Perceiveconceive

一、まずバークリ・ヒュームによる一般観念批判を通じてperceiveconceiveの違いを論じたい[1]。バークリは一般観念が個別の観念によって代表されると説明する。「赤」を例にとろう。昨日出会った女性の口紅のローズ色でもなく、今手にしている赤鉛筆のバーミリオンレッドでもない、ないないづくしの赤は考えられない、と。また形も大きさも持たない色だけが抽象された赤も考えられない、というわけである。

「例えば、運動の変化は加えられる力に比例する、或いは延長を有するものはすべて分割できる、と言われるとき、これらの命題は運動一般及び延長一般に関して理解されるべきである。とはいえ、これらの命題は運動させられる物体もなければ一定限の方向も速度も全くないような運動の観念を私の思惟に示唆することにならないし、線・面・立体のいずれでもなく、大きくも小さくもなく、黒・白・赤・その他いかなる一定限の色彩でもないような延長の抽象一般観念を私が想わなければならないことにもならない」。

赤の場合、例えば先刻街で見た消防車なり信号機なりの個物が思い=conceiveうかべられ、そこで当の個物の赤を「指し示す」ことによって赤一般が代表されるとする。しかしこれは日常の実感からあまりにかけ離れた説明である。私は「赤」という言葉を使うとき、特定の個物を思いうかべていない。そのさいの「赤」はあの口紅の赤でもあり、あの赤鉛筆の、あの消防車の、あの赤信号の、あの日の丸の…の赤として、すなわちどの特定の赤でもある「赤」として思われているのではないか。これは結局、どの特定の赤でもない赤を考えることになり、バークリの一般観念批判に抵触する。しかしバークリの議論は「赤」という観念を知覚する=perceiveようにしか思えないとしている所に無理があり、その議論は当を得ていないように思われる。

まず個別的観念においてさえ、その思い方=how to conceiveを知覚とパラレルに扱うには難があることを指摘したい。もちろん知覚するような仕方で思うことがあることは認める。印象が鮮やかなあまり、もしくは知覚後、時間が殆ど経過していないために、知覚しているかのように思う場合がある[2]

知覚しているかのように思う心象には、知覚表象と同様、色・形・大きさが埋め込まれている。しかし個別観念を思いうかべる場合といえども、常にそうだとは限らない。例えば友人Aを思うとする。彼の身長は俺より低かったかなあ、そうそう口の傍にほくろがあったっけ―こうした意識的な「思い出し」を多くは必要とする。

それに対し知覚表象は「造作もなく」属性が相伴って現れる。そればかりかA,B,Cが同時に知覚されるときA<B、B<C故にA<Cというような理性的推論を経ずに、A<Cが直截に意識に上る。

ここで言う「思い出し」は断じて曖昧な見え姿に目を凝らすことではない。「思い出し」は極限値の収束のような様式を取らない。「思い出し」を凝視の類比で説くとすれば、あらかじめconceiveperceiveに模す論点先取がなされている。実は観念が思われるとき、その色、形、大きさは観念の対象が具有していることが了解されているとはいえ、さしずめ思っているとき、無関心なことがある。

例えば、友人の身長の観念を思い出しているとき、友人の服装の色には無関心なのである。つまり関心は身長にあり、服装の色まで反省されないのが、実情であろう。そうした無関心において観念は知覚の場合のような特定の色、形、大きさを持っていない。

以上は個別観念を思うことに関する考察であった。さて話を一般観念に戻せば、どの特定の赤でもない赤が知覚できないように、どの特定の赤でもある赤を知覚することは不可能である。それに対して思う場合においては、意識的な「思い出し」を判断中止することによって、どの赤でもある赤を思い出すことが不可能ではない。この判断中止によって、赤の観念AA1またはA2またはA3または……のように特性についてオープンな性格を持ちうる。いわば、一般観念は表現内容として粗い。にもかかわらずそれに対して本来中断すべき反省を強いることで、代表する個別観念に誘われる。その個別的観念は一般観念にとって本質的でない。反省はけだし「どんなXか?」という自問によって駆動されるであろうが、「どんな」によって限定されたXを問う、つまり特定の個別観念を前提した問い方になってしまっている。

もちろん代表説が主張するように、例えば象を思うときジャンボという個体を思い浮かべることがあることも否定しない。しかしながらその場合でさえ象の一般観念が言うなれば「ラプラス/カントの原始雲」の状態にあることを「了解する」=「思う」(conceive)と同時に個別観念を、オマケとして「思う」にすぎない。原始雲の状態で反省を中止することを解っているからこそ、一般的な思考が可能のように私には思われる。

二、次に具体的な規定性を観念がもつことを一定の文脈で認めたい。つまり観念の具体性を認めながら、それといえども知覚される実在の観念に敷居があることを追認したい。確かに想像・幻覚の中でも実在をもつものがある。例えば幽霊の幻像、次の瞬間に流れる音はあたかも実在しているかのような「質感」をもつ。とはいえそれを思う人はどこか醒めている。すなわち思っていることを意識している。つまり想像・幻覚の中には実在があること、現に表象として幻を見ていることを否定するものではない。それは知覚する人が知覚していることを意識しているのと同様である。この点、両者は分別され得る。それはちょうど目の前の白い紙に赤い円を想像しつつも、人は白い紙を知覚しているのであり、知覚意識が断ち切られなければ、決して実在する赤い円の知覚が現れないことに端的に示されている。

したがって思われる観念は、知覚同様の現れ方をするわけではない。とくにそのことは思われるものと知覚されるものとの時空的規定性の相違において甚だしい。前者の時空的規定は知覚ほど直接的ではない。友人「山県有朋」君を思うとき、彼の容貌ほど彼の時空的位置は明確ではない。例えば有朋が郷里のどこそこにいるのだ、というのはいっときの反省を要す。反省する以前においては有朋君の位置を思っていない。有朋君の位置を思っていないとき、有朋君はガリヴァーのようにフィクションの中で生きていると言うべきなのではないか。

これに対して唱えられる異論は次のようなものだろう。

三角錐の見えていない底面は知覚の背面に思われているのではないか。もしくは人がドアから立ち去った時、その人物をドアの向こうに思うのではないか。つまり知覚される実在と思われるものは地続きにあるというわけである。

確かに思いを知覚に籠めることもあろう。しかし思い始めたとき、場所を伴わない思い方もあり、その思いの出発地点にその時空的位置に想到しないのなら、思われた観念と知覚は地続きではないのではないだろうか。例えば知識体系の中でアスンシオン(パラグアイの首都)は南米に思われる。だがアスンシオンの観念の位置は、目の前のコップがなみなみと紅茶を湛えている風景と断絶している。言わばアスンシオンは紅茶のコップのある風景にノイズとして混入して来るのだ。

次のような議論はより強い意味で私の言おうとするところと衝突する。すなわち、個物を考えるにはその背景を切り離すことができない。ちょうど2004年を思うのに西暦、ひいいては時間を了解していなければならないように、「我が棲家」を思うには、その背景として、岡山県、中国地方、日本、アジア、地球さらには空間を了解していなければならない。したがって、「我が棲家」を思うときにさえ、ちょうど知覚において対象のみを知覚しているつもりでも地が図を支えているように、空間全体を思うことが相伴っている、と。

しかし思うことにおいて背景が切り離されないとはどのような意味であるのか。「我が棲家」を思うとき周辺隣接地域の了解が必要だが、周辺隣接地域を現に思う必要はない。ましてや日本、地球を思っていることなど必要ない。あたかもそれは、ピタゴラスの定理を思うときユークリッド幾何学体系の了解が必要だが、ユークリッド幾何学の公理から定理・系に至るまで思われる必要がないのと同じである。

 

結び 知覚することと思うことの違いに議論を費やしてきたが、だからといって思われるものを不当に低く評価することは慎みたい。知覚することも思うことも私の行為である。したがって知覚されるものも、思われるものも、私の対象に対する働きかけを介して「はらまれる」のである。このことを裏返せば例えばまぼろしのように私の対象に対する反省という働きかけによって、存在が否定されるものがあるということである。言わば反省が堕胎を行うこともあるのだ。この存在の産婆術が、訓練を必要とすることは、あたかも自転車乗りという行為がそれを必要としていることに似ている。訓練が技能をより洗練されたものへと導くように、私も人格を陶冶して、存在の産婆術に携わらなくてはならない。だからこそ知識を束ねる強靭な教養という鋼が必要なのである[3]



[1] perceive(=知覚する)は可感的事物の感性的把握に対して、conceive(=思う)は厳密には「非可感的非形象的な心的内容を心がもつこと」だが、ここでは非可感的把握一般として用いる。(ジョージ・バークリ著、大槻春彦訳『人知原理論』岩波文庫、注・序論11)したがって具体的な観念を思うという用法を以下では認める。

[2] ただし特定の個物を「知覚するように思う」という意識はあっても、現前の知覚と想像の間には「翻訳」上の困難が伴う。例えば、過去に知覚した「あの色」を調合しようとして色を漸次変えていくとき「あの色」の近傍はどの色も「あの色」と同一のように思われる。また、ある色をある場所に想像した時、その色調は実際その色をその場所に塗って知覚した色調と異なる場合は多々ある。このように知覚される印象と思われる観念の間に厳密な一対一対応はつけられない。言い換えれば思われている観念を同定する手段に制約がある。したがってどんなにヴィヴィッドな観念を思っているつもりのときでも、「個別的な観念」を思っているようには考えられない。

[3] 論全体が視覚モデルを念頭において書き進めたためかなり片手落ちとなってしまった。また言葉の言い換えに終始した感がある。これらの欠はいずれ補おう。

こころの哲学資料