科学の未来・生の光と闇

科学と哲学資料集

ニーチェの、生の充実からなぜ悲劇か誕生したのかという問いの根底に、生を代弁する〈生それ自体の本来的な肯定〉が含まれている。今日生それ自体の肯定はどのような意味を持っているだろうか。

遷延性意識障害者や未熟児が医療の限界に現れつつあるとき、生の肯定は新たな意味を持ってきている。生命の質は低いかもしれないが、それだけによって延命の手段が放棄されるべきない。むろん生命の質を問うべきだが、生き方の如何は自己決定に委ねられるべきである。この前提の下で低い質の延命も、安楽死と同等の権利で認められるべきである。安楽死をとるか遷延性意識障害の下で生きるかは個人の自由であって、生命の量を無碍に否定するのも拙速である。

このように生命の量をおもんじる一方で、生命の自己運動の放恣にも批判的でなければならない。生それ自体の肯定としてのデュオニソス的なものは、自己の生に陶酔するあまり脱自してしまう。いわば光に対する闇である。このデュオニソス的なものへの自覚が忘れ去られたとき、楽観的な理性支配の光の背後に、闇と悲劇への衝動が押しやられてしまった。

光  理性  楽観   悲劇の忘却  人間の越権

闇  衝動  悲観   悲劇の自覚  人間の節度

 

われわれに必要なのは、人間の限界性の自覚と同時に人間の可能性への期待を複眼的に持つことではなかろうか。

例えば限界として環境問題=成長の限界を迎えていることがあるし、人体改造をすると人間ではなくなってしまうかもしれない。そこから、科学に対する批判の視角も生まれよう。また巷で姦しく論じられているクローン人間問題などの生殖技術も、人間でなくなっても生きるべきか、という問いを突きつける。 他方の可能性として、例えば高齢化問題・エネルギー問題への技術的対応の余地も生まれてきた。使い古された言い方だが人間の英知を結集し、制度的な裏付けとともに賢慮を発揮することを通じて、技術をコントロールすることもまたわれわれ次第である。

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