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出前講義テキスト

■明日のための「その一」
 小論文は言わばボクシングでパンチの数を沢山出した方が、勝ちという側面が多分にあるのです。頭のエンジンを全開にしてパンチを沢山繰り出すことができるよう心がけましょう。

〈生態系から人間にとって有用な部分を取り出し、それを出来る限り活用していけば善いという考え方について〉
 生態系の一部を純粋に人間の利用できるものとして切り出して規定すること自体、一つの人間中心主義に陥っていないだろうか。生態系の価値に配慮しているように見えても、人間が評価する限りでの生態系に関心が限定されているにすぎないだろう。

〈人間中心主義で居直っていささかもかまわないという考え方について〉
 ともすれば安易に生態系中心主義に流される風潮に対するアンチテーゼとして、評価できないことはない。ただし今日、人間中心主義*が説得性を失いかねないほど環境問題が切迫していること、それをもたらしたのが、万物の長と自称する人間であることを忘れてはならない。その自覚の上で、環境問題にどのような提言をするにせよ、人間中心主義を離れられない人間の「性」を指摘すればよい。環境問題がいかに複雑な連関をなしているついて
*人間が自然の支配者であることには限定が必要
 人間が食物連鎖の頂点に立っているという認識は正しいとしても、そのことは一個の生物学的事実を述べているにすぎない。「支配者」として自然界に君臨することは君主モデル=「人間は自然の王である」というレトリックによって正当化されるか疑問である。科学の限界への哲学的思索

■明日のための「その二」
 常識と対話する。
 人間が自然の中で特権的な存在者という常識には根強いものがあります。「言葉を通じて愛を伝えられるのは人間だけ」だから人間は特権的な存在なのでしょうか。しかし例えば言語を媒介にせずにペットとコミュニケイションを行なえるのではないでしょうか。人間が言語を使う理性的存在だから、自然の支配者となりうる、という一見した常識にも留保の余地があるでしょう。このことは、例えば人間の思考能力は、人間の立場から見た特殊性に過ぎないと言う見方からも裏付けられます。

〈人間が特殊であることは相対的な問題である〉
 人間が特殊でないことを強調するためには、他の動物の特殊性と人間の特殊性の違いを述べた上で、なおかつ人間の特殊性が相対的なものに過ぎない、と議論を運べばいい。
 「例えば思考能力は地球の生態系を支配する際立った特殊性のように見えるが、思考能力では人間に劣る恐竜もかつて生態系を支配していたのだから、それを重要視する根拠は取り立ててないのではないか。例えばコウモリの知覚様式の特殊性に比べると人間は他の哺乳動物と解剖学上それほど「際立って特異な生物」ではないと思われる。」
 このような文章を挟むとより論旨が明確になる(コウモリと異者イソップ童話のコウモリ)。

〈どうせ生きていくうえでは生態系を破壊せざるを得ない、したがって生態系中心主義は空虚な理想にすぎないという考え方について〉
 たしかに動物を食べていかなくてはならない仕方がなさはある。犠牲はついてまわるかもしれない。しかし賢慮を行使することによって、その仕方がなさも、ある程度変更可能ではないだろう。例えば献立を工夫して稀少食物を摂取しないとか、食べ物の種を庭で植えて再生することができるように。すなわちペシミズムのみを述べるのではなく、「思いやり」や「工夫」によって共に生きることに希望を託すことも、バランス感覚として必要である(老僧が接木)。

〈人間が何も自然に「プラス」を与えていないという考え方いついて〉
 こうした思考法は一般的常識かもしれない。しかしこの点については、人間が自然保護に取り組んでいることから疑問符が付く(トキの保護への取り組みについて ・日本古来の里山思想)。程度の問題として生態系に大きなマイナスを与えているからと言って、プラスを何も与えていないという結論を導き出すのは早計である。もちろん、それに対して現在地球規模で、「成長の限界」に直面していることをいくら強調しても強調しすぎることはない。しかも、人間のトキに対する「相互関係」といえども、種の絶滅の内包した「否定」的な相互関係であることを、明確にしておく必要がある。
 生態系中心主義の眼目がむしろ「協調的な」相互調和であるなら、「中心」という言葉が含んでいるような一方が主であり、他方が従であるということを匂わす表現を避ける必要があるのではないか。

■明日のための「その三」
 自説をアピールする場合、「過激であること」が、一定限必要。
 レトリックとして「〜と言ってみてはどうであろうか」を使ってみましょう。「人類の生存条件が保たれない場合でもなお生態系の保護が必要と言ってみてはどうであろうか」と過激に打って出るという手もある。その根拠として宮沢賢治的な宗教観を確認し、人間のエゴイズムを生物の側に立って批判してみましょう。ラディカルな主張には主張者の個性を印象付けるという効果があります。ただし常識の側からの批判に答える姿勢も要ります。

■明日のための「その四」
 ソフィスティケイトして述べるためには比喩を効果的に用いましょう。
 例えば生態系中心主義にとって「一番悪い」のは人間である、とは誰でも思いつく発想です。しかし、人間も生態系の一部でしょう。生態系の外部に人間がいてそれを外側から壊しているというようなイメージを描くのではなく、同じことを述べるのにも、人間を「生態系の内部から病をもたらす癌のようなイメージで」全体の叙述を統一してみてはどうでしょう。そのとき「健全な生態系」のためにも人間存在と生態系が共存すべきである、という視点も生まれます。
 裏返せば犠牲という言葉を簡単に使いすぎることにも注意が必要です。例えば蜘蛛は蝶を犠牲にします。しかし生態系のバランスを破壊するわけではありません。それに対して人間は、生態系全体の秩序すらも破壊している点で特異である点を押さえる必要があるでしょう。すなわち人間は他の存在を破壊する仕方において、「大虐殺」的であると表現してみてはどうでしょう。

■明日のための「その五」
 視点を広げよう。複眼的な物の考え方をしよう。
 生態系中心主義といえども政治的な問題と無関係ではないという認識は大切です。もし生態系中心主義を政治的なイデオロギーと考えるのならば、例えば途上国に環境問題のひずみが回ってくるといった、現実の政治のあり方(他方での先進国の過剰な環境擁護主義)と結び付けて論じれば議論に具体性を盛り込むことが出来るでしょう。その場合、森林伐採や地球温暖化による生態系破壊の問題が特に途上国において顕在化している等の例を挙げるとなおよろしい。

出前講義の記録

2009/6/24 

藤井学園寒川高校

 13:45〜14:35の間、インターネットを使いながら、講義しました。正味45分の話で、あとの10分間は筆記にとりかかってもらいました。生徒たちの、元気よく迎えて下さった、声が耳に残っています。
 以下:補足及び総括。
・資料の修正
 1.宮澤賢治の家が信仰していたのは、浄土真宗。それに対して、賢治が国柱会(日蓮宗の一派)に参加したため、法華経の経典が引用されています。
 2.生態に価値を認めることを、いろいろ言い換えていたのですが、生態系共存主義とこれから呼ぶことにします。
 3.生態系共存主義と対峙する考えを<生態系から人間にとって有用な部分を取り出し、自然と調和する限りで、活用していけばよい>考えとして、まとめておきましょう。これは人間中心主義(人間が自然界の中で一番偉いんだぞ)という考えの変形です。
 4.レトリック:高校生のみなさんにはなじみの薄いことばですね。あまり気にして下さらなくて結構です。
 5.業:これも理解しにくいことばです。前世の報いとして背負っている罪のようなことをイメージして下さい。どうしても自然界の食物連鎖に入り込まざるを得ないことへの後ろめたさのようなものです。
・総括:想像の上で食物連鎖の罪を解決しようとした「よだかの星」⇔食物連鎖を含めた環境破壊への罪を現実において解決する必要性
 この解決方法の軸に対応する形で、後者のためにはどのような具体的な処方箋があるか(もちろん「業」について的確な認識を持った上で)論じることが、課題として与えた対話に答えるためには必要でしょう。

講評
・対話編は大方、出前講義テキストをなぞったものが多かったです。「よだかの星」という作品が想像上の解決であるにせよ、その解決が私たちの心に迫ってくることを強調した解答は見あたりませんでした。そこのところが残念。^^;
・その中で二編、比較的よく出来た解答がありました。訂正すべきところは打ち消し線で書き直してあります。後、こんなことも考えられるというヒントを〔〕に括って挿入しておきます(誤字は断りなく訂正してあります)。

[解答例1]Y.O.君の解答
人間:よだかは他の生物を殺さなければ生きていけないのに絶望して星になったんですよね?
よだか:食物連鎖ってよく考えたら逆も残酷だと思うんです。世の中には主に誰かに食べられる為に(べく)生まれてきたような生物も存在するわけでしょう?立場的には(生存競争においては)。〔どんな生物も、生物学的事実以外に、食べられることを運命付けている事柄はありません。ただしそのことを罪と捉えることが出来るのは観念をもつ人間、もしくはこの対話ではよだかということになりましょう。〕
人間:そうですね。殆ど自分達の行いを言われているみたいで逆も耳の痛い話ですね。確かに私達人間は「家畜」など、(食用に他の動物を供するばかりか、その目的の)自分達が殺して捕食する為に、他の生物の遺伝子をも勝手に自分達の都合の良いようにコントロールして生み出して(い)ますから。そしてそれを平然と食べる。そこに「人間が他の生物を支配している」という自負にも似た感情(虚傲)が無意識に存在(露呈)しているのでしょうね・・・。〔生態系のバランスという観点も織り込んだほうがよいでしょう。〕
よだか:人類が増え過ぎた為に様々な生物の営みを犠牲にしていても、なお飢えて死んでしまう人が沢山いますね。〔ここで述べられているのはすこぶる政治的な話です。次元の異なる話を挿入するのは、いささか話の緊張度を弱めています。〕あなた達人間は自分達の存在をどう思っているのでしょうか。
人間:なるほど。確かに食料が有り余ってると(生物連鎖の言わば頂点にいると)他の生物を殺して自分達が生きているって当然である(ことに感謝す)べき実感(思い)すら薄れてくるものですね。私達人間は近年他の生物に対して感謝することを忘れかけている傾向にありますね。食料が乏しくなれば、そもそも自分達がいつも殺している生物がいないとどうしても生きて行くことが出来ないのだから、他の生物に対して(する)感謝の思いが甦り(の念に思い至り)、そこで初めて自分達が感謝すべき他の生物に対して何をしてきたかが分かるのではないでしょうか?
よだか:その通りかもしれません。而し人間には「何かあるとすぐ、他のもののせいにしたがる」という悪い癖があります。少し酷な言い方かもしれませんが、あなた達人間が自然界に生きる生命を今なお蹂躙し続けているのは、その傲慢さによるものではないですか?〔ここで言われている「他のもの」とは何でしょう。例えば人間にはどうにも消去することのできない「食欲」のことでも、思い浮かべればよいのでしょうか。ですが、もしそうなら、然るべき理由もあることになり、傲慢に直接つながるものではありません。〕
人間:残念ながらその通りです。でも(確かに)他の生物との共存を夢見ている人や、それの実現の為に努力している人もいます。(しかし)結局私達人間は自然界において他の生物の輝き(存在)(存在の価値)を奪って(絶滅させて)(絶滅の危険にすら晒して)自分達がより輝こうとしている言わば自己中心的な生物に違いありません。〔自己中心性を言うのはよいのですけれど、ミクロレベルでは利他的な存在でもありうるはずです。自己中心性とは地球系の自然史を貫く人類の有り様であることを、しっかり押さえておいて下さい。〕だからよだかみたいに自らの存在を悪く思うことは出来ないのかもしれません。〔悪く思うことは人間にもできるかもしれない。でもそれが、自己の存在の否定に繋がっているところに、よだかの特質があります。さらに言うなら、その自己否定が想像上の美しい星の姿をとったことも人間とは違うかもしれません。〕
よだか:地球は人間中心に回っているわけではありませんが、それは他の生物に関しても同じだと思います。〔弱肉強食的な食物連鎖に限定する必要。〕あなた達人間が自分達の立場をよく考え(に思考をめぐらし)、他の生物があなた達人間にとってどうなのか、本当の意味でよく考え、本当の意味で知ることができたならあなた達人間がどう輝くべきなのか、もしかしたら答えが見つかるかもしれませんね。〔比喩的な問題ですが、輝くためには、月のように他の星の光を反射する場合もあるかもしれません。としたら人間存在の星が輝くためには、他の生物の存在が必須かもしれませんね。〕

[解答例2]R.S.さんへ
人間:あなたは最期、星になって空に生きるもの(棲むもの)になりましたね。
よだか:そうです。食物連鎖(と)関係ない、そんなものに私はなりたかったのです。
人間:なるほど、けれどあなたのように自然に生きて、自然に食物連鎖を行っている生き物であるあなたがそう思うなら、私たちのような人間はどうなるのです。
よだか:確かに、人間は私たちのようにただ生きていくためだけではなく、選んで(選別して)殺し、食べ、(他の手段でその生命を)利用しています。そのことを考えると、人間は自分勝手でまさに死んで当然と言われてもしかたがない生き物ですね(かもしれません)。
人間:そう、極論してしまえば、人間こそ死んで当然の種族。〔この発言には議論の発展性がありません。いっそ省いてしまっては。簡単に人類の死を説くのは議論を急ぎすぎであるという、次のよだかの発言を繰り込んではどうでしょう。〕
よだか:しかしそれでは、なんの解決にもなりません。「人」として、知識〔百科事典に書いてあるような知識を持っていることが重要なのではなく、工夫して実地に活かせることが重要でしょう。〕をもつ生き物としてどうすべきか答えを出すのが人間という生き物のあり方ではないでしょうか。
人間:自分が地球(世界・環境)に生かされている事にすら気づかない人が多い今、その答えを出さねばいけないという事に生きている間に気づけるかすら難しい所です(覚束ないでしょうね)。
よだか:まったくですね。気づかないことは、罪と呼んでもおかしくないような有り様です。
〔気づいていない、もしくは故意でないからこそ罪が減刑されることがあるのでは。〕その点では、どのように生き、どんなことができるか(をしてはならないか、)自分で理解している動物の方がよっぽどすばらしい。(わたしのような存在は自分を誇ってもよいのかもしれません)。