宮沢賢治の求道『ビヂテリアン大祭』

総ての生物はみな無量の劫の昔から流転に流転を重ねて来た。流転の階段は大きく分けて九つある。われらはまのあたりその二つを見る。一つのたましひはある時は人を感ずる。ある時は畜生、即ち我等が呼ぶ所の動物中に生れる。ある時は天上にも生れる。その間にはいろいろのたましひと近づいたり離れたりする。則ち友人や恋人や兄弟や親子やである。それらが互にはなれ又生を隔ててはもうお互いに見知らない。無限の間には無限の組合せが可能である。だから我々のまはりの生物はみな永い間の親子兄弟である。異教の諸氏はこの考をあまり真剣で恐ろしいと思ふだろう。恐ろしいまでにこの世は真剣な世界なのだ。

生物を親子兄弟と見ることに関してどのように考えるか。ここから生態系中心主義が生れるが、それについてあなたの考えを述べなさい。

以下の問いを参考にしなさい。

@生態系を重んじなければならないということは分かるが、一体どの程度生態系を知っているのか。

A確かに生態系と人間とは相互依存関係にあるが、人間の特殊性もまた存在するのではないのか。

B生態に価値を認めることは人間中心主義と両立しがたいものなのか。

C人間は経済的価値のみを評価し、そこから環境の価値を否定するというような単純な価値観しかもっていないか。

D精神論的な生態系重視は政治的視点を無視したナイーヴな議論ではないか。

敢えて問う 以上のように生態系中心主義は限界や問題点を指摘できるが、宮沢賢治的発想は「生態系共存主義」というべきもののベースになりえないだろうか。

こうした理想は求道者と共に道を求めていく上で身についていくだろう。

『銀河鉄道の夜』

あゝわたくしもそれをもとめている。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。(中略)みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだといふだろう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう、それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論することだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考を分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学とおなじやうになる。(中略)ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゝ゛さう感じてゐるのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこゝろもちをしづかにしごらん。

第三次草稿より

道を共に求めてゆく人 倫理のあり方

説教じみているのではなく自分の考えを押し付けようとはしない。

セロのやうな声をもった人

宮沢賢治にとって、…同じような〔特別な〕霊性や聖性を帯びた響きは「セロ」の響きであった。それは「南無妙法蓮華経」と唱える題目や『法華経』の「如来寿量品」の永遠の生命をもっともよく伝え響かせる、宇宙論的な波動を発することのできる楽器だったのかもしれない。チェロは人の声の音域にもっとも近い楽器だと言われる。だとすれば、宮沢賢治にとって、チェロは宇宙論的(如来寿量品的)な仏(如来)の声を感じさせる楽器だったのではないか。

第四次稿ではセロのやうな声をもった人も消える。ただ孤独な道行となる。銀河鉄道の夜の校正過程

問い

グスコーブドリのような求道者は最終的には孤独である。それは宮沢賢治の自己探求の厳格主義の投影でもあった。こうした考えは倫理に関して、精神論に重きを置きすぎる謗りは免れないが、価値転換は多くの場合、求道者からの内なる呼びかけに端を発することは事実である。例えばイエスの呼びかけ。内なる呼びかけの重要性をどんなに強調しても、強調しすぎることはない。

このことを認めた上でなお、価値転換に際して呼びかけを補完する動機付けとしてどのようなものが現実に必要とされるだろうか。

科学と哲学資料集