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重要なこと:反論を想定し自分のなかで対話を行なうこと

ポイント
自分の書きたいことに対して、仮想される批判を常に念頭に置く。
@一般論 Aそれに対する自分の意見 B自分への批判に対する答えを組み合わす。
基本はサッカーと同じく三角形のフォーメーション:内的対話


生物を親子兄弟と見ること*に関してどのように考えるか。そのように考えるところから生態系中心主義と呼ぶべきものが生まれるが、それについてあなたの考えを述べなさい。この例を取り上げて、自分のなかで対話を行うとはどういうことか、敷衍したいと思います。

*これは、よだかの星、銀河鉄道の夜などの作品で知られる宮澤賢治の、身の回りの生き物に対する基本的態度でありました。賢治が信仰した仏教の経典でいうと、法華経では「それを信仰するものを誹謗すれば、畜生に生まれて人間に虐待される」という教えが説かれています。つまり無条件に動物と人間とが平等というわけではありません。しかしながら「誰もが成仏する可能性がある」という意味では平等です〔注:賢治の帰依したのは日蓮宗の一派=国柱会です〕。この観点から言うと、仏教に馴染んできた日本の思想的風土のなかに、身の回りの動物=親子兄弟という考えが一般的にあると言えるでしょう。

この一般的な考えは人間の環境破壊という事態に直面して、以前にも増した、切迫度を持っています。
以下の問いを参考にすること。
@ 生態系を重んじなければならないということは分かるが、一体どの程度生態系を知っているのか。
A 確かに生態系と人間とは相互依存関係にあるが、人間の特殊性もまた存在するのではないのか。
B 生態に価値を認めることは人間中心主義と両立しがたいことなのか。
C 人間は経済的価値のみを評価し、そこから環境の価値を否定するというような単純な価値観しかもっていないか。
D 精神論的な生態系重視は政治的視点を無視したナイーヴ(素朴)な議論ではないか。

〈生態系から人間にとって有用な部分を取り出し、それを出来る限り活用していけば善いという考え方について〉
 生態系の一部を純粋に人間の利用できるものとして切り出して規定すること自体、一つの人間中心主義に陥っていないだろうか。生態系の価値に配慮しているように見えても、人間が評価する限りでの生態系に関心が限定されている、という批判があればどう答えるか。
〈人間中心主義で居直ってかまわないという考え方について
 ともすれば安易に生態系中心主義に流される風潮に対する反対の意見として、評価できないことはない。ただし今日、人間中心主義*が説得性を失いかねないほど環境問題が切迫していること、それをもたらしたのが、万物の長と自称する人間であることを忘れてはならない。その自覚の上で、環境問題にどのような提言をするにせよ、人間中心主義を離れられない人間の「性」を指摘すればよい。
*人間が自然の支配者であることには限定が必要
人間が食物連鎖の頂点に立っているという認識は正しいとしても、そのことは一個の生物学的事実を述べているにすぎない。「支配者」として自然界に君臨することは生物学的な事実に訴えて正当化されるか疑問である。
〈人間が特殊であることは相対的な問題である〉
人間が特殊でないことを強調するためには、他の動物の特殊性と人間の特殊性の違いを述べた上で、なおかつ人間の特殊性が相対的なものに過ぎない、と議論を運べばいい。「例えば思考能力は地球の生態系を支配する際立った特殊性のように見えるが、思考能力では人間に劣る恐竜もかつて生態系を支配していたのだから、それを重要視する根拠は取り立ててないのではないか。
例えばコウモリの知覚様式の特殊性に比べると人間は他の哺乳動物と解剖学上それほど「際立って特異な生物」ではないと思われる。」 このような文章を挟むとより論旨が明確になる。
〈どうせ生きていくうえでは生態系を破壊せざるを得ない、したがって生態系中心主義は空虚な理想にすぎないという考え方について〉
 たしかに動物を食べていかなくてはならない仕方がなさはある。犠牲はついてまわるかもしれない。しかし賢慮を行使することによって、その仕方がなさも、ある程度変更可能ではないだろうか。例えば献立を工夫して稀少食物を摂取しないとか、食べ物の種を庭で植えて再生することができるように。すなわちペシミズムのみを述べるのではなく、「思いやり」や「工夫」によって共に生きることに希望を託すことも、バランス感覚として必要である。
〈比喩を効果的に用いましょう〉
 例えば生態系中心主義にとって「一番悪い」のは人間である、とは誰でも思いつく発想である。しかし、人間も生態系の一部でしょう。生態系の外部に人間がいてそれを外側から壊しているというようなイメージを描くのではなく、同じことを述べるのにも、人間を「生態系の内部から病をもたらす癌のようなイメージで」全体の叙述を統一してみてはどうだろうか。そのとき「健全な生態系」のためにも人間存在と生態系が共存すべきである、という視点も生まれる。※裏返せば犠牲という言葉を簡単に使いすぎることにも注意が必要である。例えば蜘蛛は蝶を犠牲にする。しかし生態系のバランスを破壊するわけではない。それに対して人間は、生態系全体の秩序すらも破壊している点で特異である点を押さえる必要がある。すなわち人間は他の存在を破壊する仕方において、「大虐殺」的であると表現してみてはどうだろうか。

宮澤賢治のよだかの星をふまえて対話を書きなさい。
〔問い〕生態系共存主義をめぐる人間とよだかの対話を作りましょう。
人間:よだかは何者も殺したくないあまりに、自ら昇天して星になりましたね。
よだか:自分が背負った食物連鎖にそもそもやりきれない業のようなものを感じたんですよ。
人間:それをいったら、一番に消えてしまわなければならないのは、私達人間になってしまいますよ。
よだか:たしかに…。人間は生態系の調和を破壊させるほどに、他の生物を殺してしまいますからね。
人間:貴方のように自己否定しなければ、この連鎖の業から抜け出せないのでしょうか。結局他の生物の味方にはなり得ないかもしれません。つまり私達は人間に生まれた限り、自分かわいさ故に貴方のように自己否定を貫けないわけですから。
よだか:それでは人間中心主義で居直るしか、選択肢があり得ないというわけですね。
人間:論理的に突き詰めると人間中心主義になるかもしれませんが、人間が生きていくということ自体、他の生物の存在抜きにはあり得ない。しかし、それは他の生物にとっても同じことですね。問題は貴方のように存在の業を自覚していないという態度にあるのではないでしょうか。
よだか:私は焼身幻想(自分の身を焼き尽くすという幻想)によってしか、答えを見つけられませんでした。結果的に自己の存在を否定するに至りました。しかしあなたがた人間が賢慮を持っているのならば、現実において業に気づき、現実の生の中でしっかりと受け留めることも可能かもしれません。もし地上に人間という星を輝かせることができるとしたら、業に正面から向き合い、現実の実践の中で、自己を否定しつつ(食物連鎖に抑制的である)、高いものに転化すること(=止揚、つまりより価値的に高めること)においてしか可能ではないでしょう。