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目的論、道具及び規範 ―責任のインフレーションに抗して―

                                                九鬼 一人

Teleology, Tools and Norms ―Against the Inflation of Responsibilities―
             Kuki Kazuto                            

準目的論的説明

(一・一)目的志向的構造と準目的論的説明

アンスコムのテーゼ〈xがFすることによってGしたのであれば、「xがFしたこと」とも「xがGしたこと」とも記述可能な一つの行為が存在する〉を守りながら、例えば行為者が引き金を引くという出来事と、銃撃を構成する出来事を同一と見る立場がある。すなわち出来事の同一性を外延的基準によって決めるデイヴィドソン/アンスコム的な存在論が取られることがある。しかし私は出来事を全体論的に処理すべき場合もあるから、そうした反全体論的な出来事一元論は擁護しきれないと思う。
  まず目的論的説明・準目的論的説明と目的志向的構造を概念上区別する。前二者に共通な〈目的を志向する関係〉を目的志向的構造と仮に呼ぶ。その上で目的志向的構造の妥当性を探りつつ、〈「部分的に道具を使う」(1) と見なすことにより道具格「で」の問題を切り抜ける因果還元論(柏端:199-200)〉の代替案を提出したい。
  出来事が部分と部分の関係として分節化する場合、出来事一元論に妥協して、因果関係を前提にしながらも、目的志向的構造と折り合いのつく(「弾丸発射のために、暴発でも非意図的でもなく引き金を引いた」のような)準目的論的説明と見なしてもよい。しかしそれとは別に部分と全体の関係として分節化する場合もある。そうしたケースでは因果法則性を前提にしない目的論的説明が妥当する。そのいずれの説明においても、目的志向的構造が見出せる。つまり一般に選言取りの導出規則から、理性的主体が道具を使う意図的行為に、目的志向的構造が認められるのである。
  その上で道具を用いる意図的行為と規範の問題に踏み込む。目的論的説明「引き金を引くことは銃を撃つためである」の説明項「銃を撃つ」には全体論的に何らかの標的・もしくは状況を必要とする。したがって全体論的に銃撃という出来事が立ち現れないとき、銃撃の内包的な記述も未確定のままに留まるのだから、引き金を引いた責任は行為者に必ずしも帰せられないだろう。取り分けて目的志向的構造が際立つ(ハイデッガーの適所性と重なる)道具を使う意図的行為のように、全体論的な記述となる局面に光を当てたい。西洋形而上学の正嫡であるハイデッガーの哲学における脱自の目的志向的構造 (2)は、「アリストテレスに連なる西洋形而上学の伝統において〈よさ〉が有意味性の基盤として初めから前提されざるを得ない理性の自律、つまり理性の自己展開と自己充足であること」を、端的に示しているであろう。もしくは理性が主体の展開の中に留まっているとも言えるだろう。
 そうした着想は、『定義論』で法学は自らの目的に即して概念構成へと至れるとするリッカートを代表とした新カント学派的法的認識論と、通底しているのではないか(3)。その認識論は、人が因果法則性についての知識を基礎として一定範囲で予見される目的を設定して振舞うとするヴェルツェルの目的的行為論に、承け継がれた。こうした法の目的志向性の下で責任の問題を、ハイデッガー/新カント学派的パラダイムの下で改めて考え直したい。本稿は、そのことを通じてデリダ的な「強い責任論」の責任のインフレーションを忌避する、内包的な「弱い責任論」の復権を試み(4)、法理論と両立する行為の目的志向的構造(5)を、道具を用いる行為を前哨にして描こうとするものである。

(一・ニ)生物学と行為における目的志向的構造

 準目的論的説明「弾丸を発射させるために引き金を引いた」ことは目的論的説明「弾丸をうまく発射するために照準を覗く」と同じカテゴリーの説明でない。ヘンペルが1959年の古典的論文「機能的分析の論理学」(6)で取り上げたように、DNモデルは目的志向的構造と両立する。つまり彼の例「脊椎動物において、心臓は血液循環のためにある」のように脊椎動物における心臓の拍動がもつ血液循環という機能が目的志向的構造の核となる。
  ネーゲル(7)の場合も基本的には変わらない(Nagel: 403)。ネーゲルの例では以下の通りである。植物(以下すべて、葉緑植物)は、光合成を行う。植物の葉緑素は、光合成に因果的に必要である。植物の葉緑素が、光合成に因果的に必要であるとき、植物が光合成を行うならば、故に植物は葉緑素をもつとする。
 同様にネーゲルは行為の目的志向的構造に対する説明も与えている。なぜヘンリー[世はアラゴンのカテリーヌとの結婚を破毀したのかという問いに対して(Nagel: 19)、彼の行為の心理学的「行動の原動力」には言及されずに、結婚を破毀しようとする努力はある目標(目論み)を実現するためしつらえられた計画的手段として説明される。すなわち結婚を破毀しようとする努力という記述によって、目的が特定される。こうした機能的説明の認識上の価値は、社会科学において疑わしいとはいえ(Nagel:535)、生物学における機能的分析の類似性がある(Nagel:526)。彼の図式を行為に当てはめると(8)H(x,z)       行為者xは振舞zを生み出す


N(x,y,z)     行為者xの振舞yは振舞zにとって因果的に必要である
MP         仮にN(x,y,z)ならば: H(x,z)ならば: H(x,y)である
故にH(x,y)   行為者xは振舞yをもつ(に違いない)

 例えばH(x,z)「笠原氏は銃を撃った」N(x,y,z) 「笠原氏が引き金を引くことは弾丸を発射させることにとって因果的に必要である」及びMPから「笠原氏は引き金を引いた。」もし生物学の説明とパラレルな議論が成り立つのなら、ここから次の解釈ができる。
「笠原氏が引き金を引くことは弾丸を発射させることにとって因果的に必要である」ならば、「笠原氏は弾丸を発射させるために引き金を引いた。」

 まずMPと整合的な因果的説明として、柏端の分析を約して引いておく。「笠原氏は引き金を引くことによって正一を撃った」の論理形式は以下のようである(柏端:192)。

@(∃e1)(∃e2)(∃e3)(何かをした(笠原氏,e1)&された(その銃,e2)&撃たれた(正一,e3)&惹起(e1,e2)&惹起(e2,e3))

 このような因果関係が成立するのならば、生物学の機能的説明の場合と同様に適当な変更を加えて「引き金を引けば発射する」ならば、「弾丸を発射させるために引き金を引いた」という準目的論的説明と両立する。

 ところでヘンペルの場合において(ネーゲルの例では必要条件と見なされる)葉緑素という性質は、光合成を因果的に生み出す十分条件である。論理的に (葉緑)植物は葉緑素をもつことが伴わない。ヘンペルが念頭においていたのは、同じ機能を果たす機能的等価物の問題である。例えば脊椎動物においてヘモグロビンが酸素供給の機能を果たすが、無脊椎動物ではヘモシアニンが同じ働きをする。同様に機能的に等価なシトクロムがある場合でも光合成が行われるから、葉緑素は光合成のための因果的な十分条件のようにも一見映る。この点はウリクト(9)の準目的論的説明とも関係するので、そのポイントを挟んで論じ直そう。

(一・三)準目的論的説明「弾丸を発射させるために引き金を引いたこと」

さて「なぜこの状態cが実現し、同じく、可能だと思われる他の状態c’は実現しなかったのか」という問いが立てられるとする。cがc’と別の可能な選択肢であるという想定は、両者の時間的な位置の相違による。この想定における(相対的な)必要条件(Wright:56)と区別して、ウリクトは被説明項cをdの必要条件とする準目的論的説明を与えている。この準目的論説明において、cに後続するd以外の可能性はd’、d’’で汲みつくせるから(Wright:57-58)
d ,  c ∨ c’,   c’ → d’∨ d’’,  d’→ 〜d,    d’’→ 〜 d ,  ├ cが成り立つ。例えば「弾丸を発射するために引き金を引いた」という準目的論的説明が成り立つためには、現に説明項「意図的に弾丸を発射させた」がその布置状況として起こってしまっている必要がある。時間的に前のものを、すでに起こってしまっている説明項dの存在によって説明している(Wright:58)。

 この箇所でウリクトが述べるように準目的論的説明は因果法則性と両立する。時間的に前後する説明項・被説明項を入れ替えれば因果法則性による説明となる(10)。人は因果と目的を往々にして対置する。しかし因果連鎖で繋がれている機会因と目的因は、単に時間的前後関係から見て相違しているにすぎず目的論は因果論と整合的である。この事態は因果決定論を含意せず、目的志向的構造に対しても中立的であるという意味を含むにすぎない(11)。
 のみならずAはYのゆえにXしたという形式の文を述べるとき「Yによって記述されるある出来事はAがXすることの因果的原因であった」という記述の場合があるのと同様「AはYによって記述されるあるタイプの結果を生み出すためにXした」という記述の場合もある。
 このことを確認したうえで「引き金を引いたこと」が必要条件でないように見える場合に議論を移す。例えば暴発した場合である。しかしこれに対しては簡単な対処ができる。既に論じた生物の性質の場合に関係付けて論じよう (12)。
 脊椎動物のヘモグロビンによる酸素輸送の因果法則性が、無脊椎動物には認められないこととの類比で考える。無脊椎動物が存在することや無脊椎動物がヘモシアニンを手段として、酸素を輸送するという事実は、なぜ脊椎動物がヘモグロビンを手段として酸素を輸送できるのか、という説明にとって無関係である。こうしてヘモシアニンが原因でないことが必要条件となるように被説明項が予め限定される。そのためにヘモシアニンが原因とならない脊椎動物の機能的説明にとって、ヘモグロビンは酸素供給の因果関係にとって必要条件となる (13)

 生物学で脊椎動物の酸素輸送におけるヘモグロビンのように、被説明項が限定されるのと 同様に、行為論においては被説明項(引き金を引いたことを含む)が限定される。例えば行為を準目的論的に説明しようとするとき、暴発していないことが連言で必要条件として被説明項に結合する。もしくは(銃マニアが照準の狂わないように調整することばかりに注意が行って、間違って引き金を引いてしまうような)「非意図的に弾丸を発射して」いないことが必要条件として連言で被説明項に結合する。そのおかげで被説明項「引き金を引いたこと」が必要条件となる準目的論的説明が生成する (14)。弾丸発射のためには引き金を暴発ではなく意図的に引く必要があるのである。 ――「引き金を引いた」が弾丸を発射するための必要条件となるように論議領域が限定されるのである(15)。
  「引き金を引いた」との相対的対比において「親指を動かした」ことと「弾丸が発射した」こととの間には、因果法則性が前提されていない。「弾丸を発射させるために」親指を動かした準目的論的ケースでは、親指は引き金を動かしたという因果法則性が前提とされていなくてはならない。ゆえに「引き金にかかった左手の親指を動かした」こと、つまり「引き金を動かした」ことは、それが非意図的でないことと暴発していないことと共に、弾丸を発射するという目的によっても準目的論的に説明される。こうしてネーゲルのMPは守られよう。

準因果的説明

(二・一)目的論的説明「弾丸をうまく発射するために照準を覗くこと」

 MPを守ることによって「弾丸を発射するために引き金を引いた」という準目的論的説明が機能的分析の前提する因果法則性と両立することを示した。このことを前提として「引き金で銃を撃つこと」を分析する。その論理形式の特殊性は、「で」が道具の目的志向的使用を示す副詞的修飾語であることに拠ると考える。

A 笠原氏はバジルでスパゲティの味にアクセントをつけた。

B ピアノの五つの黒鍵でメロディーにその場に物悲しい雰囲気を漂わせた。

 まず先の場合でみたように笠原氏がスパゲティの味にアクセントをつけるために、他の下味がつけられていることも必要である。バジル以外にバジルよりは効果的でない味のアクセントが付けられていることと矛盾しない。もしくはピアノの五つの黒鍵をたたくことは音響条件と共にそうしたムードを漂わせるための相対的な必要条件である (「部分的に使われた道具」柏端:199-202) 。
 しかし次の例を考えてみよう。

C アスレチックジムのトレーニング準備運動図で姿勢を直しながらウォーミングアップをした。

D ルールブックでインフィールドフライの判定を下した。

 これらの道具の使用は出来事を惹起しない。ちょうどサイレンを鳴らすことで大音響を立てたおかげで約束を破る羽目になった場合、サイレンの音だけで約束の破毀が惹起されないように(柏端:211)、トレーニング準備運動図・ルールブックは目的と適合的な規則に従うための道具である。前者が統制的規則に/後者が構成的規則に適合的であるという相違はあるが、規則を充たす目的のための道具である点で同じである。同様にバジルは、美味しいスパゲティを作るための、五つの黒鍵は、ムードを醸成するための道具と解釈できる。
 弾丸をうまく発射するために照準を覗くときならば、照準を覗いたからといって必ずしも、弾丸をうまく発射できるわけではない。因果法則つまり合法則的条件関係を前提としないこうした
目的志向的構造の説明を、ウリクトにならって「目的論的説明」と呼ぶ(Wright:83-84)。

(二・ニ) 目的志向的構造と「行為の形」 

 弾丸を発射させる場合と違って、銃を撃つことは銃に何かをすること(この場合引き金を引くこと)と独立ではない。この発想はそのままリッカートの価値論的な超越的「意味」(Sinn)の下での内在的意味の解明にあてはまる。リッカートの「意味」概念は「生の哲学」と大きく関連する(16)。約めて言えばリッカートにおいて主体にとって客観的価値に基づく道具の非法則的な普遍的「目的連関」は、道具を用いる振舞どうし辻褄が合い、相関性を保ったままで目的の下に統一される。この全体論的布置をなす相関性こそが超越的意味(価値)の基本的性格である(17)。ハンマーという道具に関して言うならば、釘との関係において初めて物を打つ道具という意味をもつ。ここにおいては、釘とハンマーとが相関的なものとして、互いの概念を基づけるという構造が成立している。このように行為者―ハンマー―釘の間には、目的を志向する相関性が成立している。
 およそかけがえのある個体を掴むとき、目的連関による統一の可能性が成立している(18)。こうした統一的目的連関のパターンを「行為の形」と呼ぶ。それはハイデッガーの強調するように普遍妥当的な価値の下での行為のパターンであり、心理的信念の次元に定位しない。すなわち道具的価値が設ける客観的な目的連関は手段と目的に相互依存的な「行為の形」を作る(19)。われわれは目的において「行為の形」に立ち戻る。コンディツィオ・シネ・クァ・ノンよりゆるい経験則・蓋然規則を認める限り、目的志向的構造と抵触する合法則的条件規則説も「行為の形」を密輸入していると考える(20)。

(ニ・三)準因果的説明「引き金で銃を撃ったこと」

 翻って考えると引き金を引くことは、(弾丸を発射させることとは違って)「銃を撃つ」という〈時間的に引き金を引くことより後までを含むより長い出来事〉の部分であると考えられる。出来事としては前者と後者を截然として分けることができない。仮に別の出来事であるならば因果関係を問えるかもしれない。だがそうではなく、全体の部分が出来事全体の原因となっている。もしそうなら部分の原因自体が結果となり、因果関係に反射性を認めてしまうという由々しき事態を招く。したがって引き金を引く出来事と、銃を撃つという出来事との関係を、因果関係と呼ぶべきではない。
 そもそも「ナイフで刺す」ことと「死に至らしめる」ことの間には因果連鎖は存在するが、「ナイフで刺す」ことと「復讐する」ことの間には因果関係の連鎖は存在しない。存在するのは「ナイフで刺す」ことにおいて「復讐する」という目的志向的構造だけである。前者は後者の時空的一部分に属する。例えばアリストテレスが『形而上学』第12巻(第十章, 1075a13-15)で言うように、軍隊の諸部分相互に秩序づけがあるのは、軍隊全体が一人の指揮官〔をいわば目的としてこれ〕に対して整序されるためなのである。同じく出来事としては部分と全体の関係にあり、截然として分けられないところに、道具を使った目的志向的行為の分節化の特殊性が存するのではないか。このことは出来事の全体論を指し示している。引き金を引くという事態は事後的に析出されるが、端的に現れるのは、銃を撃つという全体の行為であって、それが論理的に引き金を引くという部分より先立つという点で、フッサール的な意味において「基づける」(21)。目的論的説明においては、その統一性から全体論的視点が重要なのである。(行為は未来の状態によって規定される。)一般に

E 行為者Aが道具Tで対象OにFした。

 とき、AがTにGすることを時間的に含む、AがOに意図的にFするというより長い出来事が存在する場合が一般に存在する。こうしたことを考え合わせると、部分的な道具を使った行為が目的概念の中に包含されるとすれば統一的に説明されるのではないか。とするとEのような道具を使った行為の論理的形式は以下のようになる。

F 行為者Aが道具TにGした、かつ対象OはFされた、またはすべての道具TにGすることは対象OがFされることを目的とする。

 Fのように道具を使う行為の論理形式は存在量化子の係るものに留まらず、全称量化子を含む目的連関と選言で繋がっているのである。先の例では笠原氏は銃の引き金を引いた、かつ銃は発砲された(つまり笠原氏は弾丸を発射するために引き金を引いた)か、またはすべての銃の引き金を引くことは何かが撃たれることを目的とする、という形式を取る。

G(∃e1)(∃e2)(∃e3)(何かをした(笠原氏,e1)&された(その引き金,e2)&撃たれた(その銃,e3)&惹起(e1,e2)&(惹起(e2,e3)∨∀x(xは銃であるxは何かを撃つための道具である))〔惹起(e1,e2)はe12を惹き起こしたことを表す。〕

 すなわち最後の選言肢は銃の引き金を引くことは、何かが撃たれることを目的とすることを意味している。(この場合e1として指を動かすなどの基礎行為を想定している。)分配律を使い全称例化すると(以下のH)最後の選言肢の目的となる出来事は全体の出来事すなわちe2&e3になる。〔目的(e2, e2&e3)は、e2が e2&e3を目的としたことを表す。〕

H(∃e1)(∃e2)(∃e3((何かをした(笠原氏,e1)&された(その引き金,e2)&撃たれた(その銃,e3)&惹起(e1,e2)&(惹起(e2,e3))∨(何かをした(笠原氏, e1)&された(その引き金,e2)&撃たれた(その銃,e3)&惹起(e1,e2)&目的(e2, e2&e3)))

 前半の選言肢から機能的説明に対応する、因果法則性を前提にしたそれと同値の準目的論的説明が出てくる。例に即して言えば「笠原氏が銃の引き金を引くことは銃が発砲されたことを齎した」つまり「笠原氏は弾丸を発射するために銃の引き金を引いた」が当たる。これは弾丸を発射させることが引き金をひくことと別個に分節化する場合に対応している。(この二つの出来事は部分と全体の関係にない。)
 加えて部分と全体の関係を含む後半の選言肢から「銃を撃つ」ための純粋に目的論的説明(上述のC・D)が出てくる。この結びが混在した説明図式「弾丸を発射させるために引き金を引いた、または引き金を引くことは銃を撃つためである」を「引き金で銃を撃った」と読み替える。つまり準目的論的説明と目的論的説明が選言で結合する形式の説明(「引き金で銃を撃つ」が一例である)を考える。
 ちなみにウリクトは目的志向的構造を有しながら、法則を前提としない因果関係を扱うものを「準因果的説明」と呼んでいる (Wright:85)。例えばそれは「民衆が蜂起したのは、政治が腐敗し圧制的になったからである」の場合のように「被った害悪を取り除くことを目指す」という目的論的ニュアンスを帯びることがある。ウリクトに倣いこうした説明図式を準因果的説明と呼ぶことにする。
 先の準目的論的説明と目的論的説明を選言肢とする説明において、目的連関は選言で結ばれているから行為を惹起しない。だからそうした説明はDNモデルにも還元できない。とすれば、暗に準目的論的説明と目的論的説明が混交した「引き金で銃を撃った」という上の説明は準因果的説明ということになる 22)。この場合、行為者因果性には、因果関係を前提にした目的手段関係があるものの、厳密な意味で法則が認められない(せいぜい別の状況と類似した特徴をもつにすぎない)と考える(23)。
  「笠原氏が正一を撃つことによって正一を殺した」「笠原氏はその銃で正一を撃った」から「笠原氏はその銃で正一を殺した」が導かれるのは、「引き金は銃を撃つための道具である」という、道具の客観的な「目的連関」を志向する「行為の形」を前提としているからである。ただし特定の目的と、目的(e2, e2&e3)→〜目的(e2&e3,e2)という推移性に課せられる条件とを考えると、「笠原氏はその銃で引き金を引いた」が導かれることはない。言うまでもなく、銃を使うことは引き金を引くことを目的としないからである。

目的志向的構造と規範

(三・一)「行為の形」と規範

 ところで直接的には結果φを齎すことによって、行為の始まりから最終的な結果ψまでの因果連鎖を惹き起こしたとき、aがbにφすることによってψした、という場合がある。例えば「ψした」に「殺した」が当てはまる場合である。φには、「銃を撃った」「負傷を負わせた」「刀をはらった」等が想定できる。これに関して鈴木・藁谷は必ずしも、aがbにφすることをψすることの時空的部分であるとは考えていない(24)。こうした殺人のような場合、必ずしも「銃で殺す」ことは「銃を使う」ことの目的ではない、したがって私のような目的志向的構造を維持することはできないのではないか、という反問が起こるだろう。
 そこで上の図式を維持するために、結果の防止という目的志向的構造を考える。すなわち成就しなかった抑止意思をもつ場合として「殺した」という動詞を考えるのである。次のIはFの特殊ケースとする。

I 行為者Aが道具TにGした、かつ対象OはFされた、または行為者Aが道具TにGすることは対象OがFされないことを道具の本来の目的(OがFされる)を禁制する抑止意思としてもつ

これは道具を使った意図的行為に責任を帰する場合の論理構造である。道具を使うのであるから予め目的の可能性は決まっている。しかも咎められるのは起った行為が道具本来の目的を禁制する抑止意思を弁別・認識していた場合である。したがって道具の使用に対する注意責任が帰せられる行為において、因果関係かまたは抑止する目的をもっていなければならない(25)(つまりそれらを共約する目的志向的構造がある)。
 行為者が法の期待通りに振舞っていれば、つまり抑止意思の通りに振舞っていれば、現に結果が起こっていても、それとは内包的に異なる目的が働き得たのである。
 ここでの抑止意思は、あらかじめ具体的な結果に対して必ずしも厳密に予想される注意義務といった体をなすものに限らず、不作為を貶価する注意規範の形を取ったり、その内包が全体論的に後知恵により構成されたり(26)する場合も含む。

  〔補足〕今問題にしている道具を用いる行為では、結果を惹起せしめた不作為を含む出来事から後知恵的に、〈本来の目的(OがFされる)を禁制する抑止意思〉が構成されるのではないだろうか。したがって、道具を使う場合、行為の無価値よりも行為者性(デイヴィドソンのエージェンシー)を含む結果の無価値が馴染むのではないだろうか。人的行為論がともすれば陥る主観化の危険に晒されていないのだから、結果無価値の立場に立つ物的違法論がむしろ理路であるのではなかろうか。翻って本稿の立場は出来事一元論が取る因果的説明と両立する。たとえカウフマン流の行為の目的志向的構造を認めたとしても(「引き金を引くこと」が銃を撃つことを本来的な目的とするように、アルミン・カウフマンが考える〈人と行為の欠如〉の間の関係ではなく、〈出来事間〉の道具を使う出来事の内包的な記述の関係に即している、と言い切っておく)、不作為の因果関係を否定する必要はない。なお、この場合文脈によって構成される不作為という消極的事実は言語と対応していると見ることができる(27)。例えばカーロの、「ペガサスは古くから知られた羽の生えた馬である」*という言語が真であるにもかかわらず、現実と対応していないから、不作為を記述する言語に現実が対応していないという論法は、述語論理的に*が偽であることを無視した短見である(28)。
      また「「不作為者を除いても結果は発生した」はずであるから、因果関係を否定せざるをえないのではないだろうか。」という(竹田直平に対する)金澤文雄(29)の論理は今ひとつ納得しがたい。竹田が「不作為者なき不作為はない」というのならば「不作為があるのならば不作為者はいた」ということのみが導かれるはずである。すなわち、不作為の存在は、因果的行為者性を欠いた〈存在〉がいることを意味する。後件、つまり或る〈存在〉が因果的行為者性を欠いているということは、すなわち、そのような客観的事態が、構成されているものと解することができる。不作為の存在は、客観的帰属論が主張する、〈人への出来事の帰属〉という事態を構成するものと考える。
      不作為を含む道具を用いる出来事についてまとめれば、消極的事実が因果関係にあることにより、準目的論的説明がなされる。もちろんそれは準因果的説明の選言肢となる。

 規範的な責任を論ずる場合一般も次の限りで同じ構造が成り立つ。規範的に責められる行為の意志は道徳的に評価されないことを抑止意思とする。このことは失敗した行為一般における意志の記述と類比的である。「野球試合において三振した」という行為は、「野球で三振した」ことの成功の記述の下ではなく、「野球試合においてバットで球を当てよう」という記述の下で妥当する。だからその失敗の意思記述は「バットで球に当てる」「バットで空振りするまい」である。また「サイレンで約束を破った」の意思記述は約束の失敗における「約束を守る」「約束を破るまい」であり、約束の履行を目的としていたのである。
 抑止意思という内的契機に焦点を結ぶのは違法と倫理的責任を同視する(30)という限界があるのではないかという反問もあろう。この反問に対しては不作為の違法においては、倫理的な内的意思形成と反対の形で記述される法的な「意思の客観的不実現」があるのだと答えよう。この点で中島義道の分析に共鳴する。「その意志〔−引用文ママ〕記述は成功した行為においては単純に行為記述と同一であり、そして失敗した行為においては(当該行為がそれに対して失敗であるような)成功した行為と同一である。」(31)このように規範事象において客観的意思が実現しない場合、記述がその反対となる点で共通なことは、カントが「適法性」と「道徳性」の区別をもっぱら立法の形式の相違に求め、法と倫理の法則自体が共通であることからも示唆される(32)
 つまり規範からの逸脱がある場合、一般に失敗の対極に立つ遵守の成就・失敗の抑止が目的とされていた(33)。このように失敗した行為・規範から逸脱した行為に責任が問われる場合、意思記述は行為記述の必ず反対になる。

(三・ニ)罪を問う構造

 構成要件には客観的構成要件要素として一方

) 実行行為の客観面 @行為性(作為と不作為) A行為主体(=身分)、行為客体、行為態様・方法、行為状況 B結果発生の危険性 C正犯性
b)結果
c)因果関係
がある。他方主観的構成要件要素として

d)実行行為の主観面 D故意または過失 Eその他の主観的構成要素(例えば、目的犯における「目的」)
がある。本稿は主観的構成要件要素が記述に含まれていると考え、その下で捉えられた限りの出来事を客観的構成要件要素と見なす。
 したがって故意・過失、目的と言ったところで客観的な出来事に即している、と考える。だから故意の責任を問う構造についても過失の場合と出来る限り出来事の記述に即して並行的に論じたい。もちろん過失の行為において故意の場合と異なり、本来的な目的が行為の一部として違法評価の対象とならないことをどんなに強調しても強調しすぎることはない。とはいえ過失の行為においても、予見可能性からの類推で構成される注意規範の認識=抑止意思が主観的な違法性にとって重要になる。(故意犯・過失犯の区別は責任段階で犯罪事実の発生を認識・予見しているかの違いに帰せられる。) すなわちたとえ不運にせよ、行為者の認識から類推/構成される抑止意思、ひいては注意規範の認識を前提に、責任を問いうることが可能になる。
 仮に何を処罰の対象としているのか、はっきり見定めようとするなら、行為者が認識した事情(のみ)を問題にしなくてはならないだろう。さもなくば、偶然処罰の傾きが大き過ぎるだろう。
 逆に例えば行為者が、凍結した路面でスリップする等して、非意図的に先行車の横に出たような場合、追い越しに関する注意などは処罰に際して要件とならない。このことは意思を酌量すべきときは汲むなり、無視すべきときは捨象するなりの、主観的契機の按配が必要なことを含意している。そこに内包的な記述が必要となる所以がある。
 そこで買収のように違法な結果を故意に招くときも、その責任はIに準拠して問われると考える。アンスコムの例を文脈に沿うように再構成すると、 (34)─ 現金に対する経済価値の帰属者移転が目的の実現である。と同時に現金授受の違法性の認識、つまり違法性を犯すまいという抑止意思が責任を構成する。つまり抑止意思を、より悪い状態を起こさせないこと、不良変更(35)を防止する目的をもつとして捉える。

J AはBから現金で大量の買い物をした。BはCと親密な関係であった。AはCを買収した。

 すると責任は次のように問われる

K Aは意図的に現金に経済価値の帰属者移転を行った。BはCと親密な関係であった。または現金を使うことは本来的には経済価値の帰属者移転を行うことを目的とする、と同時にAは現金で経済価値の帰属者移転を行ったことは対象Cが買収されないことを抑止意思とする(抑止されるべき目的として認識していた)

 例えば「ナイフを使って刺す」出来事において「復讐する」という目的志向的構造が成り立つが、責任が問われる場合、過失と同様、「ナイフを使って刺す」べきではないという注意規範が認識されている。
 Kのケースでは罪があるなら買収すべきではないと人格が注意規範を認識していた。そうした注意規範の認識によって、罪を着せられる。この過去完了的な抑止意思を原因でなく目的として解釈する所以は抑止されなかったという現に起こった結果に照らしてのことである。したがって(意志が現実的な違法行為に具現した場合に限れば)注意規範に背馳する振舞から生じた侵害経過が通常であるか、という因果法則性に関する判断のみならず、そうした侵害経過が注意規範を防止しようとするものであるかという価値判断にも重きを置くべきである(36)。
 さて一般に不法は、下位区分を略すと、1)行為と因果関係 2)行為が害悪発生に機会を提供したこと 3)行為と責任非難 4)責任非難を伴わない行為、のいずれかが立証されなければならないケースに分けられる(37)。普通、刑法において最も通常みられるのは、危険な武器を知りつつ所持するというような3)のケースである。これを今の議論に関連付けると道具を意図的に人格が使うことが想定される場合、ある程度の範囲で「行為の形」は決まっており(たとえマンドリンが人体に損傷を及ぼす場合でも、鈍器を用いるという行為の形は変わらない)、それを地として抑止意思(マンドリンを凶器として扱わないよう注意しよう)が浮かび上がる。例えば『Xの悲劇』に登場するような毒針の附いたボールを所持しているだけで、凶器の使用という類の因果関係がなくとも、ボールの所持という行為と抑止意思、ひいては注意規範の認識とそれに背馳する作為(不作為の場合は注意規範の認識と客観的帰属に照らした遂行努力の欠如が必要となる)があれば責任非難は成り立ち、違法性は課せられる(38)
  問題は因果関係がない2)や 4)の場合を抑止意思、ひいては注意規範認識の概念によって十分論じうるかということである。(注意規範の認識は、意思形成過程の非難が可能かどうかに関わるもので、故意とは法的に区別されるべきものである。適切な状況に対する応対をとらなかったということに過失行為の評価対象を求めるとすれば、過失行為はすべて不作為を本質とするものとなり、結局、過失犯はすべて不作為犯であるというアポリアを孕む。)
  2)行為が害悪発生に機会を提供したとは、例えば自動車運転手がその車の点火装置に鍵をさしたまま、車の錠をしないで放置していたとし、その車の盗犯が人を引いた場合(責任非難を伴う)や、財貨の売買契約をした売り手が約定した期日にその財貨の引き渡しをしない場合(責任非難を伴わない39)がそれに当たる。売買契約は厳格責任を含意し、その不履行の抑止は当然のことであると考えられる。契約の不履行が咎められるのは、先の前例のない地震のために財貨が一部傷ついて、財貨の引き渡しが遅れた場合、瑕疵のある財貨を引き渡そうとしなかったという抑止意思が働いているからである、と見られる。つまり(期日通りに引き渡すよう可能な限りの条件で財貨をしつらえるべきであるという)義務の認識とその不遵守という出来事の観点から責任が問われるのではないか。
 4)責任非難を伴わない行為のうちでも例えば混ぜ物にある食品を販売した場合、何人も被害を受けなかった、つまり因果関係がなかったとし、混ぜ物があることも知らなかったとしても、責任は問われうるというのも販売者は販売をするという行為において、混ぜ物を混入しないことを抑止意思(40)としていたのである。
 このように結果無価値から注意規範の認識を外挿して基礎付けられる、とするならば、事後的に確定される結果の有無もまた、考慮の範囲に入ってくる。つまり一定限の事実の客観的実在をも必要とし、行為の目的志向的構造の違法性は客観性を十分持ち得る。
 違反に対する抑止意思によって十分、準因果的に過失の違法性は基礎付けられると、憶言しておくに留める。(例えば爆発物貯蔵の場合のように)注意認識とその違反を準目的論的に(⊂準因果的に)説明さえすれば責任非難は立証する必要がない。

(三・三)目的論と主体性

 先に述べた倫理規範を論じる場合でも、特に倫理が結果の存在のみならず主体の動機を問う点で、 (未遂は別にして)結果にのみ罪を問う法とはスタンスを異にする。(行為の選択を行う場合味覚上の理由でコーヒーを選ぶのと他人への義務感からストライキをすることは大いに違うが、法はさしあたって結果に注目する。) 例えばデリダはカントの一元的平面を超えて動き得る法を構想しようとした。その中核を為すのが倫理的責任であり、自己と他者を隔てたデリダのプロジェクトの周縁において倫理的責任がより先鋭化する(41)。カントの倫理的責任概念に依拠してデリダは倫理的責任を彫琢したのであり(42)、法の力とは他者との差延において成り立つ、その派生態である。法の「力」とは自己と他者の間の関係における必然的な「差延」の産物である(43)。
 したがって、デリダによって強調されるように倫理的責任と異なり法は、他者の固有性を看過することになる。デリダは「ハイデッガーのヒューマニズム的精神の響きを意識的に漂わせた比喩を使いながら法の野心(ambitions)の物語は「幽霊の物語」であると示唆している。」つまり倫理的責任とは違って「法は「他者にたいして」「責務」(obligation)を負う正義とは関係をもたない。」(Ward:75)(44)すなわち法は倫理的責務を忘失している。
 ともすればデリダ的無限責任論の立場から行為を外延的に規定し権利所有を指示するとき、多様な内包に応じた多様な責任は、行為の時空的性格によって一様に処理されてしまう(45)。私としてはそうした外延的規定では権利・責任の定義はあまりに煩雑になり、役に立たないと考える。外延的規定、つまり「外界における変化が時間的に後続して当該行為に接合し続け、しかしその変化が当該行為と、そしてその連続において相互に(自然)法則的に結合」することに留まらず、法により規定された具体的構成要素にたどり着く必要がある。
 道具を使った理性的行為においては、行為の分節化の仕方に応じて、因果法則性を考慮に入れる準目的論的説明か、または因果法則性を使わない目的論的説明の形で、行為が説明される。いずれの説明も目的志向的構造を取るから、選言除去の導出規則により

■ 少なくとも道具を使って意図的に行為する場合、目的志向的構造が常に妥当する。

 それと関係する範囲で意図的行為と帰責の分析を試みた。一般に道具を使うことにおいて罪が問われる場合、行為者はある範囲で出来事を促すことを可能的な目的として決まっており(「行為の形」)それとの対比で罪を犯すことの抑止を目的とする。道具を使用する文化的行為において価値は主体性の展開として現れる。その行為が主体に立ち止まるのならば、まったき第三者の法廷はエピソードに過ぎない。責任は行為の内包的な規定のクッションを経て緩和される。約めて言えば行為の結果が意図されていない場合は予期しえた結果から帰結しうる結果には責任が帰せられない場合がある。すなわち行為の記述が内包的に抑止意思をもたないとされるとき、責任が問われない。道具行為に代表される理性的主体の振舞には、「弱い責任」しか課せられない(46)。
 これに対して特殊の否定は名もなき他者の抑圧を意味すると言われるかもしない。しかしデリダ的な「強い責任論」を以下のようにリッカート=ハイデッガー的に相対化したい。かけがえのある普遍(ラスクの超越論的主観)の名の下に罪が問われなくては、魔女狩りだけが帰結しかねないからである。法が応答可能性の彼方の「暴力」であるにしても、同時に加害者を断罪の恣意から守る「力」でなければならない(47)。
 たとえある人が正義の名においてある特定の他者にだけ関係し、それ以外のすべての他者を無視するとしても、あるいは、彼または彼女がいっさいの規則や原則を無視し、そのつどただ恣意的・即興的に行為するだけだとしても、極端な不正が招き寄せられる恐れは一つの蓋然性に留まる。実定法的に最低限の規範が守られさえいたら、社会規範に合うように振舞えば、帰結主義的には善いからである (48) 。倫理的正義の代わりに、平均的なかけがえのある他者(人格とはせいぜい斉並みに扱われた制度の構成者に過ぎない)との釣り合いさえ保たれていればよいのではないか。
 今ふたたび意味の第三領界の存在論的含意を、ハイデッガーが次のように述べていたことに関連して思い出しておこう。「リッカートの「第三領界」ならびに〔存在や価値という〕別のものとの関係において「第三領界」を由来せしめたその非凡さについて。」(49)
 ハイデッガーが大文字の価値たる〈存在〉の〈意味〉は現実の〈存在者〉に即して問われた如く、価値と存在者の間の「現」に意味が問われたのであった。そうした実践的含意は客観と主観の分化以前の「意味」を存在論的に橋頭堡にすることから帰結した。ハイデッガー/リッカート的な「現」という異なりでの振舞の生き抜きは、主体に対して現前する意味に根ざしている。「私に出会う他人たちもまた、私の理性によって、その固有の存在を―そうしたものがあるとして―抹消される。」(50)
 私が背負うこの十字架は、理性の作動する限界であり、その限界を知るところから「理性」からの越境が始まる。その消息はまた別の機会に訊ねなくてはならない。

(1) 柏端達也『行為と出来事の存在論』勁草書房、1997年。以下柏端と略記し引用頁数を掲げる。なおアンスコムの外延的な存在論はG.E.M.Anscombe,Intention,Basil Blackwell,2ed.Reprinted,1966,p.45-47.参照。本稿はそれに抗い、内包的な記述の下での出来事の存在論を採り、目的論にコミットする。
(2)不可逆的な時間の距離を橋渡しする現存在に、今という刹那を脱け出ていく脱自の目的志向的構造が認められる。構想力は、そうした非在をあたかも存在するかのように現前させる能力であるということができる。Martin Heidegger, Kant und das Problem der Metaphysik, Gesamtausgabe, Bd.3, Vittorio Klostermann, 1991, vgl.S.175.
(3) Heinrich Rickert,Zur Lehre von der Definition,J.C.B.Mohr,1888,S.30特に初期リッカートにおいては因果論的(自然主義的)連合心理学に抗って、概念を感性的表象に即して考えずに、関数的判断をその本質としてもつものとする (Rickert, op.cit., S. 51-52) 。法益遵守目的の概念構成と目的的行為論は、後に新カント学派の法哲学として彫琢される。本稿で後に抑止意思と呼ぶものは、法遵守目的の認識(法規範から外挿して裁判官の純刑法的な態度規範の形成によって構成される)ものを一番広い外延とする。新カント学派の法学における目的論的概念構成については植松秀雄「法学方法論の一考察−E.ラスクの目的論的概念構成を中心に−」『法学論叢』第七八巻第五号、1966年2月、43−63ページ参照のこと。
(4)倫理学における目的論(フランケナ『倫理学』邦訳第二章)の中でも人が常に自分自身のための最大の価値を促進すると考えるのが、倫理的利己主義である。理性とは、永井的《制度の他者》の自己利益性―語るべからざる沈黙すべき概念―への謚である。本稿は、《制度の他者》に抗い「強い責任論」を説く北田暁大『責任と正義 リベラリズムの居場所』勁草書房、2003年とは対極の立場に立つ。
 なお新カント学派との関係に数言を費やしておけば、「ヴェルツェルは彼ら〔新カント学派の刑法学〕の目的論的ないし規範主義的考察方法が、法的評価の対象としては、実証主義と共通の、没価値的で機械論的・因果的な実在概念を予定しながら、これを価値評価の次元で補完することによって有意味な現実へと「形成」するものにほかならないことに注目した」(井田良『犯罪論の現在と目的的行為論』成文堂、1994年、2ページ)、とある。もちろん没価値性は新カント学派のヴェーバーの説く所であり、こうした叙述の妥当性を一概に否定するものではない。しかし新カント学派の始祖において存在論的にはむしろ超越的価値が実在に先行する(価値を目的論的に志向することにより、実在が構成される)のであり、下っても価値を存在が補完するという表現の方が適切であることに留意を促しておく。九鬼一人『新カント学派の価値哲学』弘文堂、1989年参照。

(5) このことは、ヴェルツェルが目的性は結果を惹き起こす相当な手段を要求するとしたことにも現れている。Hans Welzel, Kausalitat und Handlung, in:Abhandlungen zum Strafrecht und zur Rechtsphilosophie, de Gruyter,1975, S.21.
(6)ヘンペルは論理的に妥当な推論を行っていないにもかかわらず、機能的説明で考察されるべき問題を把握していた。Carl G. Hempel, The Logic of Functional Analysis, Aspects of Scientific Explanation,and other Essays in the Philosophy of Science, Free Press, 1965, p.305.
(7) Ernst Nagel, The Structure of Science, Harcourt, Brace & World, Inc.1961. 以下Nagelと略記し引用頁数を掲げる。

(8)http://www.ub.rug.nl/eldoc/dis/fil/r.c.looijen/c7.pdfの定式化を参照した。
(9)Georg Henrik von Wright,Explanation and Understanding,Routledge & Keagan Paul,1971.以下 Wrightと略記し頁数を掲げる。
(10)人間事象の準目的論的説明の意義を思うにつけ、現象学的社会学の地平を拓いたシュッツが過去完了的な諸体験に真性の理由性の動機を遡及していた慧眼に想到させられる。Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt, Springer, 1932, S.103.
(11) Heinrich Rickert,Grenzen der naturwissenschaftlichen Begriffsbildung, J.C.B.Mohr, 1896-1902, S.373. 刑法理論の目的行為論における目的性も固有の非因果性ではない。その点からも準目的論的説明に因果法則を読み込むことが正当化される。ただし目的行為論には実質的に因果関係を非蓋然的にすぎないとみなす亜種まで存在する。小林憲太郎『因果関係と客観的帰属』弘文堂、2003年、121-122ページの紹介を参照のこと。。
(12) ここでの議論はカミンズの言及する「最善の説明への推論」と本質的に関係ない。カミンズの論点はもっぱら生物の進化論的自然淘汰に関わる。Robert Cummins, “Functional Analysis”,Journal of Philosophy, Vol.72,No.20, 1975,p.741-765. 
(13) Keneath F. Schaffner, Discovery and Explanation in Biology and Medicine,University of Chicago Press,1993,p.369; Martin Mahner & Mario Bunge, Foundations of Biophilosophy, Springer, 1997,p.156.特に前者はマッキーの「状況において必要な」説明に言及して、必要条件が先取されていることを説く。

(14)「意図的でなく引き金を引いた」ことが相対的な必要条件となるときでも、責任非難を伴う故意ではないが意図的に親指を掻こうとして結果として引き金を引いて人を殺した」過失の場合と責任非難を伴わない場合に分かれる。(後者として、例えばたまたま盲人が拾った銃器の引き金を痙攣によって引いたが、弾丸は人に当たらなかったケースが当たろう。) 多かれ少なかれ過失責任を咎められれば、後続事象を惹起した原因は注意規範に背く違法を犯している。前者のような過失は、「失敗した意図的行為」(野矢茂樹『哲学航海日誌』春秋社、1999年、259ページ)の一例である。意図的に引いたか、非意図的に引いたかという内包的記述、違法性の認識が責任の根拠となることは、これらから類推がつく。ただし存在論的には「意志〔引用−ママ〕という心的行為などありはしない」(野矢同書、V行為の意味、特に201ページ)という立場にコミットする。合わせて門脇俊介『理由空間の現象学 表象的志向性批判』創文社、2002年、第一章3,4を参照されたい。
 金澤文雄は『刑法の基本概念の再検討』岡山商科大学研究叢書1、岡山商科大学、1999年、103頁で、「…刑法上の不法を基礎付けるのは法規範であり、過失犯では客観的注意義務違反である。結果が生じたか否かは規範違反の有無・軽重とは直接関係がないから、理論的には結果発生が不法を基礎づけるとか、重くするとはいえないだろう。」と述べられている。実際銃砲刀剣類所持等取締法では、銃砲刀剣類の不適格者の所持は因果関係と直接関係にないように見えることはこのことを裏付けているようにも見える。
 ところが銃砲刀剣類所持取締法第五条三に住居を持たないものとある。これは住居をもたないことが武器による害悪を提供する機会を与えるという因果法則性から類推して、害悪を発生する機会を抑止する目的を持った事項として理解できる。(論者によれば、建築許可を受けずに防災上危険な部屋を増築した大工の行為が、第三者の放火による住人の死亡の因果関係に機会を与えた、ということになる。林陽一「刑法における相当因果関係(ニ)」『法学協会雑誌』一○三卷九号124ページ注(76)。つまり大工は建築許可を受けずに防災上危険な部屋を増築したさい、抑止意思を認識していたはずだから、責任を問われるのである。) すなわち結果とはたしかに直接的には関係ないが、間接的に因果関係に機会を与えるという原理が―金澤文雄とは異なり―違法の根拠として働いていると考える。つまり害悪を発生する機会を与えたという結果に基づき構成された準目的論的説明(⊂準因果的説明)ということになる。
(15) 結果にとって必要条件は他の諸要因からある仕方において区別され得る。(ここでは準目的論的説明を採用したのでmutatis mutandis原因を目的に置き換えて解釈する。)H.L.A.ハート、トニー・オノレ共著、井上裕司・真鍋毅・植田博訳『法における因果性』九州大学出版会、1983年、邦訳258ページ、原著p.110.相当性による帰属範囲の限定は、意思による目的的支配・統制が可能な限度においてのみ為されるのであって、因果法則を前提としない場合でさえ、せいぜい蓋然性の高い経験則から、内包的な意思を外挿していると考える。
(16) ハイデッガーが実践的な概念のもつ相補的関係性を「適所性」(Bewandnis)において考えたことの先駆をリッカートに読み取れる。Martin Heidegger, Sein und Zeit, Vittrio Klostermann, 1977,S.92. 九鬼一人『新カント学派の価値哲学』弘文堂1989年、第一章参照。
(17) Heinrich Rickert ,“Urteil und Urteilen”,Logos,V,1912, S. 234.普遍的関係が現実に埋め込まれていることを認めることは、従来の新カント学派の認識論的現実解釈(加藤新平、「新カント学派」、法哲学講座、有斐閣、1956年、第五巻(上)、139頁)に再考を促すものである。ハイデッガーにおいて全体論的布置構造が可能性の条件を成すことについては門脇俊介、前掲書、第五章3。
(18) 特にカントの趣味判断とも関わる目的志向的に統一された歴史的個体のあり方についてはRickert ,Grenzen, S.372.「かけがえのある」個体の用在的立ち現れについては井上忠「アリストテレスの「存在把握」」『哲学の現場 アリストテレスよ 語れ』勁草書房、1980年、50-70頁。受肉した経験によってカテゴリーは形成されるとする、レイコフ等の考え方は、古典的なカテゴリーの特殊/普遍の階層構造に対する批判となっている。George Lakoff,Women, Fire and Dangerous Things: What Categories Reveal about the Mind, University of Chicago Press, 1990.
(19) 三木清が「あらゆる技術にとって一つの根本概念は形Formの概念である」と述べたとき、彼が念頭においていたのは感性に根ざした生活体験の沃野に横たわる具体的な生の様式なのである。三木清『構想力の論理』『三木清全集』第八巻、岩波書店、1967年、227頁。表記を新仮名遣いに改めた。それは知的なものと感情の間にある主客の結合した環境との相互作用の織り合わせとも言うことができる。三木清前掲書、35、44頁。目的は情状性と一体化したパターンに依存する。行為のパターンと目的との融即は技術の図式の相対的依存を説くカッシーラーの「行為の形」の着想と合致する。 Ernst Cassirer, Symbol, Technik, Sprache, Philosophische Bibliothek, Felix Meiner, 1985, S.43.直江清隆「行為の形としての技術」『思想』岩波書店、2001年、No.926.も合わせて参照のこと。
(20) 本稿は合法則的条件関係よりも広い基準を取る。行為の目的志向的構造を前面に押し出す本稿の立場は、相当説と概念規定上異なるが、規範の適用に際しては実質的に相当説に近い立場をとる。(目的志向的構造を認めたとしても、明らかに偶然的な出来事の繋がりの間には外挿による抑止意思の帰属、つまり違法を構成する内包的な記述が成立しない。逆に出来事の全体に対して部分が目的志向的構造を取り、法運用上この抑止意思が外挿される場合に限って違法を構成する内包的な記述が成立する。例えば「大阪南港事件」最決平成2年11月20日刑集44巻8号837ページの事案において出来事の全体に着目して相当性が判断されたことを想起されたい。)
 ただし目的論的説明で問われるのは、「一定の将来の事実の現実化を目的として因果的過程を統御・統制しその目的の実現に導くという、…目的連関(Finalnexus : Final−zusammennhang)の全体」(井田良、前掲書、40ページ)という概念規定上の基本線は譲らない。目的実現のためには、「目的実現の成否に影響する行為事情の認識、因果の流れに関する予見、そして可能な付随的結果の表象などが不可欠」(同書、41ページ)である。逸脱的因果の存在が、目的志向的構造の傍証となることについては別稿に譲る。
(21) Edmund Husserl, Logische Untersuchungen, Husserliana, Martinus Nijhoff, 1984, Bd.]\/1.S.267. 端的に現れるのが全体的な行為であることについては、野矢茂樹の分析的生成に賛成できる。例えば「身体運動」と「環境」が不可分のものとして溶け合っていると言うが(野矢茂樹「行為者性と意図」『人文学科紀要』(東京大学教養学部人文科学科哲研究室)1994年、103, 187頁)、私の考えでは「道具」は一種の「環境」とみなす。
(22) そこには引き金を引いたのは銃を撃つためであった、という目的論的説明の響きがある。そこから因果一元論に抗うブラッドマンの反還元論を継ぐ余地が生れる。Michael E. Bratman, Intention, Plans, and Practical Reason, Harvard University Press, 1987, p.18f.
(23)Peter Menzies and Huw Price,“Causation as A Secondary Quality”,The British Journal for the Philosophy of Science, 44(1993),p.187-203. @p.197. 確定的な全称命題が個別の出来事を惹起することは、行為の可能性が未来からやって来るという目的論的構えと馴染まない。
(24)鈴木美佐子・藁谷敏晴「行為文の推論構造について―柏端論文「行為と道具」およびデイヴィドソン型分析をめぐって―」『科学基礎論研究』Vol.23 No.2、1996年、1-6頁。個体論に定位する限り、調整・制御を旨とする意図的行為の範例から外れる。つまり鈴木・藁谷の議論では、正一を狙撃した一時間後に笠原が死んでしまった場合の意図性を説きづらい。
 なお択一的競合における殺人、例えば父親甲は我が子乙を放置すれば溺死する状況で、乙がスキューバダイビングをしていた丙に銛で刺し殺されたような場合が仮想できる。特に第一行為者甲にとって、第二行為者である丙の刺殺行為が甲の未遂を代替する説明項となる。
 そのさい甲の不作為と乙の死の関係は裏の条件関係に立つにすぎず因果関係は認められない(なぜなら最終的に丙によって救助され得たかもしれないからである)が甲の未遂は論じうるのではないか。「裏因果律」によって因果関係を正当化しようとする鈴木延寿の見解ではこの未遂の場合でも因果関係が成立するという難が伴う。鈴木延寿「条件関係と因果関係」『科学基礎論研究』Vol.29 No.2、1996年、1-7頁。この場合は原因が置換され代替原因が考慮されない場合に当たる。にもかかわらず、〈甲が溺れさせるのが悪いという認識の下で溺れさせた〉という抑止意思を含んだ記述が妥当し、それ故に責任も問われうる。
 この場合甲の未遂に丙の刺殺との因果関係もないのに、丙に既遂罪が認められるのに対して、甲には未遂罪しか認められないのは、(準目的論的説明ではなく全体論的)目的論的説明の観点から非因果的な抑止意思が妥当するものと解し、抑止意思の下での未遂の余地が生じるからと考える。もちろんそうした説明は準因果的説明の選言肢を成す。本稿は、徒に代替原因を想定することと引き換えに第一行為者の不作為の関与を肯定する議論の煩雑さを避ける。(第一行為者の作為の場合はこの限りではない。)
(25) 例えば弾丸を発射することが抑止されるべきことの認識・弁別を伴わずしかも因果関係を惹起したのではない場合、銃撃の責任が問われない。心神喪失に陥って(抑止意思がなく)吸血鬼と思った他者にわざわざ銀の弾丸を発射してしまった場合等を思い浮かべてみよ。ここでは吸血鬼は存在しないのだから吸血鬼を殺したという因果関係すら成り立っていない。つまり吸血鬼と思った他者を射殺して悪くないという具合に弁別能力をもたなかった以上、吸血鬼を殺したという因果関係の内包的な記述が存在しないのだから銃撃の責任が問われない。

〔補足〕 武器の所有が危険な武器を知りつつ所持するという認識と責任非難の立証を必要要件とすることは銃砲刀剣類所持取締法で以下のように所持が制限されていることに示されている。すなわち武器という財に対してしかるべき「機能」をもたない者に対して、責任非難を問えないから予め所有の可能性が排除されている。
     すなわち第一に法人格を構成しない未成年を排除し(銃砲刀剣類所持取締法第五条一)精神的疾患・薬物の影響で心神喪失にある人間を埒外に置く(同ニ)。いずれの場合も責任非難を問えない場合に該当する。このことは道具という財に対応する「機能」に即して妥当する。Amartya K.Sen、“Rights and Capabilities” in: Moralities and Objectivity, ed. by T. Honderich Routledge & Keagan Paul,1985,p139.その概念的な裏付けを与えておけば以下のようになる。
    たしかに障害や病気がある人を含めて、どんな人でも、注意力や集中力、心身のコンディションの変化などによって「鉄砲又は刀剣類を適正に取扱う」機能に欠損が生じるのが普通であるとはいうものの、免責のためには弁別能力だけで十分である。森村進『権利と人格』創文社、1989年、220ページ以下。「〈良心の苛責を感じない者に特に免責する必要はない〉というこの意見が受け入れられるなら、責任能力の要件として、行為の性質を知る能力は必要であっても、そこでいう「性質」の中に評価的な要素を含めるべきではない。……われわれと道徳的信念が違い、それゆえ異なった是非の判断をする者も、行為の内容を知っている (あるいは知る能力がある) 以上は、自分のしていることを理解できない者と同視して免責すべきではない。」武器という財に対して主体が、「機能」を行使するための弁別能力をもつか、という価値判断から判断されるべきなのである。つまり制御能力がないことは免責にとって二次的問題であり、法的には武器に対して注意規範の認識の弁別という「機能」を持ちうる主体にのみ、武器所有が認められるべきである。したがって環境に応じた責任非難を問うという観点よりも、弁別の有無、つまり「精神障害又は発作による意識障害…支障をおよぼすおそれがある病気」と直結させて、弁別能力を欠く障害や病気のある人に所有の許可をすべきでない。ただし障害者の弁別能力は個々に判断されるべきことは言うまでもない。

(26)結果記述の内包性は後知恵的/全体論的に置換されることがあり得る。例えば次のカーブを曲がることや、その場で急停止するような「目的」は、往々にして事後的に類推される。(シェーラーのTunwollenに関連して言うべきことは多いが、詳論する紙幅はない。Vgl.Gunther Jakobs, Strafrecht, Allgemeiner Teil, 2Aufl.1991, S.133ff.)
 また例えば被害者を石で殴って死亡させたという事例で、彼が階上から落下する石の軌道上に元からいたとすれば、行為は既存の因果経過を修正したにとどまる。その場合石の落下という代替原因は考慮される。(@予測不可能な事情が介在して傷害の致命的な作用が促進されたケース、例えば行為者が傷害を目的にナイフで刺したとし、致命的な傷であったが、そのナイフに付着した珍しい黴菌のために被害者が死亡した場合も言う所の「修正」に準じた扱いになるのではなかろうか。)
 他方石の階上からの落下の代わりにガス漏れがあったとすれば、石で殴ることはガス漏れを置換しているからガス漏れという代替原因は考慮されない。(A甲が乙に致命傷となるような重傷を与えたところ、乙が病院に運ばれる途中で交通事故によって死亡したとか、甲が乙を高層ビルの屋上から突き落としたところ、隣のビルから無関係の丙が落下中の乙を射殺したというような、実行行為は高度に危険であったが、その危険が実現する以前に、偶然的に介在した別の傷害が死因となって結果が発生した場合甲の行為と結果の間に目的志向的構造を認めるべきではない。平野龍一『犯罪論の諸問題(上)総論』有斐閣、1981年、42ページ。) いずれも目的論的説明(⊂準因果的説明)の全体論的後知恵により遡及され得るか否かによって判定される。
 この立場から言えば、例えば自動車運転中、進路前方の歩行者をよけようとしてブレーキを踏もうとしたが、誤ってアクセルを踏んだため、衝突して怪我させたという出来事全体に怪我させまいという抑止意思が含まれていることになる。米田泰邦『行為論と刑法理論』成文堂、1986年、93ページのように「そのペダル」を踏んだ所までしか意思が及んでいないとする立場とは、距離をおいた立場を取る。したがって例えば、行為者が被害者を殺そうとして猛毒の菓子を渡したところ、被害者がこれを喉につまらせて窒息死させることになったのなら、全体の出来事「猛毒の菓子で窒息死せしめた」に目的志向的構造が妥当する。
(27) 否定的事実は文脈によって成立しうることは、九鬼一人「ラッセルの否定の概念」『哲学』(日本哲学会刊)、第38号、1988年参照。プッペがまとめているようにカウフマンが不作為者と行為の欠如の因果関係を否定するのは、その出発点自体と矛盾している。Vgl.Ingeborg .Puppe, Nomos Kommentar zum Strafgesetzbuch,Nomos Verlagsgesellschaft,1995,Vor§13, Rn105ff.
(28) Michael Kahlo, Das Problem des Pflichtwidrigkeitszusammenhanges bei den unechten Unterlassungsdelikten, Duncker u. H., Bln. Broschiert, 1990, S.155ff.
(29)不真正不作為犯について諸家の意見は分かれている。金澤文雄は不作為と結果の条件関係を認めながら、不作為者の因果関係を否定する。これに対して多数意見によると「現在では不作為を単なる「無」としてとらえず、規範的・価値論的観点から不作為を「期待された行為がなかったならば、結果の発生を防止し得たかどうか」という形態で不作為の因果関係(条件関係)を論じる」のが大勢を占める。金澤文雄「不作為の因果関係」『広島大学政経論叢』一五巻四号三七ページ以下。岡野光雄・(大塚仁・河上和雄・佐藤文哉編)『大コメンタール刑法第二巻』1989年、125ページ。不作為犯は犯罪義務ごとに不作為義務と作為義務が同価値であることという価値判断が必要とされる。
 作為義務が存したうえで防圧の可能性が存在し、黙認したことが犯罪を惹起せしめたことと同価値と考えられる。同価値性の判断において防圧にでなかったことは日本刀の使用を幇助したのと「内包的に」等しい。この命令規範の内包は裁判官の純刑法的な態度規範形成によって初めて成立すると見なされる。Joachim Vogel, Norm und Pflicht bei den unechten Unterlassungdelikten, Duncker & Humblot, 1993.すなわち準目的論的説明と両立する因果関係とは別に、目的論的説明(⊂準因果的説明)の妥当する余地が与えられている。
(30) 例えば金澤文雄は竹田直平「過失犯および不作為犯の構造と行為支配性」『甲南法学』第九巻一・ニ合併号1968年が、違法評価の対象たる意思の客観的実現・不実現と、責任評価の対象たる内的意思形成とを同視していると批判する。金澤文雄『刑法の基本概念の再検討』岡山商科大学、1999年、36-37ページ。
(31) 中島義道「行為における動力因と形相因」『科学基礎論研究』Vol.17 No.4,1986年、35-36頁。

(32) 中島義道「カント倫理学における「法論」の地位について」『東京大学教養学部社会科学紀要』第三十五輯、1986年、231-234ページ参照のこと。ちなみに当為Sollenが罪/責任Schuldと語源を同じくしていることと無縁ではあるまい。Friedrich Kluge, Etymologisches Worterbuch der deutschen Sprache, de Gruyter, 1883, S.714.
(33) 他者は私の目的追求のために環境を整えることはできるが、私に代わって私の目標を追求することはできない。したがって自分の子供の健康を促進することを結果理由と呼び、自分の子供の健康を促進するために自分が努力することを行為理由と呼ぶのならば、目的追求は基本的に行為理由であると考えられる。Joseph Raz, The  Morality of Freedom, Clarendon Press, 1986, p.145-146, p.306.「 弱い責任論」は結果ではなく行為の主体の目的追求という志向性に焦点を結ぶ。
  目的論の現代版の指針となるリッカートの意想に与すれば抑止意思を成す「内在的意味」の帰属は、個別主観の裁量に任されている。そうした志向性は世界の内部において存在者の下にとどまるという超越のあり方を明るみに齎すものである。ハイデッガーと同じく(vgl. Martin Heidegger, Gesamtausgabe, Bd.9, S.135, Bd. 26, S.211, usw. )、目的を志向する主観の行為と不作為の基底にある「態度」(Verhalten)に焦点が結ばれることになる。Armin Kaufmann, Die Dogmatik der Unterlassungsdelikte, Otto Schwarz & Co., 1959, S.85f. すなわち活動と観照を包括する上位概念が「態度」である。(Rickert, System der Philosophie, TTeil, Allgemeine Grundlegung der Philosophie, J,C.B.Mohr,1921,S.353)なおVerhaltenが主観内部にカプセル化された志向性でないことは、Hubert H. Dreyfus, Being-in-the-world, The MIT Press,1991を見よ。
(34) G. E. M. Anscombe, “Under a Description”, Nous ,1979, p.232. 経済価値の帰属者移転を行ったことが買収されないことを抑止意思としつつ、買収を目的としていた、というのは、通常の目的論的行為論の構制と趣旨を異にする。普通目的論的行為論ではこうした場合、法益侵害結果の惹起を目的にする、と理解されるからである。しかし故意における法益侵害の惹起においても、法益侵害の認識が文字通り全くなければ、原基的に弁別能力の欠損を含意し到底責任は問えないだろう。注(25)参照。ここでの抑止意思の構成は法益侵害の認識をしていたなら、仮に人格なら些かなりとも抑止意思を目的として抱いていたはずである、という類推に委ねられている。
(35)例えば傷害とは「腕から血が流れている」状態の結果それ自体ではない。否定的評価を下すために傷害は「腕から血が流れていない」状態から「腕から血が流れている」状態への変更、もしくは「腕から血が流れている」状態から「腕からもっと多く血が流れている」状態への変更でなければならない。こうした結果無価値のみならず、〈法益を侵害する客観的変更を志向する行為〉の内包的記述にも、違法評価は委ねられている。Hans Welzel, Studienzum System des Stafrechts, in: Abhandlungen zum Stafrecht und zur Rechtsphilosophie,1975, S.120ff.
(36)注意規範の遵守・それからの逸脱の抑止が目的となる場合、注意規範を守っても偶然的にしか回避し得ない結果に帰責されないことがある。これは裏を返せば注意規範に違反すると必然的に発生する結果は帰責されるということであり、概念の上で相当説を必ずしも意味しない。ただし運用上は相当説と大きく変わらない。(すなわち事実判断は価値判断に原基的に負うとした新カント学派と同じく、法判断は常に価値判断を含んでいると見なすべきである。Vgl.Fritz Loos, Hans Welzel (1904-1977),in: Rechtswissenschaft in Gottingen : Gottinger Juristen aus 250 Jahren / herausgegeben von Fritz Loos, Vandenhoeck & Ruprecht, 1987, S.506ff.
(37)『法における因果性』、邦訳19-25ページ、原著IlB-IlF。参照箇所での不法の分類は精確には以下の通りである。@行為、因果性および責任非難が立証されねばならない。A行為と因果性が立証されねばならない。B行為が害悪発生に機会を提供したこと、および責任非難が立証されねばならない。C害悪発生に機会を提供した行為が立証されねばならない。D行為だけが立証されねばならない。E害悪惹起ないし機会提供について責任非難もなく、それらの行為も立証される必要のない場合。
 害悪発生に機会を提供したことは因果関係の惹起の立証より弱い条件である。すなわち「有意的行為ないし偶発事故のあとにつづく出来事は、先行の行動ないし出来事に、その帰結としては帰属されない」のであり、「たとえ、この先行事実がなかったならば、その後の出来事もおこらなかったであろうとしても」という譲歩がつく場合を言う。同書邦訳194ページ。(例えば甲が火のついた煙草を落ち葉に投げ込み、それに火がつく。その炎が消えかかろうとしている正にそのとき、乙が灯油を注ぎ森林火災に至るとする。森林火災の原因は乙の行為である。にもかかわらず、甲は害悪発生に機会を提供したのであり、責任は問われる。)

 こうした「殺す」「買収する」という記述の場合でも、責任を問わない場合も存在する。そうした場合は記述から不良変更が省略される場合である。
(38)不真正の不作為が成立するためには行為が存在し、第一に行為者が結果防止の義務(=作為義務)を負い、第二に作為が可能であり、第三に不作為が作為と同価値といえる場合に限られる。したがって少なくとも「意図的に引き金を引かない」と同価値の作為行為が、責任を問われる場合には必要である。

〔補足〕 例えば配下の暴力団員が自己の所有する(登録済みの)日本刀を不法に携帯し、犯行に使用するのを黙認した暴力団幹部である被告人について、不作為による傷害幇助および銃砲刀剣類等所持取締法違反幇助を成立させたもの(高松高判昭和四〇年一月一二日下刑集七巻一号一頁参照)がある。その場合のようにわが国の判例は、故意の作為正犯が存在する場合の不作為が原則幇助であり、因果関係の機会を与えたものとして理解できる。
       このケースにおいて暴力団幹部が不作為であっても、共謀に際し正犯と同視しうるほどの因果的関与が認められる場合、共謀共同正犯と見なされる。共謀共同正犯それ自体、暴力団などの関わる組織的犯罪の大元を叩くために唱えられた考え方で、判例では暴力団幹部に実務上共謀を認める傾向にある。とはいうものの暴力団幹部に暴力団員の武器所有に対して、最近ではよく似ているケースの平成16224大阪高裁控訴審判決で有罪と、平成16323大阪地裁判決で無罪と、判決の違いが出たように、共同謀議の意思形成が実際になされたどうかの判断を待つことになる。
      実際、銃砲剣類所持等取締法違反被告事件、大阪地裁平成一○年()三三○九号、平成13314日刑一四部判決では、親分である被告人を擁護するために拳銃及び適合実包を所持していた被告人配下の暴力団組員との共謀が、以下の検討視点から考察され、無罪が言い渡されている。すなわち…拳銃を所持していた「K及びM…が自分の警護のためにけん銃を黙示的に認識し、これを容認(許容)していた」ならば、「被告人において…けん銃等をKらと共謀して所持したと評価することが可能」であるが、本件の場合「けん銃等に関する犯罪が厳罰化」対立組織等による銃撃の現実的可能性に備える必要がない場合、あえて「けん銃等を準備して親分を警護する必要性」はなく(暴力団の行動原理における相当性の棄却)、また具体的事実認定の総合から、自分の警護のためにけん銃を黙示的に認識し、これを容認(許容)していた、とは言えない、と。このことは所持の共同意思の認識・許容態度を含まない記述があるだけだから、いわんや所持を配下の暴力団組員に禁制する抑止意思等到底ありえない、という論理を掬い取ることが出来る。

     だから銃刀剣類の行使の結果に対する因果的関与の判断に留まらず、具体的共同的な目的意思形成およびその目的志向的行為の命令義務からの逸脱について、内包的な行為目的が確定される必要がある。

(39) 約定した期日にその財貨の引き渡しをしない売り手に対して、責任非難ができない事情によること(例えば前例のない洪水のために財貨が一部傷ついて引き渡しを履行できない場合など)がある。過失認定において管理過失と監督過失の差が生れるが、その査閲も禁欲せざるを得ない。
 こうした場合責任非難を問うのは酷であろうという意見も予想される。しかし製造物の欠陥によって発生した刑事責任については、例えばEntscheidungen des Bundesgerichtshofes in Strafsachen,Bd.37,S.106等がある。けだしそうした場合でも、注意すべき目的規範の認識は為されていた筈であり、因果法則性が必ずしも必要とされない。このことは本稿の目的志向的行為論に適合したものである。平山幹子「不真正不作為犯について」『立命館法学』265号、1999年、第三章。日高義博『不真正不作為犯』第二版、慶応通信、1979年、堀内捷三『不作為犯論』青林書院新社、1978年。
(40)1884年1月14日の判決(Entscheidungen des Reichsgerichts in Strafsachen,Bd.10,S.101)では契約違反の不作為について「義務によって命ぜられた行為の不作為は、刑法典の意味においては可罰的作為に完全同値される」という判決が下されている。この場合の同値関係は必ずしも作為の因果関係とのそれである必要はなく、目的志向的構造と同値の不作為(不作為の場合は正確には注意規範の認識とそれに背馳する〈客観的帰属に照らした〉遂行努力の欠如)があれば足りるのではないか。詳論は別の機会に譲る。ここでは行為者の意思形成が間接的に非難に値するならば、直接には責任非難を伴わなくても、違法性は成り立つと言い切っておく。
(41) Geoffrey Bennington, Jacques Derrida, University of Chicago Press, 1993,p.310.
(42) Richard J. Bernstein, “Serious Play: The Ethical-Political Horizon of Jacques Derrida”, Journal of Speculative Philosophy, Vol.1.1987, pp.93-117.
(43) Ian Ward, Kantianism, Postmodernism and Critical Legal Thought, Kluwer AcademicPublishers, 1997, p.75. 以下Wardと略記し頁数を掲げる。 ref. Jacques Derrida, Force of Law: The “Mystical Foundation of Authority”, in :Deconstruction and the Possibility of Justice, ed. Drucilla Cornell, Michael Rosenfeld and David Grey Carlson,Routledge, 1992, pp.6ff.「要するに、ある決定が正義に適うものでありかつ責任ある/応答可能なものであるためには、その決定はそれに固有の瞬間において、―このような瞬間があるとして―規制されると同時に規制から離れていなくてはならない。決定は掟を維持するけれども同時に破壊し宙づりにしなければならない。すなわち、それぞれのケースにおいて掟を再発明せねばならないほどに、掟を破壊し宙づりにしなければならない。あるいは、少なくとも掟の原則の再確認したうえで、自由にそれにまったく新しい確証を与える、というかたちで掟を再発明せねばならなくなるほどに、掟を破壊し宙づりにしなければならない。」(Ibid,p.23)このように規範としての法の適用は限界をもっていることをデリダは説く。
(44) ref. Derrida, Ibid, pp.10ff.
(45) Hillel Steiner, An Essay on Rights, Blackwell Publishers, 1994, pp.91-92. 人は相手に聞こえるように侮蔑的な言葉をしゃべるという記述の下の出来事を目的に出来ても、「鼓膜を振動させることを目指して音波を操縦する」(Claus Roxin, Zur Kritik derfinalen  Handlungslehre, 1962,in: Strafrechtliche Grundlagenprobleme,1973, S.82)という記述の下の出来事を目的にすることは普通出来ないのであり、内包的な記述を捨象した出来事はふつう行為と言わない。
(46)
デリダに言わせれば、古典的な「主体」概念は、つねに〈自己への現前〉ないし〈自己との同一性〉を最終根拠として構成され、「主体」概念とは、自己に先立つ他者との関係と、それに由来する決定不可能なものとを、みずからのうちから排除することによって構成される内部性そのものである。彼は主体を、他者との関係に開かれようとするなら、縁を切らねばならない「構成された正常性=規範性」そのものであるとハイデッガーを念頭において批判する。というのもハイデッガーにおいては普遍性が自己反省的で決定することを自覚化するからである。そうした決定こそが理性の責任である。Derrida,“The Principle of Reason:The University in the Eyes of its Pupils”, Diacritics ,13.1983.

〔補足〕 すなわち「自己言及は「精神的高揚」(Derrida, translated by Geoffrey Bennington and Rachel Bowlby. Of Spirit:Heidegger and the Question, University of Chicago Press, 1989,pp.23-25,31-45)である。デリダの表現によれば、その中心概念は責任である。責任こそ精神が開示するものである。「すぐ続けてハイデッガーが書いているところでは、「責任」が「放下」(resignation)「精神」の代わりの選択肢として現れている、とデリダは注記する。さらに精神がハイデッガー的中心構成概念としてその位置を固める。」Ward:73)「究極的な現実化realisationはアンチヒューマニズムがそれ自身ヒューマニズムであるということである。これがハイデッガーの陥ったアポリアである。」(Derrida,Ibid,pp.47-55) (Ward:73)
       
それに対し逆にハイデッガー以後の倫理学は理性の限界を超えなければならないとデリダは切り返したわけである。 デリダの示唆によればハイデッガー的技術言語は国家ナショナリズムの存在目的論において反復される。それは自己決定を通じてカント的普遍哲学の確立を目指そうとし、特殊を否定する(Derrida, “Onto-Theology of National-Humanism,(Prolegomena to a Hypothesis)”, Oxford Literary Review,1992.)。「〔限界と排除という概念が〕哲学的著作を周辺に追いやろうとするちょうどその時に、西洋哲学は政治哲学の周縁における人々を意識的に沈黙させようとする。」(Ward: 75)普遍を重視するその論理が必然的に強い責任を掻い潜る傾きを持つ。

(47) 刑事司法システムおいて責任は古来、脱人称化されてきたことと、責任が非人称的主体の下で開示されるという構制を取ることは無縁でない。山本史華「犯罪における責任と人称」『倫理学年報』日本倫理学会編、2003年、第五十ニ集、163-177ページ。
(48)判断中止は結果主義的には問題とならない。社会主義の実現をリッカートが法律の擁護によって達成しうるとしたことはこの点で示唆に富む。vgl. Heinrich Rickert, Die philosophischen Grundlagen von Fichtes Sozialismus,Logos, Bd.]T, 1922, S.174. なおヘーゲル的な法倫理学については“Uber idealistische Politik als Wissenschaft. Ein  Beitrag  zur Problemgeschichte der Staatspholosophie“.in: Die Akademie, Hrsg. von Rolf Hoffmann. Heft4. Verlag der Philosophischen Akademie, 1925, S.147-168.
 ただしリーガリズムに対する批判として法的権利が往々にして不明確であり、権利遂行不全が出来した場合、権利の形式的構造のみならず、初期付与の問題、実現の問題を一括する形で「権利とは何か」と、弁証的に問う場合があることを忘れてはならないだろう。例えば植松秀雄「判決の理由づけについて」(一)(ニ)岡山大学法学会雑誌、第三九巻、第一号・第二卷、1989年を初めとする植松秀雄の一連の論考を参照のこと。植松はArgumentationの思想史的分析を通じ、弁証論を現代哲学の語用論的転回の中に位置づけ、法の欠損を補完する役割をそれに見出している。平野龍一『刑法の基礎』東京大学出版会、1966年、246ページ以下。本稿は―デリダを父祖とするCLSに全面的賛同はできないが、―シュラークをはじめとするリーガリズム批判を一概に否定するものではない。小泉良幸の剴切な紹介を参照せよ。小泉良幸『リベラルな共同体』勁草書房、2002年、第二部第一章。
(49) Martin Heidegger, Gesamtausgabe, Bd. 56/57, Zur Bestimmung der Philosophie,Vittorio Klostermann, 2.Aufl., S.54.
(50)斉藤慶典『力と他者』勁草書房、2000年、60ページ。なおハイデッガーの主体における他者の亡失については岩田靖夫『神の痕跡−ハイデガーとレヴィナス』岩波書店、1990年を参照のこと。
 亡失された他者と対峙することは事実問題として困難である。例えばリベラリズムを体現しているかのように受け取られていた連歌の伝統でさえ(土屋恵一郎『正義論/自由論 無縁社会日本の正義』岩波書店、1996年)、その実、天皇制というコミュニタリズムに絡め取られているという、峻厳な事実認識から出発する必要がある。脇田晴子著『天皇制と中世文化』吉川弘文館、2003年。

付記 本稿の成立において金澤文雄・植松秀雄先生から貴重な資料を賜った。また刑法の判例に関係して加藤摩耶先生に教えを乞うた。しかし諸先生の意見を顧みず自説で押し通した所があることを明記しておきたい。したがって本構の妄言の責任は偏に九鬼にあることを申し添え、合わせて諸先生のご学恩に対して謝意を表することにする。