (の赤)」は、闇に光る蛍光物質製の架空のバラ(の赤)ではなく、実の働きをしている闇の中のバラ(大森荘蔵、1976、218-223頁)の性質ではないか。同様に美徳の現われ方が然るべき状況において麗しいという具合に、状況依存的である。このことは、馬的性質が馬らしく見えるべき状況の、完全枚挙が不可能であることと同様、美徳を状況依存的に帰属せしめることにとって、根本的難点ではない。
β人が赤を看取する「正常な能力」を持っているとしても、価値の「卓越性」を論点先取することなく能力の正常性を定義できるか、という疑問が起こる。だがマッキンタイアが指摘するように、ヒュームの道徳的見解は「「理性に適った」人間と呼びうる、正常な人間における情念の状態についての、暗黙のそれと気づかれない見解」(MacIntyre A.,1993,61頁)を前提している。ここでの「正常な」[20])能力も、例えば色盲であること・色眼鏡をかけていること等の「異常性」との比較で切り出せる。こうして、美徳の現われ方と美徳的性質との間に、単純な条件関係が成り立たないこと、状況・能力というポジションに現われ方が依存することが教えられる。
γもしウィリアムズのいうように考察を一時中断し、迷路に陥ることを回避する、つまり現象を所与のものとして出発し、それを相対化(/相関化)する「不合理主義的」な懐疑を抱くならば、ヒュームの啓蒙性を象徴する「虚構」が現われる。一方で現われるままの現象を肯定すると同時に、それを相対的(/ポジション相関的)に把握する理性、これを「ふり」をする理性と呼ぶことにしよう。
ここで道徳的現象を把握するレベルと、道徳的な客観的性質のレベルとの、二つのレベルを区別したい。ちょうど、痛みの直覚と痛いと感じるものの客観的性質というレベルの区別は、「痛みを装う、という概念を知らない部族」にとって無意味であることによって、際立たされるように。「ふり」ができることは、この二つのレベルの区別を含意する。したがって痛みの直覚に美徳の現われ方の把握を、痛いと感じるものの客観的性質に美徳の客観的性質を、差し詰め対応させることができるだろう[21])。このレベルの区別とその間の相関的媒介が、ポジションに依存しつつ評価するヒュームの視線を支える。つまり価値性質は、センの場合における道徳判断の「ポジション依存的客観性」 (Sen, A. K., 2002, pp.463-483)[22])
同様、主体にとっての現われ方との相関性を前提する。
ヒュームの道徳感情のような「主観的な」(?) 現象と価値性質を概念的に区別することは、問題がないかという冒頭の問題提起に差し戻される。それに対して、センはポジションたる、言わば「価値判断上の色眼鏡」を、或る種のものに限定することによって価値判断を相関的に把握しようとした。
「いくつかの見解の主観的恣意性を精査する文脈で、当該の見解が果たして、特殊な精神的性向・特殊なタイプの不慣れ・推理の不自然な特徴に変数的特定を訴えることを通じてのみ、ポジション的客観性に合致したものにすることができるかどうか、ということを調べる必要性が残る」(Sen, A. K., 2002, p.475)。
つまり個々の性質がそう現われている限りで、センはその〈客観性〉を否定しない。現象の「恣意性」にも然るべき理由がある。その「恣意性」を明確化していけば、「客観的」な見解に到達できるというわけである。一般に、或る社会的境遇に視点を置いたとき、状況に関する評価は、それに拘束されるだろう。たとえそうであっても、ポジションを特定し、各々の視点から有意味な道徳的性質を定式化すれば、互いに整合的である限りで、「評価者に関する不変性」を充たすような道徳原理を、「相関的」に想定することは現実的であり得る。
[まとめ]先のヒュームの態度を、懐疑的でないセンにそのまま当てはめることはできないだろう。とはいうものの、センがマルクスの〈客観的〉虚偽意識に託して言うように(Sen,A.K.,2002,pp.469ff.)、現象と価値性質に相関性を見て取るヒュームと、センとの間の距離は存外近いのではないだろうか。
もちろん以上の第二性質とのアナロジーに組み込むことができない価値性質固有の問題構制は残る[23])。それは赤の性質と社会の規範性にわたるデリケートな論点である。赤の直覚は社会の規範性から相対的に独立している。これに対して或る種の道徳的性質の場合、「人間は当初から社会状態のうちにあり、社会に内在する視点から、社会の根底にある合意や一致を見出す」(伊勢俊彦、2005、216頁)ように思われる。例えば交通ルールのように、利害が相互に表示されていて相互理解が成り立っている場合はそのような内在的視点が成り立つ[24])。つまり赤の直覚の相対的独立性との対比において、社会的規範の場が私を統括しているようにも見える。簡潔にこのことを「社会⊃私」として定式化しておくとする。
しかしながら道徳的性質を突き詰めると「私⊃社会」として把握される側面があるのではなかろうか。およそ正常なコミュニケーションの周囲に常にディスコミュニケーションが散在するのなら、規範一般に従うことは原基的に「相対化を伴うふり」であるという見方が示唆されよう。道徳的性質が前提する予期の共有と言っても、社会的なコードは共有されるかのように現われるだけである。そもそも初めて会った他人とも、「相互理解」が存在しているかのように振舞うにすぎない。したがって、信頼関係に私の裁量で参入する「ふり」を持ち込んで、道徳的性質を顕わしめている、ということになる。そのことに示されるように社会的道徳の場の現われ方を私の参入が規定している限りにおいて、その性質の作用は私が作り出している面がある。よって対象の道徳的性質には「私⊃社会」という側面がある。言わば電場Eに置かれた電荷Qに働く、力のポテンシャルは電場Eにあるものの、なおQがなければ特定の力を生み出さないように。危険を承知でヒュームの道徳理論のメタファーを語れば、道徳的性質の「場」[25])は言わば、電場のように所与としてあるのだが、それが私を「扼する」[26])ためには、私が道徳的「電荷」とでも言うべき道徳的企投態勢を「帯びて」いなくてはならないのである[27])。
道徳的性質が現われるにさいしての「ふり」とは、相対性/相関性の源であることのみならず、それらの主導権を私の道徳的「帯電」が握っていることを含意さえしている。例えばヒュームは言っている。「〔約束をするという〕決意の表明は一般には拘束的だとは考えられていない。また我々は、或る言葉の形式を用いることが何らかの実質的な相違を生ぜしめうるとは、即座に考えることはできない。したがって、ここで我々は「義務を意志する」と呼ばれる心の新たな行為を行うふりをする(feign)のである」(T,p.523)。ここでの約束を信頼という擬制に言い換えられるなら、例えばヒュームが裁判官に言及しつつ、事案を終結させるために、法廷での議論を半分で打ち切って済ます(信頼の)擬制が「ふり」であることに思い至る(T,pp.529ff.)。人為的美徳は擬制に宙吊りにされているのである(E,pp.186-189、cf.T,p.522)。
一般的に定式化するなら、他者による了解も私の「ふり」の中に組み込まれているのであって、「ふり」をする理性とは、現象としての〈客観性〉を端的に認めながらも、そこにメタ的な「修正」[28])の余地を認め、性質が作用することを主導する理性である。
センはもとよりヒュームのような懐疑家ではなかったが、天下り的な「道徳の背後」をもはや信じることができなくなったニーチェ的状況を出発点としていた[29])。そのことは端的に、「好」による原子論的構成(小林正弥、2004、291頁以下)を取って、規範に企投する、彼の基本的態度に表われている。つまりセンにおいても道徳が理性の反省の前で、「虚構」として凝固することは、「ふり」をする理性を前提としている。このように見てくると、センのポジション依存的客観性を支える理性は、ヒュームによって先取されていた、という見方もできるだろう。
文献
Audi, Robert, 2006, Practical reasoning and
ethical decision, Routledge.
Beauchamp, Tom L./Rosenberg, Alexander, 1981, Hume
and the problem of causation, Oxford University Press.
Brand, Walter,
1992, Hume's Theory of Moral Judgment: A Study in the Unity of A Treatise of
Human Nature,
Kluwer Academic Publishers.
後藤玲子、2002、『正義の経済哲学―ロールズとセン―』東洋経済新報社。
Haakonssen, Knud, 2001(←1981),永井義雄・鈴木信雄・市岡義章訳『立法者の科学』ミネルヴァ書房。
Hope, Vincent
MacNabb, 1999(←1989)、奥谷浩一・内田司訳『ハチスン、ヒューム、スミスの道徳哲学』創風社。
Hume,
David, 1947(←1779),2nd.ed.by
N.Kemp Smith, Dialogues Concerning Natural Relogion,Nelson.
―――1975(←1748), ed. by
P.H.Nidditch, An Enquiries concerning Human Understanding and concerning the Principles of Morals,
Clarendon Press. [→E]
―――,1978(←1739-1740), 2nd. ed. by
P.H.Nidditch, A Treatise of Human Nature, Clarendon Press.[→T]
―――,1983(←1754-1762),ed.by
W.B. Todd, The History of England,Liberty Fund Inc.
―――,1987(←1777),ed.by E.F. Miller, Essays
Moral, Political, and Literary, Liberty Classics.
犬塚元、2004、『デイヴィド・ヒュームの政治学』東京大学出版会。
伊勢俊彦、2005、「ヒューム、その道徳哲学の視野」中才敏郎編『ヒューム読本』法政大学出版局、207-229頁。
Jackson, Frank, 2003, “Armchair Metaphysics”, in: ed.by M.Richard, Meaning, Blackwell,
pp.317-337.
神崎繁、1994、「《徳》と倫理的実在論―アリストテレスの「徳」概念の現代的意義―」『徳倫理学の現代的意義』日本倫理学会編、慶応通信、21-38頁。
神野慧一郎、2002、『我々はなぜ道徳的か―ヒュームの洞察』勁草書房。
小林正弥、2004、「福祉公共哲学をめぐる方法論的対立」塩野谷祐一・鈴村興太郎・後藤玲子編『福祉の公共哲学』東京大学出版会、281-303頁。
Korsgaard, Christine M., 1997, The normativity of instrumental reason, in: ed.by G. Cullity and B.Gaut,
Ethics and Practical Reason, Oxford University
Press.
九鬼一人、2003、『真理・価値・価値観』岡山商科大学。
Lewis, David, 1988,“Desire as Belief”,Mind,Vol.97,pp.323-332.
MacIntyre,Alasdair,1993(←1981),篠崎榮訳『美徳なき時代』みすず書房。
McDowell,John, 1981,"Noncognitivism and Rule Following",in:S.H.Holtzman/C.M.Leich,eds.,
Wittgenstein:To Follow a Rule, Routledge and Kegan Paul,Part,Three, sec.X,pp.141-162.
―――,1988,"Values and Secondary
Qualities",in: ed.by G.Sayre-McCord, Essays
on Moral Realism, Cornell
University Press,pp.166-180.
Millgram, Elijah, 2005, Ethics Done Right, Cambridge University Press.
森秀樹、2001、「〈絡み合い〉における価値」『兵庫教育大学研究紀要』第21巻、第二分冊、93-103頁。
Norton, David Fate, 1982,Hume, Common-sense Moralist, Sceptical Metaphysician, Prinston University Press.
大森荘蔵、1976、『物と心』東京大学出版会。
Putnam,
Hilary,2006(←2002),藤田晋吾・中村正利訳『価値/事実二分法の崩壊』法政大学出版局。
Rawls,John, 2005(←2000),坂部恵監訳『ロールズ哲学史、上』みすず書房。
Russell, Paul, 1995, Freedom and Moral Sentiment,
Oxford University
Press.
Sen, Amartya K., 1967, The Nature and Classes of
Prescriptive Judgments, Philosophical Quarterly, 17, no.66, pp.46-62.
―――,1988 (←1985),
鈴村興太郎訳『 福祉の経済学 財と潜在能力』岩波書店。
―――, 1999(←1992), 池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳『不平等の再検討 潜在能力と自由』岩波書店。
―――, 2002,
Rationality and Freedom, The Belknap
Press of Harvard University Press.
Setiya, Kieran, 2004, “Hume on Practical Reason”, in: ed.by
J.Hawthorne, Ethics, Philosophical Perspectives,
(18), Blackwell,
pp.365-389.
塩野谷 祐一、1999、報告(1)アマルティア・セン教授との対話 (第3回 厚生政策セミナー テーマ「福祉国家の経済と倫理」) 『季刊社会保障研究』国立社会保障・人口問題研究所編35(1) (通号 144) 6〜13頁。
Smith, Michael,1987,“The Humean Theory of Motivation”,Mind,Vol.96,No.381,pp.36-61.
Strawson,Galen,2000,“David Hume:Objects and power”in:
ed.by R.Read,/A.R.Kenneth, The New Hume
Debate,Routledge.
Velleman, James David, 2000, The Possibility of Practical
Reason, OxfordUniversity
Press.
Williams, Christopher,
1999, A Cultivated Reason, An Essay on Hume and Humean, The PennsylvaniaState
University
Press.
Wittgenstein, Ludiwg, 1968(←1953), tr. by G. E. M. Anscombe.
Philosophische Untersuchungen, Blackwell.
Wright,
John P., 2000,“Hume’s causal realism” in: ed.by R.Read, /A.R.Kenneth,, The New Hume Debate,
Routledge.