公共の倫理学
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 加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫を教科書にして、功利主義の諸問題を具体的に考えていきます。例えば「社会で富をどう分配するか」等、公けで必要とされる賢慮を追求していきます。そのさい自己愛と一定の距離をもつこと/隣人愛という理想の重要さを学んでゆきます。とくに筆記をとおして、倫理的な思考のトレーニングができるようになります(レポートで評価を行ないます・期末テストは行いません)。
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1.10人の命を救うために1人の人を殺すことは許されるか。[→教科書第二章]
[授業目標]帰結主義の限界を知ることができる
〔問い〕 まず考えてもらいたいのは、とある山奥で急性の病気に罹った人が五人おり、そこにもう一人同じ病気の人が担ぎ込まれたとします。どの人を助けるのにも同じ救命装置を使わなければならず、同時に五人までなら、助けることができますが、六人を助けることはできません。では貴方が、医者であったとして、五人を助けるべきでしょうか。一人を助けるべきでしょうか(五人の性別・年齢・地位・職業は無視します・もちろん一人を助けて、もう一つ別の装置を山から下りて借りるというのはダメです)
〔問い〕 では今度は五人の、生死をさまよっている瀕死の病人がおり、もし別の一人の体の臓器を分配し、臓器移植すれば、五人とも助かるものとします。しかしそのためには五人以外の健康な人を殺して臓器移植することが必要条件です。五人の幸福のために一人を殺してもかまわないと思いますか(法に訴える前に、倫理的な解決を見つけて下さい)
 
★選好の順位
・基本的な選好にかんしては推移律が成り立たなくてはなりません。
  私が飢えて死にかかっているとすれば、食べ物を選ぶのにカロリー順に並べたとき「A>B, B>C, ならばA>C」という規則を守ろうとするでしょう。このとき「A>B, B>C, ならばA>C」という規則を推移律と呼びます。
 ただし推移律は趣味・嗜好品・ぜいたく品等のあいだでは、成り立たないかもしれません。
 厚生経済学で問題にされるように、序列が推移的でない(そういう序列を準順序と言います)という問題は残ります。すなわちA>B、B>C、としてもA>Cとは限らない場合があるのです。例えばもしあなたが結婚相手として、堂本光一よりも松本潤がよく、木村拓也より堂本光一がよかったとしても、松本潤より木村拓也の方がよいことはありえます。
 
 
サバイバル・ロッタリー
 ではもっと入り組んだ例を考えて見ましょう。それはジョン・ハリス「生き残りの選別問題」(原題「サバイバル・ロッタリー」)です。教科書30-33ページに解説が載っています。
この制度に対する批判と答えは以下のようなものです。〔問い〕以下の答えを埋めよ。
イ.こともあろうに生きている人間の命を奪ってまで臓器移植をする必要はあるのでしょうか。答え:                    。
ロ.サバイバル・ロッタリーの世界では国民の自己所有権(自らの身体・所有物を自由に使える権利)は認められていないのですか。答え:                                                                            。
ハ.罪のない人を殺すのと同じ非人道性をもっているのではありませんか。答え:                               。
ニ.しかしそんな社会では誰もが臓器移植くじに当たるかどうかわからないから安心して暮らせないという批判があるかもしれません。答え:                                                                           。
ホ.さらに積極的に殺すことと、消極的に死ぬにまかすことは、道徳的に異なると言われたらどう答えますか。答え:          。
ヘ.最後に、このくじの制度が実施されると、健康な人はくじを引かなければならないけれども、病人はくじを引かないことになるから、臓器移植の恩恵を蒙るために、不養生な生活を送り病気になる人がたくさん出てくると、難点を指摘する人がいる。そう欠陥を指摘されるかもしれません。答え:                                                              。
 
  「サバイバル・ロッタリーには、ひとつの特徴があって、そのために、それを実行に移すことが魅力的とは言えなくなる。ロッタリーを実行するとその社会の健康を徐々に損なってしまうにいたる。まず第一に、病気にかかった臓器は移植では使いものにならないので、コンピュータが健康な提供者を選ぶようになる。これによって健康人が不当に差別されて、健康な臓器の持ち主や、健康な生活習慣の持ち主が社会から取り除かれていく。また第二に不摂生な行為に歯止めを掛けるものがなくなっていく。病気にかかった臓器がつねに取り替えてもらえるなら、煙草や酒を節制する必要がなくなる」。[→加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫、35ページ。]
 
 
 以上は身体の所有権、もしくは自己所有権を、社会全体の幸福の総量を増やすという観点から制限するものでした。専門用語で社会全体の幸福の総量を増やす倫理的立場を       と言います。ハリスの議論は功利主義による自己所有権、自己決定権の制約であると言えるでしょう。・・・このように考えてくると「生存率最大の原則」が、生存権や自己決定権に優先するという功利主義の前提自体が問題なのであり、このような単一法則から基本的な権利は導きだせないのでは、という疑問が生じます。
 
★強制的な臓器移植くじの制度に反対する理由は、制度の運営に伴うプラグマティックな問題点しかないわけではない。大部分の人々がこのくじの制度を問題外だと感ずるのは、「病人はたとえ臓器移植されなければ死んでしまうとしても、他人に対して臓器の提供を要求する権利などもっていない。身体の支配権を持っているのは他の誰でもない本人じしんだ」と信じている。[→森村進、2001、『自由はどこまで可能か』講談社現代新書、50ページ。]
 
〔勉強のすすめ〕実際わたしたちは、他人の生を犠牲にすることによって、多かれ少なかれ他者の自己決定権、もしくは幸福を犯すことによって生きているのではないか。
ひかりごけ
 難破船から生き残った生存者が、実は人肉を食べて(殺人の疑いもあり)、生き残ったという嫌疑がかけられる。そうした子細があきらかになる裁判で、船長の喉が光り出す。船長だけではなく、弁護人も、検事も、裁判長も、そして傍聴人も、みな喉が光り出す。難破船に生えるヒカリゴケを人肉とともに食したからではなかろうか。だが、被告以外の喉が光り出すのはどうして?
 
 
◆功利主義への挑戦・ジムのケース
 探検の途中で軍隊が原住民20人を射殺しようとしている場面に遭遇したジムは、司令官から「あなたがこのうちの1人を射殺するなら、残りの19人は解放しよう」という申し出を受ける。この場合ジムはどうすべきかという仮想ケースを設定して、結果の最善を求める功利主義からすればその申し出を受け入れてしまうことになるとして、ウィリアムズは次のように述べる。
「世界に対する私たちの道徳的関係は、一部はそのような感情[道徳的感情]と、私たちが「それとともに生きること」ができるもの・できないものにかんする感覚とに与えられる。それゆえ、こうした感情を純粋に功利主義的観点から、すなわち、私たちの道徳的自己の外で生起しているものとみなすにいたることは、自分の道徳的アイデンティティの感覚を喪失することである。最も字義どおりの意味で、人の統合性を喪失することである。この点で、功利主義は人をその道徳的感情から疎外している」。[→Williams,B.,1973,"A Critique of Utilitarianism",p.103.]
★功利主義=帰結主義+厚生主義+総和主義。
 
 
 
2.特効薬を如何に配分するか。貴方ならどうする?[→教科書第三章]
[授業目標]功利主義で平等を保障できるか、考察する
 
 10人の人がエイズにかかったとします。それを治す特効薬が1人分だけあるとします。もちろん1人分の薬を10人で使ったのでは効きません。どうしても1人を選び出す必要があるとします。①くじ引きで決める。②社会に最も貢献しそうな人、例えば世界的なアーチストに与える。③いちばん高い金額を払う人、例えば携帯電話会社の社長に売る。④道徳的に最もふさわしい人、例えば犯罪で被害を受けた少女に与える。⑤みんな死んでもいいから均等に分ける。⑥最大の効率を発揮させるように〔つまり一番長生きしそうな人に〕配分する*。さて貴方ならどうしますか注意:社長に売って、薬の研究開発をしてもらうのでは、間に合いません。
*現実にアメリカ合衆国では、最も重症の人を配分にさいして、優先するという原則をやめて、最大の生存時間が得られそうな患者に配分するという原則に変えた(1996年)。 
 

 今、社会的に問題になっているのが新型インフルエンザ・肺炎対策問題です。前者について言うと、近年、東南アジアを中心に鳥インフルエンザが流行しており、このウイルスが鳥から人に感染する事例が数多く報告されています。このような鳥インフルエンザのウイルスが変異することにより、人から人へ感染する新型インフルエンザが発生する可能性が危惧されています。
 新型インフルエンザは、毎年流行を繰り返してきたインフルエンザウイルスとは表面の抗原性が全く異なる新型のウイルスによります。そうしたウイルスが出現することにより、およそ10年から40年の周期で、大流行が発生しています。人類のほとんどが免疫をもっていないために、容易に人から人へ感染し、世界的な大流行(パンデミック)が引き起こされて、大きな健康被害とこれに伴う社会的影響が懸念されています。http://www.cas.go.jp/jp/influenza/

【問題意識共有メモ】一体何が望ましいか
 ミル(1806-1873)に先行するベンサム(1748-1832)に拠ると、功利主義は「最大多数の最大幸福」という形で定式化されています。ベンサムは望ましいことを心理的快楽に限定しました。こうして快楽主義理論に依拠して考えたのです。つまり「功利性とはある対象が問題になっている人の幸福を増進させる傾向であり、幸福とは具体的には快楽である」、と。
 
〔資料〕
 「功利あるいは最大幸福原理を道徳の基礎としてうけいれる信条に従えば、行為は幸福の促進に役だつのに比例して正しく、幸福に反することをうみだすのに比例して悪であると主張される。幸福とは、快楽と、苦痛の欠如とを意味し、不幸とは、苦痛と、快楽の喪失とを意味する。快楽と苦痛からの自由とが、目的として望ましい唯一のものである。すべての望ましいもの(それは功利主義体系のなかでは、その他のどんな体系とも同じようにたくさんある)は、それじしんに内在する快楽のために、あるいは快楽を促進し苦痛を阻止する手段として、望ましいものである」。[→加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫、40-41ページ。]

◆左がベンサム・右がミル。
〔勉強のすすめ〕二人の倫理学者の略歴を調べてみよう。

〔勉強のすすめ〕以下のサイトにアクセスし、ベンサム研究についてどのように考えるか、述べよ。

http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/bentham/intro.html





 
〔資料〕[→加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫、41-42ページ。]
 「ベンサムは最大幸福原理と平等原理が一致するということを説明して、「リューマチの王様」という論法を語っている。――最大多数の最大幸福の原理から、ただちに平等の原理が導き出される。もしも富が不均等に配分されたとしよう。リューマチの王様は山のような御馳走を食べてもおいしくはない。不平等な配分をすれば富が幸福に役立たずに無駄になる。だから最大幸福の原理から平等の原理が導き出される――というのである。
 ベンサムが功利あるいは最大幸福原理と平等の関係をどれだけ真剣に考えていたのかはよく分からない。ベンサムにとって、平等は正義のために是が非でも達成しなければならない理念ではなくて、最大幸福原理の達成を目標としていれば自然に平等の問題だって解決がつきますよ、と言いたかっただけなのかもしれない。彼の「安全と平等が相克する時には、少しの間もためらってはならない。平等が譲らなければならない(Equality must yield.)という言葉が示しているように、彼にとっては平等は二次的な価値しかもたない」。
 

★ミルの平等論[→加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫、43-45ページ。]
★最大幸福原理と平等原理の葛藤
 この考えでは、最大幸福原理と平等原理が相反するものである、という洞察が抜け落ちています。「たとえば、私はA組では学生を平等に幸福にしようと思って、全員に「優」をつけることにした。B組には10パーセントは「優」、5パーセントは「不可」であるという不平等を前提とする採点基準を予め発表しておいた。AB両組に同じ試験をしたところ」、若干教科書と違う表現をすれば、「A組ののべ総点数は下がり、B組ののべ総点数は上がった」。
 優を80点以上、良を70~80点、可を60~70点、不可を59点以下とすると、
100人のA組で総点数は80*100=8000点
100人のB組で極端な話、優100点を取ったのが10人、79点の良を取ったのが85パーセントの85人、59点の不可を取ったのが5人とすると総点数はどうなるでしょうか。

人数 点数 総点数
優10% 10 100
良85% 85 79
可0%
不可5% 5 59
 

〔問い〕空所にAまたはBを補充せよ。
 教科書では総点数が高くなる方、つまり  組のような場合をドンブリ勘定の功利主義と呼んでいます。それに対して平等原理が実現されているのは  です。ドンブリ勘定の功利主義は点数の格差をカウントしません。これを国家の経済に置き換えれば、  が平等主義国、  が所得格差の不平等を是認する自由主義国ということになります。もし最大幸福をドンブリ勘定の所得のポイントで定義するならば、功利主義の原則を貫く限り、国民総生産に格差が生まれても、不平等は致し方ないということになります。このように功利主義の原理と平等原理は衝突します。最初の話に戻れば、平等原理が実現されるためには、どうしても10人の特効薬が必要なのです。これを国の経済のたとえで言えばある水準以上の豊かさが実現されていることが、平等という原理が成り立つために、どうしても必要な条件なのです。つまり平等が達成されるだけの豊かさがあるか、ないかで、功利主義の性格が変わってきます。
〔勉強のすすめ〕カルネアデスの舟板の例を、功利主義の観点から論じよ。
次のいくつかの場合を比較検討せよ。[→金澤文雄、1999、『刑法の基本概念の再検討』岡山商科大学、90-91ページ。]
① カルネアデスの舟板の場合。
② 難破船で一人を殺してその肉を食べ三人が生き残ったミニョット号事件の場合。満員電車の脱線転覆を避けるために側線に急進入させて数人の人夫を殺した場合。
③ 転落した二人の登山者が、一人しか支えられないザイルにつるされたとき、上方の者が下方のザイルを切断して自分だけ助かる場合。
④ 二人の急患の一人に一台しかない人工呼吸器をつけ、他方を放置する場合。
⑤ 人工妊娠中絶の場合。

3.エゴイズムは正当化されるか。たばこを吸う自由について考える。[→教科書第四章]
[授業目標] 功利主義と権利の関係について反省できる

〔資料〕[→加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫、50-51ページ。]ベンサムによる定義
 「自然は人類を苦痛と快楽というふたつの主権者の支配のもとにおいた。われわれが何をしなければならないかを指示し、われわれが何をするであろうかを決定するのは、苦痛と快楽だけである。一方では善悪の基準が、他方では因果の連鎖がこの玉座に繋がれている。……功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、換言すれば、その幸福を促進するように見えるか、幸福に対立するように見えるかによってすべての行為を是認し、また否認する原理を意味する」。
 [→加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫、51-52ページ。]
 「功利あるいは最大幸福原理を道徳の基礎としてうけいれる信条にしたがえば、行為は幸福の促進に役だつのに比例して正しく、幸福に反することをうみだすのに比例して悪であると主張される。幸福とは、快楽と、苦痛の欠如とを意味し、不幸とは、苦痛と、快楽の喪失とを意味する」。
 「たばこの煙が不快な人もいれば、それを快いと感じるから、喫煙している人もいる。それゆえ、嫌煙権と喫煙権は同等の権利なのだ。したがって、いつでもどこでもたばこを吸う権利を認めるべきだ」。

〔問い〕このような論理に対してどう対抗しますか?
【ポイント】功利主義の射程が、浮かび上がることだろう。
〔問い〕空所を補充しなさい。カントとの対決。
 教科書53ページ。「      、つまり幸福の増大を道徳の原理とすることは絶対に間違いだ」と。①しなければならない、もしくはするべきであることは、かくかくしかじかであることではない。人間の心の快楽を求め、苦痛を避ける気持ちが「存在すること」は確かですが、「       」から「       」を導き出すことはできないというものです。②人間の心には生まれつきの弱さがある。悪に向かう傾向がある。だから「      」という実質的願望を盛り込むとそこに、快楽を求める       の原理が働いてしまうでしょう。したがって、道徳性の原理は、実質的でない形式的なものでなければなりません。③「正直をすれば得になる」「義務に従えば見返りが得られる」という打算的な論法は、条件付きのものになってしまいますが、道徳的な   は有無を言わさず、ひたむきに「何々すべし」と命令するものですから、無条件に成り立つ必要があります。






〔資料〕[→加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫、57-59ページ。]
 「どうしても決めておかなくてはならないのは、法律的・公共的に悪いと決められるものと、許されているものとのちがいである。「してよいこと」と「して悪いこと」のちがいを明らかにするのが、倫理学の目的であって、言葉を換えれば「許容できるエゴイズムの限度を決めること」が倫理学の課題である。個人エゴもあれば企業エゴもある、地域エゴもある。エゴイズムの許容限度を決めて、私的な生活領域に対して干渉する公共的な領域の限度を決めなくてはならない。また社会福祉制度のような公共機関から私的生活への好ましい干渉の限度も決めなくてはならない。
 「よい」という言葉の意味がすべて収まりきるような箱、字引の枠を捜すことが、倫理学の課題なのではない。タバコを吸う、ポルノグラフィを見る、物を贈ったあとで礼の催促をする、不健康な生活をする、立ち聞きする、危険な遊びをする、遅刻をする、レストランでメニュを決めたあとにすぐ訂正する、借りた物をなかなか返さない、お金や時間をムダに使う、他人の捜し物に協力しない――これらはみな「悪いこと」かもしれない。家庭や学校では禁止の対象になる。しかし、ふつうは法律的な取り締まりの対象にならない。(中略)
 功利主義のすぐれた点は、行為の評価基準を行為の結果(効用)に置いて(帰結主義)、倫理学の第一の課題を立法の方法にあると決めた点である。国民にあまり純粋な動機を期待して立法をすれば、過酷すぎる悪法になってしまう。快楽と苦痛の導きによって国民が最低限の自発性を発揮するだけで、法秩序が守れるようにしないと、警察国家になってしまう。国民すべてに期待できる倫理的自発性の水準は、低ければ低いほどよい。すべての国民が特定のイデオロギーの狂信者にならないと維持できないような社会は危険である」。

 法的に悪いことは、どうしても社会的に決めておかなくてはなりません。すなわち、教科書は、倫理を法律に則したものと考える法習主義、つまり「法によって許容できるエゴイズムの限度を決める」ことを以って倫理学の課題としています。したがって、法の敷居は低くしておかなければなりません。刑罰という観点から言うならば、同罰主義ではなく、教育刑主義をとらなくてはなりません。「規制しなければならない最小限の行為に抑止効果をもつ最小限の刑罰」という原則を裏返しにして、「その最小限の規制を除いて何をしてもいい」と言い直せば、自由主義になります。功利主義は、「豚とソクラテス」[→教科書60-62ページ]という論法で、功利主義から文化水準の向上が期待できるという価値観を正当化しようとしました。だが国民の徳性に対して最低限の要求を出し、最小限の規制で十分であるとする最小限主義、理想主義ではなく最小限の抵抗で済む法制度を求めるという法治主義、特定の価値を最善とするのではなく、国民の自由な選好の最大限を社会的に実現しようとするのだという選好功利主義の方が、むしろ功利主義本来の良さを示しているのではないでしょうか。

 以下、愚行権とりわけ喫煙に対する反論(朝日新聞平成19年2月15日)。論客は東北大加齢医学研究所教授、貫和(ぬきわ)敏博氏です。
 理由の第一は健康障害を引き起こす「元凶」であること。例えば肺気腫、肺がん、肺線維症などの形で「わな」が顕在化してきます。
 理由の第二は身体内部の環境汚染になること。煙として肺に入ったタール分は蓄積して消えることがありません。たばこに汚染される身体も見方を変えれば、自然の一部です。
 理由の第三。しばしばたばこの喫煙の正当化にナバホ・インディアンが毎朝喫煙していたことが引かれます。ナバホとヨーロッパ人のちがいは後者がたばこを嗜好品にしたことです。
 こうした医学的知見に基づいて、エゴイスティックな喫煙の自由に制約が課せられつつあります。そればかりか健康増進法(平成十四年八月二日法律第百三号)というものがあって、国民の健康増進を目的にして作られました。その25条で受動喫煙対策が盛り込まれていることから別名受動喫煙防止法などと呼ばれたりしているようです。その第5章、第二節 受動喫煙の防止の中で、受動喫煙の防止が施設の管理者に課せられているからです。すなわち健康増進法は、施設の管理者は受動喫煙を防ぐために必要なことをやりなさい、それが義務ですよ、という法律と言えるでしょう。→受動喫煙岡山路上喫煙制限区域の取り組み

 加藤尚武の新聞切り抜きをよく見ておくこと。受動喫煙は他者危害。

4.どうすれば幸福の計算ができるか。規則功利主義とは何か説明できるようになる。[→教科書第五章]
[授業目標]功利主義の諸問題を考えることができる

功利主義の善さ
一、最小限の規制で十分である、とする最小限のことを要求する最小限主義にあります。
二、カントの義務倫理学が理想主義に陥るのに対して、最も少ない抵抗しか受けない法習主義という利点もあります。→click
三、特定の価値を最善とするのではなく、国民の自由な選好の最大限を社会的に実現しようとするのだ、という観点からも評価しえます。
〔問い〕功利主義の限界を五点に要約せよ。[→加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫、66-72ページ。]
①単一原理主義の破綻 功利主義の原理からは「平等」を導き出すことができない。「自由」を導き出すこともできない。
  ex.自由を分けて、自由人と奴隷にした場合と、全員自由人にした場合を比較して、常に後者の方が幸福の総量
    が大きいとは限らない。ということは、功利主義原理から、すべての倫理的価値が導けないということである。
②幸福加算の不可能性 幸福は人により、時により、状況により変わるもので、個人内比較・個人間比較を加算できない。
  ex.「食事の前のビール」と「食事の後のビール」では味がちがうから、「食事+ビール」の加算は無意味である。
    (J・L・マッキー著/加藤尚武監訳、1990、『倫理学』晢書房、185ページ)
 一番分かりやすい幸福計算の不可能性を取り上げ、その後で規則功利主義に触れたいと思います。66ページ参照。
 時間的順序の問題をクリアーしておきましょう。シェイクスピアの書いた悲劇として、『リア王』のお話しがあります。
※コラム:リア王   リア王は高齢を理由に王位の退位を決意する。三人の娘たちに等しく領地を分け与え、自らは隠居すると言い渡す。条件として、それぞれが父である自分をどれくらい、愛しているかを問い質す。長女のゴネリルと次女のリーガンは言葉巧みにリアヘの愛を誓い、豊かな財産を手に入れる。しかし、末娘のコーディーリアは自分の気持ちを素直に伝え、リア王の怒りを買う。激昂したリアはコーディーリアと親子の縁を切り、永遠の絶縁を申し渡す。二人の姉は先刻のリアヘの賛辞はどこへやらにして、リアを始末する策を話し合う。手のひらを返したようなゴネリルとリーガンの仕打ちに絶望の淵に突き落とされたリアは正気を失い、娘たちへの激しい呪いの声をあげながらひとり荒野にさまよい、出ていく。父の難儀を知ったコーディーリアは、内乱状態のブリテンに上陸する。父と娘に昔の熱い血が交流する。しかしそれは束の間のことだった。そして―――リアの前に悲惨きわまりない残酷な運命が立ちはだかる。
  
このように先に幸福だった人生の方より、――部分を構成する幸福・不幸の内容が同じでも、――後に幸福だった人生の方が、全体として幸福な人生と言えるでしょう。要するに幸福を計算するさいの単一の基準は存在しないのです。
③個体の基準の不在 ちがう人の幸福を如何に加算するかという問題も関係しています。そこから功利主義に対する批判の視角も生まれます。
 例えばサディストの集団が多数いて、1人の人物を虐待することに、大きな喜びを感じるとしたなら、幸福を最大にするという観点からは、サディストの蛮行は肯定されるでしょう。ということは、功利主義の考え方には欠陥があることにならないでしょうか。
 
〔資料〕[→加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫、67ページ。] 
 「一体、〈何らかの点で影響を受けるすべての者達〉とはどれだけの範囲を含むのか。〈全人類〉あるいは〈感覚のあるすべての生き物〉を指すのだろうか。人間以外の動物は含まれるのか。善を快楽と、悪を苦痛と同一視する理論は、快楽や苦痛を感じうるどんな被造物も正当な理由によって無視できるとは思われない。それは今生きている人々だけを含むのか。それとも未来の世代も含むのか」(J・L・マッキー著、加藤尚武監訳、1990、『倫理学』晢書房、185ページ)
  
 誰についての最大多数かという問題には、受精卵、胎児、植物状態の人、脳死の人、故人、生物種、生態系が含まれるかという問題もある。
 
④義務への動機の不在 功利主義は個人が自分の不利益を省みずに義務を果たすことを説明できない。
 個人がエゴイズムだけを動機づけとする限り、たとえ道徳法則を守ることが、結果として個人のエゴイズムに長期的に有利になるとしても、道徳法則を守る動機づけが不可能になってしまう。これと反対に、個人がすべて自分の利害を度外視して道徳法則を守るなら、結果として個人に最大限の利益が得られるということは十分に考えられる。つまり反功利主義者の功利主義は成り立つが、功利主義者の功利主義は成り立たない。
⑤配分原理の不在 健康な1人の臓器を10人の病人に配分するとか、無実の人を犯人にして犯罪の予防効果を上げるとか、伝統芸術の保存をやめて公営賭博場をつくるとか、少数者を犠牲にして多数者が利益を得ることは、ドンブリ勘定の功利主義のもとでは正当化される。 功利主義者のなかには公平性を功利主義が要請するので、平等主義と矛盾しないと考える論者がいる。
 
〔問い〕「今、あなたがふと窓の外を見ると、中学生たちが猫を取り囲んでいた現場が偶然目に留まった。その中の何人かが、鋭い矢を発射するボウガンで猫を狙っている。彼らはあなたに気づいていない。あなたは窓から大声で叱りつけ、中学生の行為を止めようと思った。猫が矢で射られるより射られない方がこの世に苦痛が少なく、功利主義的に見て、「結果がよい」ことは明らかだからだ」。
まずここで幸福の量は誰に対して測られるのかという問題があります。教科書68ページ。「誰についての最大幸福かという問題には、受精卵、胎児、植物人間(遷延性意識障害者)、脳死の人、故人、生物種、生態系が含まれるかという問題もあります」。環境や動物に加えられる危害にも人間と同等に扱うこととしましょう。
 「「しかし……」あなたは考える。ここで制止すれば、中学生らはさほどインパクトを感じずに、後々同じことを繰り返すでしょう。もしここで猫が死ぬ現場に立ち会ってショックを受ければ、こんな残酷な行為は二度とするまいと痛感し、悔いる子もいるでしょう。ここはいっそ猫殺しを黙視し、凄惨な光景が展開したところで出て行って叱りつけた方がいいかもしれません。予防的な叱り方よりも、やってしまった行為を叱る方がきつく叱ることができて効果的だし、その方が結局は世界の中の残酷行為の数は減り、「結果がよくなる」はずです」。以上、行為功利主義が陥る難局。[→三浦俊彦、2002、『論理パラドクス』二見書房、192-193ページ。]
(注意:功利主義的に答えよ)
 
【問題意識共有メモ】 私たちは普通、個々の行為の結果を正確に予測などできないのだから、規則に則るべきです。功利主義は、個々の結果をそのつど最大限,、善くするように個々の行為をせよ、という指令ではなく、個々の結果を最大限よくする「レシピ」の提供を、その旨としているのです。
〔資料〕 [→J・L・マッキー著、加藤尚武監訳、1990、『倫理学』晢書房、197ページ。]
 「規則功利主義が行為功利主義とちがう点は、それが万人の幸福を直接にではなく間接に、すなわち二段階の手続きによって、正しい行為の基準にするということである。それはオースチン(John Auistin* 1790-1859)の「われわれの規則は効用に、行為は規則に合わせよう」という言葉に要約される。オースチンによれば、各行為が正しいか否かを見るにはその「傾向」(tendency)を見極めなければならない。すなわち、その行為が属する行為の集合が一般的に実行されたとき万人の幸福への影響がおよそどうなるかを考察しなければならない」。*法哲学者。言語哲学者のJ・L・Austinとは別人。
  
★ブラントの要請する背景:道徳の根本基準について、成人の90パーセントが賛成していて、賛否を問えばまともに応答するという条件が、規則功利主義の実用的な条件である。簡単に言えば「誰にでも納得のいく基準」が前提である。
 幸福の計算不可能性の問題は残る。 
 1000円でCDを買ったとき、効用から「1000円の価値をもつCD」が決定されていたのではなく、買うという行為で、「1000円の価値をもつもの」が存在するかのような、仮象が生まれたのである。ただし、この仮象は、交換という事実に支えられて、実際上の意味を十分もっている。→推移律が一定程度、成立することを前提。これに対し量化可能性が成り立たないと考える論者もいる。「個人の世俗的、幸福主義的な価値を帰結主義的に評価する長期的で平均的な選好の場合には量化可能性は成り立つが、正義、当為、人格の尊厳、宗教的な価値ばど、比較不可能な、ある意味で絶対的な、またほぼ同じ意味で無限の価値や尊厳をもつ、内在的な価値(intrinsic value)の領域では、不合理な根源的な決断、心情主義的先行判断、先存在論的存在了解、内面的な良心が選好を決定し、量化可能性が成り立たない」。
 必需品と贅沢品では推移律の成立状況がちがってくる。推移律の成立のしやすさの目安として、次のような順番も考えられる。

 ①食糧、安全、苦痛、生存に必要な資源
 ②健康、快適、喜び、就職、環境
 ③効用、知性、政治、科学
 ④友情、学校、地域社会
 ⑤音楽、美術、美食、娯楽、ファッション
 ⑥宗教、意見、国籍
 
〔資料〕 [→加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫、82ページ。]
 限界効用が価格の決定方式となるためには、その社会は、「無意味なもの、悪趣味なもの、そして過剰な贅沢」の選択をゆるすほどに豊かでなくてはならない。しかし、自由な選択が、その社会の多くの住民にとって餓死や奴隷的な状態を意味するなら、自由な選好のシステムに代わって武力の支配が登場するだろう。
〔資料〕 [→加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫、84ページ。]
 快楽と苦痛という心理的な幸福度を、別々の個人の間で合計して最大多数の最大幸福を計算することは不可能である。しかし、市場での選好をよりどころにしてにして、経済学的に幸福計算をしようとすると、その社会の成員の豊かさによって推移律の成立の仕方がちがってくるために、経済学的な指標では、実質的な最大多数の最大幸福を表現することができなくなる。
 

5.倫理的判断能力は誰がするか。リベラリズムについて考察する。[→教科書第六章]
[授業目標]人格とは、どのような概念か知る

 ここで倫理的判断能力の判断は誰がするのか、という問題に突き当たります。
 ★決定権をもつ者を決定するという循環構造がある。正式メンバーと正式のメンバーでない人とのちがいは、正式メンバーが決定するという構造になる。学士院や芸術院、日本の国立大学教授、カトリックの枢密卿会議などでは、会員か会員でないかは会員が決める。その社会のなかの決定権をもつグループが、決定権の範囲を決定する。AとBの両方から支持されていないと、正当化できない*。
 *ex.自由人と奴隷のちがいは自由人が決定するということに奴隷は同意しない。 

【問題意識共有メモ】 かつては人格、すなわち〈私たちの道徳的共同体の一員として、正当な道徳的配慮をすべき存在〉の境界がはっきりしていました。ところが現在、医療の進歩に伴い、人格の概念が自明でなくなってきています。すなわち、われわれは人工妊娠中絶、臓器移植、安楽死等の問題に直面して、人格の範囲を改めて決定し直さなければならなくなっています。

 peresonaはギリシヤ悲劇から生まれた概念です。
  
〔問い〕人格に関する以下の文章の空所を補充せよ。
すべての    が人格なのではない。     人格であるもの(胎児)は、現実的な権利をもたない(と言われることがある)
自己意識、理性、道徳的感覚をもつ、対応能力のある責任主体が「    意味での人格」である。
乳児やボケ(ママ)老人は、「    意味での人格」であり、生存権は有するが、責任と義務を免除されている。
「厳密な意味での人格」に関してのみ、同意の必要が成り立つ。
  

〔資料〕[→エンゲルハート著、加藤尚武・飯田亘之訳、『バイオエシックスの基礎づけ』朝日出版社、133ページ。]
 人格について語られるのは、ひとが正当な理由で賞罰を下すことができ、道徳生活の核心部で、ある役割を演じうるような存在を同定するためである。そうした存在が道徳に関する議論に参加しうるためには、彼らが自分じしんについて反省することが必要だろう。それゆえ彼らは自己を意識しているのでなければならない。道徳共同体の可能性を思い浮かべるためには、自分や他人にとっての行為規則を考えることができる、すなわち理性的存在者である必要があろう。

  
そうした「厳密な意味での人格」であるか否かに応じて、患者の意思表示のあり方がちがってくるから、安楽死の規定も変わってきます。
     安楽死:判断能力のある患者が、みずから死を要求する場合の安楽死。
     安楽死:患者に意向を表明する能力がない場合の安楽死。
     安楽死:医師が、判断能力のある患者の望みに反して、安楽死を行うこと。
 
  
※コラム ミリオンダラーベイビー アメリカ中西部に住む貧しい上に家族が崩壊状態にあり、死んだ父親以外から優しい扱いを受けてこなかったマギー・フィッツジェラルドは、プロボクサーとして成功して自分の価値を証明しようと、フランキー・ダンのうらぶれたボクシング・ジムの戸を叩いた。
 フランキーはかつて止血係(カットマン)として活躍した後、トレーナーとなってジムを経営し、多くの優秀なボクサーを育ててきた。しかし、彼らの身の安全を深く配慮するあまり、慎重な試合しか組まないことから、ビッグチャンスを欲するボクサーたちに逃げられ続けてきた。
 最初フランキーはマギーのトレーナーになることを拒んだものの、フランキーの旧友でジムの雑用係が彼女の素質を見抜いて同情したこともあり、フランキーは毎日ジムに通い続けるマギーをコーチしはじめる。そして練習を通じ、やがて2人の間に実の親子より強い絆が芽生える。マギーはフランキーの指導の下、試合で勝ち続けて評判になっていき、とうとうウェルター級で遂にイギリス・チャンピオンとのタイトルマッチにまでたどり着く。
 この試合でアイルランド系カトリック教徒のフランキーは、背中にゲール語で「モ・クシュラ」と書かれた緑色のガウンをマギーに贈るが、マギーがその言葉の意味を尋ねても、フランキーはただ言葉を濁すだけだった。
 タイトルマッチの後も勝ち続けてモ・クシュラがマギーの代名詞ともなり出した頃、フランキーは反則を使う危険な相手として避けてきたWBA女子ウェルター級チャンピオン、ビリーとの試合を受けることを決める。この100万ドルものビッグ・マッチはマギーが優位に試合を運んだが、ラウンド終了後にビリーが放った反則パンチから、コーナーにあった椅子に首を打ちつけ骨折し、全身不随となる。
 フランキーはやり場のない怒りと自己嫌悪にさいなまされ続け、マギーは完治の見込みがない事から人生に絶望し始める。やがてマギーは自殺未遂をするようになり、遂にはフランキーに自殺の幇助(ほうじょ)を依頼する。フランキーは苦しみ続けるマギーへの同情と、宗教的なタブーとのはざまで苦悩したものの、最後はガウンに綴られた「モ・クシュラ」に込めた気持ちを伝えると共に、薬で意識朦朧(もうろう)とするマギーにアドレナリンを過剰投与し、姿を消した。

 
  
〔課題〕映画「海を飛ぶ夢」と「ジョニーは戦争に行った」のストーリーを調べ、その間の安楽死に関する考え方のちがいに言及せよ(前者が自殺幇助であることに注意せよ)
①権利を能力の現存によって規定するという考えは、権利概念の本質に反する。
 ex.私のリンゴの木の実を私が物理的に占有する能力を失ったとたんに、私が所有権をも失うとすれば、所有権とは物理力で防衛することのできる範囲の物の占有を意味する。
②生存権・決定権の範囲から誰かを除外する決定は、生存権・決定権をもつ者が決定するだろう。生存権の範囲をいくらでも恣意的に縮小できることを意味する。
③決定の功利性。功利性という概念と人格の概念とは、もともと関係がない。
 もともと功利主義は死刑廃止論と結びついて生まれたもので、生存権の範囲の制限という発想は、功利主義になじまない。
  
④可能的人格の生存権の問題。  
〔問い〕以下の議論を批判的に検討せよ。
……可能的人格の生存権の問題がある。もしも可能的(将来、人格となるヒト)に生存権があるならば、人工妊娠中絶は正当化されない。そこで持ち出される議論の定石は12歳のジミー・カーターは三軍の統帥権を持たない」という議論。
〔問い〕以下の出生前診断に基づく妊娠中絶が孕む倫理的問題について空所を補充せよ。
(大庭健、2006、『善と悪』岩波新書、196-204ページ)。……出生前診断に基づく(遺伝的問題がある胎児の)人工妊娠中絶は認められるでしょうか。
第一。いかに人工妊娠中絶が安全になったとしても敢えて子供を生むカップルは当然いるでしょう。その場合、人工妊娠中絶が「善くない決断」によって、生まれてきた障害児は、社会的に「             」子という烙印を押されます。障害を持って生きていくことが大変であるばかりか、それに加えて「本来なら生きているべきではない」として扱われる辛さは、絶望的に大きくなります。また障害の「深刻さ」の線引きも曖昧です。全盲というハンデキャップを担ったヒトであっても、            が普及すれば、はるかに障害からこうむる「深刻さ」は軽減されます。ですからある種の障害は、条件次第によって「深刻」ではなくなります。
さらにもし脳性マヒが出生前診断で正当化される社会になったら、今度はダウン症胎児の人工妊娠中絶が正当化されるのでは。もしダウン症の人工妊娠中絶が正当化される社会になったら、もっと軽度の身体障害も、人工妊娠中絶の正当化の理由として認められることになるでしょう。このように「深刻さ」の基準がスライドする可能性も考えられます(これを       と言います)
第二に社会全体として出生前診断に基づく人工妊娠中絶は不幸の総量を減らすと言えるでしょうか。こうした出生前診断は、「自分」が「命」を所有するという発想を、強く推し進める結果となります。生を自分だけのものとして捉えるために、障害者や、その人と共に生きてきた人の、         を否定しかねません。
〔資料〕立岩真也、1997、『私的所有論』勁草書房、380ページ。
 「彼ら〔障害者運動推進者〕は、障害を持って生きているものが当事者の不幸ではないのだ、とはっきり述べた。現に障害を持って生きているものが不幸であるなどと言えない。勝手に人の幸不幸を決めるな、不幸と決めつけているのはあなた方ではないか、私達が不幸であるとすればそう決められることが不幸なのであり、また、それを私達が受け入れた時に自身を不幸であると思うことになるのだ」。
 
〔勉強のすすめ〕次の事態に対して、どう振舞うか。
 胎児は順調に育っている。しかし、病院の検査で、胎児が重い障害を持つことが判明した。生命に別状ある障害ではなく、生まれた後も特別な措置を取らずとも生き延びる可能性が高い。しかし、知的・身体的にかなりのハンディを負うことになり、大変な苦痛にたびたび襲われたりして、生涯にわたり、きわめて不幸な生活を強いられることだろう。
 医師は、中絶の選択肢もありうることをほのめかしている(医師として勧告することはない)。さて、どうすべきだろう。
 
★人格の尊厳が問われる・・・「尊厳」というのは、特定の事実状態に還元することができない、無限の価値をもつことを意味する。尊厳をもつものは、他のものの代償として、それよりも価値(価格)の大きいもので置き換えることができない。→人工妊娠中絶・重度障害児の出生直後の安楽死・いわゆる苦痛回避のための安楽死・脳死者からの臓器の摘出の問題 
 https://www.youtube.com/watch?v=iB-sOe4deI4
  
 

6.思いやりだけで道徳の原則ができるか。倫理的な判断はすべて状況に依存するか。[→教科書第九章]
[授業目標]「相互性の原理」(普遍化可能性・ヘア)の射程を理解する

 「わが身をつねって人の痛さを知れ」:他人の痛みを私たちが分かってはいても度外視してしまうから。
 「情けはひとの為ならず」:他人に情けをかければ、いつかは自分も情けを受けることになる。
 
この「黄金律」のように責任を、お互いにフィフティー・フィフティーで割り当てるような原理・原則を、「互酬性の原理」と言います。善に関して「互酬性の原理」が成り立つと同様に、悪に対しても「互酬性の原理」は成り立ちます。後者として典型的なのは、ハンムラビ法典で書かれている、「目には目を」という復讐の形を取るそれです。
  
※復讐をしない対象を、人間は本性的に定めているという意見に対する補足:親でさえ子供は殺してしまいかねない!!  
〔資料〕斎藤慶典、2000、『力と他者』勁草書房、173ページ。
 「…私と他人(たち)とは別人なのだから、この殺人によってほかでもない、この私が何らかの自己利益――単なる快であってもよい――を得るのであれば、当の私がそれを追求することに何の問題があるのか」に続けてこう述べます。「もちろん、殺されようとしている他人の方は他人の方で、殺されるのはたまったものではないから、この不利益を回避すべく手をつくすであろうが、他人がそのようにふるまうのが当然であるその同じ理由で、私が自己利益のために殺人を行なうこともまた、当然認められてしかるべきなのである」。
  
黄金律への意地悪な反論 http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/golden_rule.html
①「同様な状況におかれた同様な人すべてによる同じ行為」というものは、この世に存在しない。
②「親切の原理」は「正義の原理」ではない。
 更なる問題として、人称代名詞が含まれてくると普遍化できなくなります。例えば親切の場合を考えて見ましょう。教科書135ページ、後ろから6行目に次のような記述があります。親切とは「私がして欲しいことを彼にする」のではなくて、「彼がしてほしいことを彼にする」ことなので、「私がして欲しいことを彼にする」という正義の原則、つまり私と彼を分け隔てなく考えるという原則と、〔「彼がしてほしいことを彼にする」という〕親切の原則は一致しません。
〔問い〕親切の原理に則るなら、麻薬を投与することが正当化されるのではないでしょうか。検討してみてください。
 ③「正義の原理」に従わない方が、ずっと道徳的である場合がある。
「私が行なう献血が私にとって正しいからといって、同じ献血行為が同様な状況におかれた同様な人すべてにとって正しいとは限らない。私がみなさんの分まで献血しますから、皆さんはどうぞ、ご自分を大事にしてください。皆さんは献血をしていただかなくって結構です」という態度。その場合、「互酬性の原理」が前提されていません。

そこで考えられているのは、パティキュラな道徳でしょう。
⇔「黄金律は必ずしも成り立たない」。
〔問い〕以下のような考えに対してどう考えますか。
例えば「電車で老人に席を譲るべきである」という道徳判断があったとします。もし私が医者で、瀕死の重傷者に対する、善後策の電子メールを、席に座りながら書いていたとすればどうでしょう。一時は老人が席の前にいたとしても席を譲らないで、メールを書き続けるべきではないでしょうか(実は問題はもっと個別的な形を取るはずです)
普遍化の第一段階
 同様に固有名詞に代わる働きをする指示代名詞・連体詞が、含まれると普遍化できなくなります。
 
〔資料〕[→J・L・マッキー著、加藤尚武監訳、1990、『倫理学』晢書房、128-129ページ。]
 「肌の色に基づいて人々を差別するのは、ほとんど全ての場合に、不公正である。性に基づいて、教育の機会を与えることで差別するのは不公正である。宗教に加入しているかに基づいて、州営住宅の割り当てで差別することは不公正である。ところが、これら不公正のどれひとつとして、われわれの普遍化可能性の第一段階によっては排除されない。/もちろんこの種の不公正は、人々が何らかの点で自分たち自身と似ている全ての者を格別な仕方で優遇するような、普遍的に指図的な原則を採用する場合に、最も生じやすい。優遇の対象となる類似性は、ここに述べた人種や肌の色や性や宗教のように明白なものである必要はなく、さまざま種類の強さや技術であるかもしれない。自分自身が強く、だから首尾よく競争することを知っている者には、激しい競争を許容するような道徳規則を承認する傾向があるかもしれない。秀れた剣の使い手やピストルの名手は、決闘の制度が威厳と名声を自己防衛するよい方法だと考えるかも知れず、これに対して武器よりも言論の得意な者は、その仕事は法廷に帰せられるべきだと考えるかもしれない」。
★「黒人に選挙権を与えるな」「女性の賃金が男性より低いのは当然だ」「外国人労働者に労災保険金を支給する必要はない」という不当な普遍化を排除できていない。 
 
普遍化の第二段階 
 「他人の立場に自分をおいてみて」普遍できるかテストをする。
普遍化の第三段階 
 公正な判断は普遍化可能な判断だという想定のもとに、自分が信じるのとはちがう立場への配慮を徹底化していくという構造になっている。butアメリカの国境に「アメリカ人以外は立入禁止」と書いてあるとすれば、必ずしも不公正であるとは断定できない。固有名詞を取り除けば公正になるとは言えない。 
 
ex.「私が大学の駐車場に自動車を入れようとしたら、たった一つの残りのスペースを山田君の自転車が占領している。私のそこに駐車したいという選好の強さは大きい。山田君は、自転車を動かしたくないと思うが、その選好の強さは小さい。だから私は山田君に「君は自転車を動かすべきだ」と言う。私が彼と同じ状況になったとき、つまり私が自転車を駐車場に置いて、山田君が自動車を入れたがっているときに、私は山田君から「先生、自転車をどけてください」と言われたら、すすんでどけなくてはなくてはならない。このような状況では、山田君が自転車を動かさないでよいが、同じ状況に私がなったとき私も自転車を動かさないという解決も考えられる。その場合には選好の大きい方が充足されないで、自転車を動かさないで済むという強さの小さな方の選好だけが満たされる。二つの場合で満たされる二人の選好の強さが大きいのは、自動車駐車という強さの大きい選好を、自転車駐車という強さの小さい選好に優先させる場合である」(教科書143-144ページ)。 
★普遍化可能な、最大の選好の強さを実現する指令が正しい道徳的な判断だということになる。
ヘアの道徳思想
①自分の置かれた都合次第で態度を変えないという一貫性
②相手の立場を正しく理解しているという他者理解
③最大の選好を選ぶ功利性
相手の立場に立っていたとしても、弱い立場の利益を、必ずしも擁護するとは限りません。
〔問い〕しごきの例の場合に弱者が保護されないことを論じよ。
 

7.正直者が損をすることはどうしたら防げるか。クイズ・囚人のジレンマ。[→教科書第一○章]
[授業目標]囚人のジレンマ的状況を理解できるようになる

 
〔問い〕では以上を踏まえてクイズ。[→三浦俊彦、2002、『論理パラドクス――論証力を磨く99問』二見書房、163-166ページ。]あなたは双子の弟と組んで政治犯罪を行なってきたとします。一卵性双生児なので、性格も能力も酷似しており、いつも考えることが同じなので、遠く離れて連絡をとりづらい状況でも以心伝心の絶妙のタイミングで行動が一致し、仕事がうまく運んでいました。弟と判断が食いちがったことは一度もなかったのです。
しかしついに2人揃って罠にはまって捕らえられ、2人で実行中の謀議について別々の取調室で尋問を受けることになりました。取調官は次のような取引を提案しました。https://www.youtube.com/watch?v=7ZpQcGLLrE4
「爆弾を仕掛けた場所について、相棒とおまえの2人ともが黙秘したなら、嫌疑十分ながら証拠不十分だから2人とも執行猶予つきの懲役1年だ。相棒が黙秘しているのにおまえが自白したなら、困難な状況を打破してくれたということで、1億円の報酬を与えた上で釈放しよう。相棒が自白したのにおまえが黙秘し続けている場合は、おまえは終身刑となる、ただし両方自白したら、共に懲役5年の実刑だ」。
弟にもまったく同じ取引がもちかけられているとします。あなたと弟は、仕事上は理想的なパートナーでしたが、お互い相手のことが好きではなく、基本的に相手の身に何が起こるか今やどうだっていいとしましょう。あなたは自分の利益しか考えていないし、弟もそうであろうことは十分わかっています。そして従来の経験から、自分と弟はほぼ間違いなく同じ決断をするだろうと予想できるとしましょう。しかし2人の間で互いに連絡は取れず、全く別々に判断を下すのだとしたとき、あなたは自白すべきか、それとも黙秘すべきかどちらが得でしょう。
この問題自体には正解はありません。答えは好みによります。では自白するという選択肢と黙秘するという選択肢のいずれかを取った場合、それぞれ世界観が具体的に、どう違うのかを考えてみましょう。さて以下のいずれの選択が自白、黙秘の選択肢と適合しているでしょう。
意思決定の手引きとして「確率」に信頼を置いているのはどっち。       。 
意思決定の手引きとして各場合の損得に信頼を置いているのはどっち。     。 
〔解説〕 私が黙秘する場合の世界観による考え方。私と弟がともに黙秘する場合と共に自白する場合が起こる確率が圧倒的に高く、他の二つの場合が起こる可能性はほとんど無視できるでしょう。そこで確率の高い二つを比べると私は黙秘する方が得です。
 私が自白する場合の世界観による考え方。私が何をしようと弟は自白する場合と黙秘する場合をそれぞれ考えると、一回限りなら、どちらの場合も、私としては自白したほうが得です。
私\弟 自白 黙秘
自白 懲役五年実刑 釈放+一億円
黙秘 終身刑 執行猶予つきの懲役一年
 
〔ちょっと多い目の親切な(?)解説〕
自白するような考え方を取る人間は、もし相棒が黙秘しているなら、自分は自白したり逃げたりしてしまえば無傷で済む。たとえ、相手が自白してひどい目にあうよりは、やっぱり自白してしまったほうがましだ、というわけです。
つまり、ここで考えられることの可能性はもう少し複雑であって、以下のような見込みがかかわってきます。相手のほうでも相棒を裏切って自白する方が得であると考える・・・・結局、2人とも懲役5年とか、とにかく結果のペアとしては、最悪の結果になってしまうかもしれないという考え方。
しかしながら、そういう悲惨な結果を予測できるからこそ、次のような考え方も成り立ち得ます。黙秘する場合に比べて、懲役5年が、はるかに善くない事態であることは、相棒にとってもわかるはずだ、と思うかもしれません。そうしたら相棒だって、約束どおり2人とも黙秘する方を選ぶのではないでしょうか。
ただしもし純粋な利己主義者なら、相手が黙秘するのですから、一方的に自白したら、釈放+1億円のプラスを得られるわけだと思って、自白を選ぶかもしれません。そのことに気づけば、相手も自白を選ぶはずです。とすると、上と同様の道筋をたどって、黙秘へと・・・以下同様にループが連鎖します。こういうわけなので、共に黙秘する=協同が成り立つためには、詰まるところ、相手との信頼関係が保証されている必要があります。
では貴方なら自白しますか。黙秘しますか

〔勉強のすすめ〕プレーヤーが複占企業A,Bで、価格競争を行う場合を考えてみましょう。戦略A1,B1を価格引き下げ、戦略A2,B2を価格の現状維持とします。企業AとBが価格カルテルを結べば、利潤(8,8)を維持することもできます。しかし、企業が自由に競争するなら、それぞれが価格を引き下げて自己のシェアを10にしようとする、あるいは、他の企業が先に価格を引き下げて、自己の利潤が0となる状況を避けるために、自分が先に価格を下げようとする。その結果、両方が価格を下げる、つまり利潤(3,3)を実現するでしょう。どのような点で囚人のジレンマに似ていますか。[→西村和雄著、1995、『ミクロ経済学入門』岩波書店、333ページ。]

〔資料〕[→J・L・マッキー著、加藤尚武監訳、1990、『倫理学』晢書房、167ページ。]
 トムとダンという二人の兵士が敵の侵攻を食い止めるため、二つの近接する拠点をそれぞれ守っているとする。もし二人とも持ち場に留まれば、救援の来るまで持ちこたえ、二人とも助かる可能性がかなりある。もし二人とも逃げるならば、敵は直ちに追撃し、二人のどちらも助かる可能性はずっと小さくなる。しかし一人が持ち場に残り、他の一人が逃亡したとすれば、逃げた者の助かる可能性は二人とも留まった時より大きくなるが、留まった者の助かる可能性は二人とも逃げた時よりも、もっと小さくなる。
 
【問題意識共有メモ】
 実際にこの種のゲームをやってみたら、どういう結論になるかは点数の与え方によります。最初に協力で各々に三点、裏切りで五点と零点、共倒れで一点というように、得点配分を決めておく。そうすると戦場で共倒れになる確率はかなり高いと言えます。つまり二人とも逃げる場合で、二人は協力し合うより、共に助からない可能性は高くなります。このような点数の下では、裏切って出し抜こうとする衝動が強く働くわけです。つまり、二人の利益が最大になるように、という関心よりも、むしろ相手を出し抜いて優位に立とう、という関心が、より帰結に作用するのです。
 
〔問い〕空所を補充せよ。
こうした得点配分では   決戦の協力の成果は出ませんが、   的に見れば話は別です。繰り返しで、囚人のジレンマ的ゲームがなされるとして、相手を利用し続ければ、仕返しが目に見えてます。ですから、長期的には相手の協力なしで、共同体で共存できません(注意:黙秘・黙秘という非道徳的選択肢が「共存」と捉えられている)。つまり、率先して協力的な態度を取り、相手を協力的に変えることが必要になってきます。
 
コラム 松嶋敦茂、2005、『功利主義は生き残るか――経済倫理学の構築に向けて』勁草書房、176-178ページ。社会の規則をゲームの理論で分析したヴァンバーグという人は、議論を始めるにあたって、ルールを以下の三類型に分類します。
  すなわち①協調タイプのルール②信頼にかかわるルール③連帯にかかわるルールの三つです。①とは、(ア)まず市民社会の全構成員が、「黙約」(convention)つまり〈暗黙の内で共有しているルール〉が自分の利益となることを知り抜いており、「利害のこの「常識」が相互に表示されて、自分にも他人にもよくわかっている」場合を指します。例えば交通規則の場合がそれにあたります。(イ)このような認識が全市民の行動のための「期待」の基礎となっており、(ウ)以上の二つの条件が自発的相互行為を通じて「自生的」に成立している場合が協調というルールが成り立ちます。②として例えば、「約束を守ること、嘘をつかぬこと、他人の財産を尊重すること」など、「互恵関係」を絆とするクラスターの形成・維持を通じて、秩序が自生的に(再)生産されるケースがそれに当たります。すなわち規則は「望ましい行為には報い、望ましくない行為は罰する」という「互恵関係」によって維持されます。前回使った「相互性の原理」という言葉を用いて説明すれば、「相互性の原理」が秩序を整える方向に作用する、ということになるでしょう。
  このように、ゲームがうまく倫理的な規則と〈連動〉する場合もたしかにあります。それに対して③の場合、うまくいきません。例として「公共の場所を汚さないこと、待機線を守ること、無謀な運転をしないこと、共同でやる仕事に自分の持ち分を果たすこと、チーム内での義務を回避しないこと」等が考えられます。こうした「連帯ルール」においては、「信頼ルール」のように、互恵的グループが形成されません。「連帯ルール」の場合、その「只乗り」free-riderを阻止することが、きわめて困難です。というのも「連帯ルール」に背いた者を個々「罰する」には、あまりにも多大な「コスト」を覚悟しなければならないからです。
 
〔まとめ〕
 ここからえられる教訓は、ひとたびゲームとしての「市場」が成立したからといって、それが持続的に自己を再生産していくわけではないことです。道徳性は、利己的な合理性だけに基礎を置いてニョキニョキと自ら生えてくるわけではなく、「連帯ルール」の維持のためには、制度的にデザインされる必要があるのです。
 
  

★契約論倫理学から功利主義への移り行き ゴーシエ[→安彦一恵,、2013、『「道徳的である」とはどういうことか』世界思想社、63ページ以下。]
  「人が基礎的に「自分の利益」を求めているとして、それを長期的に確保するためには(短期的に自己利益を求める在り方よりも)道徳的であった方が(より)有利である、という方向で解答するものである。……このように、「道徳性」の「理由」として「長期的利益性」を挙げ、その「理由性」の妥当性を証示するという解答は、倫理学において一つの主要解答タイプとなっている。近世においてはT・ホッブズにその原型が在る。「自然状態」から「契約」を介して「国家」が成立すると説く彼のいわゆる「社会契約論」は、その「契約」ということでこの「解答」が為されていると見ることができる。人々は自然権を放棄して(国家成立への)契約を取り結ぶのだが、「自然権の放棄」は「(短期的)自己利益の放棄、「契約」は一種の「道徳性」の採用に相当し、そして人々がそうするのは自己の「長期的な利益」の確保のためであるからである。……/彼の立論の第一のポイントは「協力による剰余」という視点に在る。単独で働いて利益を実現するよりも、共同で働いてその(共同)利益を後で分配する方が(一人当たりの)利益が多くなる、というのがその趣旨である。これは、或る意味で証明が無用の事実である。しかし、その分配がなんらかのかたちで「公平」であるというのが前提となっている。この「公平」にはいくつかのパターンが在る。彼じしんは限定的に分配のパターンを「ミニマックス相対譲歩の原理」に従うものとするが、一定の範囲内であればどれであっても各人の利益が(単独の場合よりも)多くなる。/そして第二のポイントは、そもそも他者と「協力」関係を取り結ぶのでなければ有利さを実現できないのであるが、その「協力」関係実現の制約として「道徳性」を規定することである。ゴーシエは、人の可能な「在り方」として、「直接的な[自己利益]最大化者」(SM)と「制約された[自己利益]最大化者」(CM)とを大別する。前者は「短期的視点で自己利益の実現を志向する者」である。 これに対して後者は「短期的自己利益追求に制約をかけて長期的に自己利益実現を志向する者」であって、その「制約」として「道徳性」が在るのである。/……そして彼は、人の本性が、……ときどきは「騙される」「騙す」ということが成り立つとしても、(一生という)トータルにおいては(一貫して)CMである方が有利であることを(定量的に)証示している。そのやり方は基本的に「囚人のディレンマ」(の「繰り返しゲーム版)に即して(「裏切り」戦略に対する)「しっぺ返し」戦略の有利さを証示するゲーム理論的主張と同型である。……/我々の「解答」の基本的スタンスは、大体においてゴーシエと同じである。ただ、一点だけ(我々としては重要だと思う、追加的な)修正を加えている。それは、「信」という要素を、「合理性の限界」ということと一つになるかたちで「道徳性」に取り込んだ人間観を採るという点である。「合理性」に限界が在るので、私達は――「利口(prudent)」な者として――その時々に何が(長期的に)利益となるかを自己計算しても「計算違い」によって結局「トータルで損」になる――徹底して「利口」であることはできない――ことが在りうる。これを回避するためには、いわば頭から「道徳」を信じた方が結局「トータルで得」になる、と我々は考える」。

 
 
8.社会契約論学説史 他人の利益と共に自分の利益を追求してゆく(アマルティア・センの思想)
[授業目標]松嶋敦茂著、2005、『功利主義は生き残るか』勁草書房を学ぶ
 
功利主義とは何か。序章2. 
(1)個人的善(personal good)についての個人主義的な規範理論としての功利主義 
 功利主義とは社会全体にかかわる倫理学説であるが、それは諸個人の善についての倫理的判断を基礎にして構築されている。
 俗にベンサムは「快楽」を重視し、J・S・ミルは「幸福」を重視したと言われる。論者によって、動物解放論の点では、ベンサムよりミルは後退したと論じられたり、ミルは精神的なものの重視から、「卓越主義」に力点を移している、とも言われる。
 20世紀になって功利主義は、ミルの提起した効用の「質」の問題に対して、快楽主義的功利主義から「選好功利主義」へのシフトによって答えた。→「選好功利主義」:「所与の個人にとって、何が善であり何が悪であるかを決定するさいに、究極的基準は彼の欲望、彼の選好のみである」(Harsanyi,1977,p.645)。ただし、選好は人種差別のように「反社会的・反道徳的」な性格をもっていれば、選好功利主義の選好から排除されねばならない。→Hareの選好概念参照のこと。
(2-1)帰結主義 
 帰結主義とは、行為、ルール(規則)、制度、動機などをその「内在的価値」によってではなくて、それらがもたらす結果・帰結(C)によって評価する倫理学説を意味している。功利主義とは帰結主義である。
(2-2)効用一元論(厚生主義) 
 功利主義は、諸個人の行為やルールなどの正・不正を、それがもたらす帰結(C)によって評価する。そしてこの帰結(C)は、それがもつ功利=社会的幸福への寄与によって測定される。最大幸福を志向するところから、「厚生主義」とも呼ばれる。功利主義が厚生主義であると言われるとき、暗に権利・正義を重視していないのではないか、という示唆をもつ。ただしミルは、功利主義では法=一般的ルールによって、正義・権利が基礎づけられると考えた。
(2-3)利害の平等な考慮(総和主義) 
 ベンサムは、功利主義の「幸福計算」において、「だれでも一人として数え、だれも一人以上に数えてはならない」、と述べている。つまり「一人の人間の幸福の程度が(種類も十分考えて)他人の幸福と等しいときには、どちらもまったく同等に尊重されねばならない」(Mill,1861,p.105,邦訳,526ページ)。
(2-4)最終審としての「最大幸福の原理」 
 通常の私たちの意思決定――行為・政策などの選択――においては、いちいちこのような「計算」をおこなう必要はない。歴史の経験が、私たちに与えている遺産――伝統・習慣・慣行・法制度――にもとづいて決定すればよい。ただそれらのうちに矛盾・葛藤が生じたときに、それらの最終審、最終的な決定を下す尺度=「調整者」となるのは「最大幸福の原理」である。
(3)功利主義の必要条件 
(3-1)諸個人の効用の可測性・(3-2)諸個人の効用の個人間比較の可能性 
 
現代ルール論の諸類型。終章1・2 とくに松嶋敦茂、2005、249ページ、表1
1 ホッブズ・ヒューム的(方法論的個人主義的)類型 
 ホッブズ・ヒューム…ヒュームにとって正義にかかわる倫理は、「人為の所産」、人間社会の進化の所産とされる。
〔資料〕ヒューム『人性論』、邦訳、第四巻、63-64ページ。・・・要約を解説しますから、各自読んでおいてください。
 さてこの黙約は約定(promise)という性質ではない。なぜなら約定そのものすら、のちにみるように、人間の黙約から起こるのである。黙約はたんに共通利害の一般的な感覚である。社会の全成員はこの感覚をたがいに表示しあい、この感じに誘われて、各人の行為を若干の規則(ルール)によって規制するのである。〔すなわち〕私は、もし〔私が他人に対して行うと〕同様に他人が私について行動するとすれば、他人の物財を他人に所持させておくのが私の利害に適うであろう、と見てとる。また他人は〔他人で〕、自己の行為を規制することに似かよった利害を感得する。そして、利害のこの共通感覚が相互に表示されて、私にも他人にもよく判ると、それに適応した決意と行いとが産まれるのである。これは、たとえ約定が介在しなくとも、われわれの一人一人の行動は他の人の行動と関連があって、〔ひとりがある行動を営めば〕他の人の側でもあることが営まれるはずである、という想定のもとに、それが為されるのである。例えば、小舟を漕ぐ二人の者は、櫂を動かすとき、約定を取り交わすことは決してないが、合意ないし黙約によって櫂を動かす。これに劣らず、所持の安定に関する規則(ルール)も人間の黙約から来る。けだし、この規則(ルール)は漸次、自生し、その力は徐々に、すなわち規則(ルール)違背の不都合を反復して経験することによって、獲得されるのである。が、また他方、この経験は、利害感がわれわれと同じすべての者と共通であることをいよいよ信憑させ、それらの者の行為について、未来の規則性がわれわれの頼りとなる。われわれの節制やつまし望みは、ただこれへの期待を根底とする。それは、言語が約定なしに、人間の黙約によって漸次、確立されるのと同様である。また、金銀が〔経済現象において〕交換の共通尺度となり、〔本来の〕価値の百倍もするものの掛値に当てるのが至当とされるのと、変わるところがない。
 
 ヒュームは自利に導かれつつ、「黙約」をつうじて、正義のルールに到達すると考えている。だから、これらのルールの遂行・遵守をその直接の利益とする組織を創ることによって、違背という不都合を解決せねばならないのである。この見地から、社会的制度体系は、自然的自由の体系によって再生産される、と考えられている(アダム・スミスも同様)。ホッブズやヒュームの現代における後継者の議論の特徴はルールの起源を不確実性の存在する状況のもとでの、諸個人の合理的意思決定と結びつける点にある。
・ヒュームとホッブズのちがい 
 ヒュームにおけるルールの成立が諸個人の自発的相互行為をつうじて「自生的」に成立するのに対し、ホッブズにおけるそれは社会契約をつうじて、言わば「設計主義」的に成立するものとして捉えられる。
(1)契約論的功利主義:ハルシャーニ 
 もしある個人が可能な社会的状況A,Bのうちから一方を選択するにさいして、次のような条件が満たされるとき、その選択は公平・無私である、と言いうる。すなわちもしA,B間の選択が、自分にいかに影響するかを知らずに、特にまた状況AおよびBのもとで、自分の社会的地位がいかなるものになるかを知らずに、状況AまたはBを選択した時である。そしてこのような状況のもとでは、現代の意思決定理論に従えば、合理的個人は彼の期待効用を極大化するようつとめるであろう。その結果選択される一般的ルールは、社会の構成員の平均効用を極大化するものとなる。
(2)契約論的自由主義:ロールズ 
 「無知のヴェール」:人々を半永久的に拘束する憲法的な一般的ルールを選択するにさいして、彼らはこのヴェールによってその情報の有無が彼らの選択を自分にとって有利にするような情報をすべて奪われていると想定されている。その情報とは、彼らの国籍、民族、宗教、性別、社会的地位・身分などの社会的情報、および彼らの才能や能力、健康などの個別的条件である。無私公平性の追求。
 ハルシャーニが一般的ルールの選択を、「リスクをともなう選択」としたのに対し、ロールズは、より情報制約的な無知のヴェールのもとでの諸個人の合理的意思決定に求めた。前者の合理的選択は単一個人の選択に還元しうるものであるのに対して、後者のそれは一つの「集団的選択」として捉えられる。
(3)契約論的自由至上主義者:ブキャナン、ゴーシエ 
 ロールズを批判してブキャナンは言う。「現実の人間は、心の一方において自分が何であるかをよくわきまえているのに、あたかも無知のヴェールの背後にいるように選択することができるのであろうか?」(Buchanan,1985,pp.35,36)。ブキャナンはロールズの無知のヴェールに代えて、「不確実性のヴェール」のアイデアを選ぶ。人間は目前の具体的状況の前では公平な選択を行うことは難しい。しかし「一般的に適用され、半永久的に有効であることが保障されているような」一般的ルールの選択にさいしては、半ばこの「不確実性のヴェール」のもとで選択しているかのように公平に行動しうる。ルールは「無私」なものではなく、諸個人の個別的利害の極大満足への欲求を容認するものである。
 
2.非ホッブズ・ヒューム的類型・・・以下、簡単に述べておきますので、各自勉強してきてください。 
2-1非歴史主義的・個人主義的アプローチ
(1)非人間主義的功利主義:シンガー、フッカー 
 自利の追求の果たす倫理的役割を否定することはない。しかし、彼にとっての倫理的なこととは、道徳主体の「利害の平等な考慮」にもとづいて最良の結果をもたらすこと。ここで大切なのは、この道徳的主体のうちに人間以外のすべての動物も含まれていること、それらの利害はその緊急性に応じて平等に取り扱われるべきこと、である。そしてこのような倫理的命令はルールとして教育されることが望ましい、と主張される。同感が強調され、利己心はもはや主役ではない。
(2)討議をつうじての合意形成:スキャンロン、ハーバーマス 
 「契約やその同種のものは、多くの人には利己心にもとづくバーゲニングのプロセスを示唆しているように思われている。しかしその考えは私にとっては縁もゆかりもないものである」(Scanlon,1998,p.5)。彼にとって一般的ルールは諸個人(グループ)の特殊利害の妥協の所産ではなく、諸個人にとっての共通の利益・価値を意味している。
(3)潜在能力・コミットメント分析:セン 
 「利己的」な「共感」と違って利他的な関与を促すのは、「規範」的な正「当」性である。それをセンはコミットメントと呼ぶ。〔センのコミットメントの彫琢は「動機」に即して為されている。しかし後に述べるように「動機」が、基本的に「利己的」であるという考察に基づき、コミットメントという利他的契機―さしあって定言命法の形を取るか、取らないかは問題でない―は「規範」に随伴する現象であると見なす。〕コミットメントの例としてしばしば挙げられるのは次のような例である。
 少年Aが少年Bに二つのリンゴのうち、一つを自由に選択させ、Bが大きい方を取ったときAが「もし自分なら小さい方を取っただろう」と不満を述べるときAはコミットメントに依拠している。〔利他的「規範」の傾きを持つ故に、「正当」に算入する。〕
 というのも:小さい方を取ったというAの選択肢は、期待される「大きい方を取る」もう一つの仮想的な選択肢よりも期待される効用が低い。Aの選択は〔センの言う〕「共感」ではなく、コミットメントの仮定の下で取られたものとしよう。そのように「小さい方」をAが実際に選択することは「共感」に基づいて「小さい方」を選択することとは違う。
2-2歴史主義的アプローチ:ヴェーバー、マルクス 
 ヴェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、資本主義に固有の経済倫理(「世俗内的禁欲」)
 マルクスは『資本論』第1巻24章で「いわゆる本源的蓄積」について論じている。そのなかで資本主義的生産様式が確立するためには一つの規範=労働倫理が、土地を奪われルンペン・プロレタリアート化した農民のうちに、暴力的に教え込まれなければならなかったことを指摘する。「血の立法」をつうじて人々に教え込まれ、「肉体化」されねばならなかった経済倫理=「自己強制のパターン」は、第一に「時間を守ること」であり、第二に資本家・工場主の指揮にしたがって定められた労働をすることである。
 (1)「原蓄」は資本主義的再生産を始動させるのに不可欠な歴史的起点と考えられたが、そのなかに不可欠な要素として資本主義的生産様式に固有な「規範」=経済倫理というイデオロギー的要素が含まれている。 
 (2)この規範が自利を起点として自主的には成立しなかったということ。
ethics8.pdf へのリンク

 
9.他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか。[→教科書一一章]  
[授業目標]自由主義の原則について理解を深める
  
〔問い〕自由主義の原則を五点、要約せよ。
 一                 。 
 二                 。 
 三                 。 
 四                 。 
 五                 。 
 
リベラリズムの一形態=倫理を法律に則したものと考える見方=法習主義
 
 
最低限の規則を決めるのが自由主義」:先に述べたように、自由なゲームでは、囚人のジレンマのように、法的な、もしくは制度的デザインがなければ協力が成り立ちにくいのです。そこから、制度が社会的秩序を形成するという考察に、導かれました。これが近代的な社会の原理であったわけです。制度を組み立てるさい、法律をベースにする考え方を法習主義と言います。
 
※コラム ポストモダニズムの法習主義。 読んでおいてください。ポストモダンの社会において、権力が中枢だけに存在するわけではなく、多様なところに力が分散しています。その中にあって法というものは、権力による強制を伴う、抑圧的なものです。たとえ法が最小限の規則を決めるとしても、そしてまた、どんなにリベラルに振る舞うとしても、――もし社会が本来的に流動的なものであるべきならば、――抑圧的・固定的な「法」の拘束から相対的に解放さなくてはならないでしょう。倫理学において重要なのは、最小限の規則としての法であると言いましたが、一定の留保が必要となってきます。そして個々の状況に対応した、しなやかさが社会において要求されるでしょう。つまり多様な声を積極的に汲み上げていくことも、社会的に要請されるわけです。
 このように、規制の「しなやかさ」が必要なのに、法はあくまで原理主義をでません。ですから、正義は法に対する懐疑意識と、倫理規範とに、対応していかなければなりません。そうした正義にとって求められているのは、法秩序そのものを内から超えていくルールです。そこにあって、主体はルールに違反した場合、制裁に対して自由になり、しかも偶発性、文脈性、分散化という性格をもった自発的な存在となるはずです。
 こうしてポストモダンの言説は、「原理主義に満足することなく、様々な生活の局面に応じた規範を優先すべきである」と考えられます。つまり特殊な義務に従うことが、一般の義務にしたがうことと、衝突する場合、法原理主義では解決することはできない、というわけです。
 
①「判断力のある大人」 
〔資料〕J・S・ミル著、塩尻公明・木村健康訳、1971、『自由論』岩波文庫、25ページ
 この説は、言うまでもなく、能力の成熟している人にだけ適用するつもりである。小児のことを述べているのではなく、また、男女の成年として法律で定められている年齢よりも下にある若い人々のことを述べているのでもない。また他の人々の世話を受ける必要のある状態にある人々は、外からの危害に対して保護されなくてはならないと同様に、彼ら自身の行動に対しても保護されなければならない。
 
 
 子どもは自己決定権のない保護の対象から自己決定権のある自立した人格に転換する。
 ジリック裁判:イギリスで法廷で争われた事件。医師が親の承諾なしに十六歳未満の少女にピルを処方する場合もあるということをお役所が認めたのに対して、ジリック夫人が「親の承諾が必要だ」と異を唱えた事件。
 ①十六歳未満の者との性行為そのものが違法なのだから、その可能性を予測してピルを処方することは、違法な性行為に加担することになる。 
 ②親に知らせないで、親権の適用範囲にかんする事柄の決定を医師が下すなら、親権を侵害することになる。
 ジリック夫人は敗北。子どもの判断能力の有無は、ケース・バイ・ケースで医師が判断する。判断能力の有無については、年齢によって画一的に決めるというやり方から、個別事実について判定を下すという方向に向かっているのが趨勢。
 cf.高齢者で、判断能力について疑義が生ずるような人についても、高齢者後見人制度が導入されてきているから、この傾向は強まっている。
〔問い〕医学などで未成年者など判断能力のない人間に代わって、他人の決定に介入する立場のことを、何と言うか答えなさい。       答え             。 
日本語に直訳すると何か答えなさい。        答え             。  
:約めて言えばおせっかいです。※補足:…いっぱんにパターナリズムには、狭義のそれと、広義のそれとがあります。強い意味のそれは、判断能力が十分である人間について、被介入者の完全に任意な選択・行動にも介入することを認め、弱い意味のそれは、判断能力が十分でない人間について、被介入者の不任意な選択・行動にのみ介入を認めるものです。後者は特に「ベネフィシエンス(徳行)にもとづく介入」と呼ばれ、こちらのみが、刑法においては原則として認められます。
これと関連する社会的事件(徳行を逸脱してしまったものの例)を挙げなさい。                                   。  
 
  
② 「自分の生命、身体、財産にかんして」:この条件について言えば、「私のもの」をどの範囲まで設定していいのか、という問題があります。「所有するもの」と「所有されるもの」との区別が、実在的な区別ではなくなっている。私が私の身体を所有するなら、私の外部にある私の存在を前提していることになる。――私の身体の所有については、微妙な論点が含まれています。〈私〉が私の身体を所有すると言った場合、そこには暗に身体とは、別の〈私〉が存在することが想定されています。しかし、私の身体の外に〈私〉が存在するでしょうか。およそ身体は、捨て去ることのできないものです。なぜなら身体なき〈私〉という概念は無意味だからです。したがって〈私〉が身体を所有しているわけではない、という洞察に導かれます。同様に「私が私の生命を所有する」にしてみても、「まるで私が……を所有するみたいに想定してもさしつかえない」という、見なしの暗黙合意があるだけにすぎない
③ 「他者危害の原則」:これは「他人に危害を及ぼさない限り」という条件の形で定式化されます。
例を挙げよ。              。
※補足:功利主義は、内心の個人道徳を尊重する自由主義的立場であって、イギリスの経験主義哲学者J・S・ミルの説いた侵害原理(他者侵害なければ刑罰なし)を刑法による介入の基礎に据えています。法益保護説の立場からしますと、刑法による介入の根拠は侵害原理に求められることになります。刑法がその目的達成のための手段としている刑罰にきわめて重大な反作用・副作用があることを考えますと、刑法による倫理の強制については、謙抑(けんよく)的でなければなりません。刑法は、道徳や刑法以外の法(例えば民法や行政法)など他の社会統制手段では法益保護できないときに初めて、「最後の手段」(ultima ratio)として、介入することになります。このような考え方を刑法の謙抑性(補充性)と呼んでいます。[→三井誠・曽根威彦・瀬川晃編、2000、『入門 刑事法』有斐閣、22ページからの引用]

〔資料〕J・S・ミル著、塩尻公明・木村健康訳、1971、『自由論』岩波文庫、152ページ。
 社会がしてもよいことは、これだけには止まらない。或る個人の行為が、他人の有する法定の権利を侵害するという程度にはいたらないにしても、それが他の人々にとって有害であり、あるいは他人の幸福に対する当然な配慮を欠いている、という場合はありうる。このような場合には、その反則者を法律によって処罰することは正当でないとしても、世論によって処罰することは正当であろう。
 
  
 人間の悪事には三種類。他者への危害、他者への迷惑、自己への危害(不潔、不摂生、暴飲暴食、危険なスポーツの愛好、怠惰、浪費)。刑罰の対象になるのは、他者への危害だけ。他者危害の原則は、厳密には存在しないアトム・モデルに依存している。だから、他者危害の原則に従って自由を認められる行為は、厳密に言えばありえない。それなのに人格と行為のアトミズムという想定によって、自由主義の原則が組み立てられ、そのもとで「自由な行為」が存在を認められている。  
  
〔問い〕「人の自由を奪う自由」も尊重されるべきでしょうか。考えるところを書きなさい。(質問)
  
④ 第四に愚行権。馬鹿げたことをする権利が人間にはある。例えば、宗教上の理由で輸血を拒否する、タバコを吸う、命がけの危険なスポーツをする、仮装して歩行者天国で踊る、大きな建造物を梱包してみせるetc.教科書ではこの問題に関連して、「たとえその決定が当人にとって不利益なことでも」という愚行を行なう権利に言及しています。
 なぜ愚行が認められるかと言えば、いくつかの理由があります。

(1)自己関心という理由
〔資料〕J・S・ミル著、塩尻公明・木村健康訳、1971、『自由論』岩波文庫、154ページ。
 自己への最大の関心をもつのは自己である。いかなる人も、またいかに多数の人々も、すでに成年に達している他の人間に向かって、「貴方の利益のために貴方が自分で処置しようと欲しているように貴方の生活を処置してはならない」と言う権利はもっていない。その人こそ、彼じしんの幸福に最大の関心をもっている人なのである。深い個人的愛着で結ばれている場合は別として、他人が彼の幸福に対して抱きうる関心は、彼じしんが抱く関心に比較すれば、取るに足りないものである。
「自己への最大の関心を自己がもっている」だけではなぜ正当化されないか。レトリックという言葉を使って説明せよ。                。
(2)自己理解が最大  
(3)誤った干渉の危険  
〔資料〕J・S・ミル著、塩尻公明・木村健康訳、1971、『自由論』岩波文庫、154ページ。
 彼じしんのみに関係のある事柄について、彼の判断と目的とを破棄させようとする社会の干渉は、一般的な推定を根拠としているに相違ない。だがこのような一般的な推定は、全然誤った推定であるかもしれないし、また、たとえ正しいとしても、個々の場合にこれを適用するにあたって、その場合の事情にかんして単に外から傍観している者と同じくらいの知識しかもたない人々によって、誤って適用される場合があることもあろうし、ないこともあろう。
〔問い〕空所を補充せよ。
こうした愚行が認められる理由。自己について最もよく理解する者が、もっともよく判断するという前提が働いています。ここから誤った   をするのは危険だ、という愚行権の根拠が出てきます。ただしこれは一面の真実に過ぎません。自分とは自分自身についてもっともよく知らない存在だからこそ             と言われるわけです。
 パターナリズムの妥当性は、或る程度否定し切れません。このことは自由主義の限界を、示していると言えるでしょう。
(4)個性と自発性の尊重  
 
⑤「自己決定の権限」:干渉が有効だと思われる場合でも、その弊害を避けるために、あえて干渉しない方がよいという判断を要求する。ミルが実際に危険視していたのは、政府による政治的干渉だけではなくて、大衆の宗教的な狂信にもとづく個人主義者への不寛容であった。 
〔資料〕J・S・ミル著、塩尻公明・木村健康訳、1971、『自由論』岩波文庫、154ページ。
 ここに指摘した害悪は、ただ理論の上だけで存在している害悪ではない。それで、恐らく、現代の我が国の公衆が自己の好みに不当にも道徳的法則の性格を帯びさせている実例を、細かくあげることが期待されるかもしれない。……また、道徳警察とでも呼ぶべきものの権限を拡張していって、ついには個人の疑う余地のない合法的自由までも侵害するほどになるということが、人間のあらゆる性癖のなかで最も普遍的なものの一つであるということを、豊富な実例によって明らかにすることはむずかしいことではない。
 
 20世紀末から、自由主義に対して共同体主義の批判がある。自由主義は人間をアトム的な個体と見なしている。これに対して共同体主義は、人間をいつもどこかの共同体に帰属するものと見なしている。代表的共同体主義者の一人、サンデルは、個人には、家族、共同体、社会関係が刻印されており、「負荷のない自己」というアトミズムの個人観は幻影にすぎないと言う。共同体主義者は、価値を社会的なもの、共同体に基礎を置いたものとして考える。あらゆる価値が個人の経験する快楽や、個人の選好の充足にあるとは考えない。これに対して自由主義者にとっては、自由を守ることが、正義であり、国家の存在理由なのである。
 自由には、悪の許容という要素がある。他人に危害や迷惑をかけないなら何をしてもいいというのが、自由主義の中心にある考え方である。ここには積極的に何をすべきかということに、一言も触れまいとする覚悟がある。立法の原理と個人倫理がともに「自由の承認」をめざし、それによって社会的に許容された無数の自由な行為が富をもたらす。それ以外には何もない。
 共同体主義者によれば、自由主義は不毛に終わったが、共同体主義の主張である徳の倫理学は未来に富んでいる、とされる。ただし、個人の自由を共同体的な価値として認めるという立場の共同体主義者も多い。したがって、自由主義を実際に運用するときのさまざま問題点を、共同体主義者が解決したとは言えない。私たちは、場合によっては、さまざまな欠点をさらけ出す自由主義を、なんとか使いこなしてゆかなくてはならない。
 
 
10.二重効果のジレンマ。貴方がやむを得ず人を轢き殺した時の罪。[→教科書第一二章]
[授業目標]緊急避難を功利主義的に考察する
 
 デートに遅刻してニッチもサッチもいかない状況を招くより、見捨てられたけが人が死亡する方が大なる不幸です。「より大なる不幸」を避けるため、「より小なる不幸」を代わりに引き受ける、という考えもあり得ます。「自分はこれから女友達と楽しいときを過ごす予定だ。もし一時間、私が遅刻したら彼女は私が彼女を捨てたと誤解して、私を恨み泣くだろう。しかし。道ばたで倒れている人を見捨てるわけにはいかない。彼女には後で事情を説明することにして、今は救急車を呼びに行こう」。
 功利主義の考え方に従えば、行為はその惹き起こす結果のなかの幸福を最大にし、不幸を最小にするように選ばれなければならない。なぜなら「よいもの」は、「快楽」もしくは「幸福」だからである。
 もう一つの考えとして、「二重効果」の議論があります。「自分は〈けが人を救う〉とき、「自分は〈けが人を救う〉という動機(行為の原因)に従ったのであって、その行為の二重の結果として、彼女との約束に遅れてしまうが、そのことには責任をとらなくてよい」というものです。
 一つの行為が二重の結果を生み出すとき、本当の動機に従って責任は成り立ち、副次的結果に対しては責任を負わないという考え方。行為者は意図した結果について責任を負うが、意図しなかった第二の結果に対しては、責任が問われない。 
【問題意識共有メモ】
 もし「二重効果」論がそのまま正しいとすれば、海水に有機水銀を廃棄した企業は水銀の廃棄を意図したのみで、住民が神経性疾患になることを意図していなかったことになります。スターリンは真の共産主義に至るための、社会主義国家建設を意図したのであって、無実の人を殺害する意図はなかったとなります。広島の原爆の投下を命じたトルーマンは戦争終結を意図したのであって、非戦闘員の殺害を意図したわけではないことになります。
 
注意 以前にある医師が、瀕死の末期患者を5人担当していて、そこに健康な人が1人訪れたとき、この1人を麻酔にかけて臓器を取り出し、1人の命と引き換えに5人を救ったことを取りあげました。この医師の行動は殺人罪であり、正当化されないことはすでに見たとおり。
では「二重効果」論だけによって、次の運転士の決断は正当化されるでしょうか。[→三浦俊彦、2002、『論理パラドクス』二見書房、172-184ページ。]https://www.youtube.com/watch?v=2h5H4E6KR1w
ブレーキ故障のために暴走した列車が、路線上の5人の作業員を今まさに轢こうとしています。5人は全く列車に気づいておらず、もう退避は不可能であるとしましょう。運転士は、脇の引込み線に曲がることを決意しました。そちらには1人の作業員がいるのが見えましたが、運転士は5人を救うため、あえて引込み線に突っ込み、1人を轢き殺しました。運転士が正しいことをしたと多くの人は認めるでしょう。では医者と運転士の違いの根拠は?
解答例1:「医師の場合は、病気の人間5人と健康な人間1人の比較でした。それに対し、運転手の場合は、みな健康人で、平等な条件の5人対1人の比較であるところに決定的な違いがあるのではないでしょうか。病人のために健康な1人の命を犠牲にすることなど許されないことです」。例えば引込み線にスイッチを変えたとたん、5人が被ばくして白血病にかかるとか?
〔問い〕解答例1に対して反論を行え。〔以下の文章は読んでおいて下さい。〕
解答例2:「医師の場合はメスを持って直接手を下す。それに対して、運転士の場合は電車にぶつかるという間接的な殺し方です。つまり被害者への近接度というか、殺し方の残虐度が異なっている。そこが違うのです」。
反論:残虐性ということでいうなら、熟達したメスの技術によって丁寧に身体を切り開いてから縫い合わせる医師の行為の方が、線路脇に跳ね飛ばす運転士の行為よりも、被害者の身体をずっと尊重しているとも言えましょう。電車に轢き殺された死体は、ぐしゃぐしゃに飛び散って、ちゃんと埋葬するのすら大変でしょう。つまり「殺し方」は関係ないのです。
解答例3:「なぜ責任が違ってくると言えば、両者の職業の違いに負うところが大きい。医師は患者の命に責任を持っており、運転士には問われない責任が問われるのです」。※注意:一般の罪以外に、医師が臓器移植する健康人と、治療契約を結んでいるなら、職業柄、固有の罪が生じます。
〔問い〕解答例3に対して反論を行え。
解答例4:「医師には熟慮する時間があって、だから意図的な殺人と認められるわけです。運転士の方は、ほんの何秒かのあいだに咄嗟の判断が迫られていたのであり、1人を殺すという行為は熟慮の結果ではありません。だから、情状酌量の余地があるのです」。
反論:仮に鉄道会社が、あるいは運転士個人が、普段からこのような事故を想定して、「人数の少ない方を犠牲にすべく緊急避難措置を取る」「5人を殺すぐらいなら1人を犠牲にせよ」という、マニュアルを作成していたとします。運転手の措置は、医師の場合に劣らず熟慮の結果の行為であって、妥当な判断であることに変わりはありません。
解答例5:「医師は、はじめに1人の身体を切ってから、その臓器を5人に分配する。つまり、1人を殺してから5人を救うのです。それに対し運転士は列車を脇道にそらしてから、つまり5人を避けてから、1人を轢き殺しているのです。ここには殺してから救うと、救ってから殺す、という時間順序の違いにあります」。
〔反論〕
 
 医者の場合と同じく、1人が死んでから5人が助かるケースを仮想することもできる【反証例を考えてみよう】。
 
解答例6:「運転士の場合厳密な二者択一で、1人を死なせることにより、5人を必ず助けることができます。医師は、1人を助けたからといって、5人を救えるとは限りません。ですから、1人を殺すことに運転士ほどの正当性はないのです」。
反論:仮に先の例5の【反証例】で、高圧電流スイッチと転轍機が連動している場合、電流スイッチを入れた後に、まだ切り替えのための操作Sが残っているとします。1人はすでに感電死したけれども、運転士はこの操作Sを放棄して引込み線へと曲がらず、5人を轢き殺すこともありえましょう。つまり択一的ではないのです。
ようやく、正しい答えにたどり着きます。
解答例7: 「5人を救うという医師の行為にとって、1人に死んでもらうことは、どうしても必要でしょう。つまり、医師の意図を実現するには、1人の殺害が本質的に含まれる必要があるのです。運転士の場合は、5人を救うという意図の実現のためには、1人に死んでもらわなくてもかまいません。たまたま1人がそこにいたから、殺しただけです。1人の殺害が、救出行為のための必須の手段なのか(医師)、偶然的附随事態なのか(運転士)の違いであるという説明もできます」。
 
補足: 運転士は電車を1人へと向かって走らせながら、「この引込み線上に、あの1人がいなければいいのに!」「あの1人が幻覚であれば良いのに!」と願うことができます。それに対して、医師の方は、1人の腹を切りながら、「この1人がいなければなあ!」とか「この1人の存在が幻覚であってくれ!」と願うことはできません。もしそう願うのなら、自分の行為そのものを否定することになり、矛盾に陥ります。つまり医師の行為そのものが客観的に、同じ行為であるためには、1人の死を必要としているのです。
裏返せば医師の行為は、まったく別の行為にならない限り、理想的な行為となりません。運転士の行為は、行為は同一のままでも環境の方にほんのわずかの変化があれば、理想的な行為となります。行為の同一性を保ったまま、別の可能な世界においてなら、運転士は誰も殺していないかもしれません。しかし、医師にとっては、そのような可能な世界は存在しません。
ひょっとしたらこれに対して、医師の行為でも犠牲になった患者の臓器が再生すれば、理想的な行為を実現できると強弁する人がいるかもしれません。しかしながら、医師の願いがかなえられる世界、つまり犠牲になった患者の臓器がニョキニョキ再生して、生き返るというのは、現実世界の生物学的法則から逸脱しています。
それに対して運転士の願いがかなえられる可能な世界は幻覚を見たり、作業現場にその1人が遅刻したりする類のことであり、現実にもありふれており、類似度から見た場合、その可能な世界は現実世界にたいへん近いと言えます。医師の場合は、よほど遠い可能な世界にまで行かなければ、願いが叶えられないのですから、その願いはそれだけ非現実的です。つまり医師には、いったん執刀・開腹・臓器移植をしたという傷害行為を取り消せません。「傷つける」ことが、医師の行為が同一であるためには必要なのです。よって、医師の行為には「傷害行為」が必然的に含まれているのです。
自分で今までの話を再構成してください。
 
〔補足〕① 山奥の診療所に事故に遭った人が6人運ばれてきた。みな瀕死の重症で、今夜中に適切な処置をしないと間違いなく死ぬ。6人のうち5人は似たような負傷で、一つの装置Aを使うことでいっぺんに治療することができる。残りの1人は全く異なる部位の負傷なので、別の装置Bで治療しなければならない。ところが医師は1人しかおらず、AとBを同時に操作することは不可能だ。応援も頼めない。さて、医師はどうしたらよいか。もちろん1人を助けている間に応援を呼んで来るというのは、なしとする。
 ② ある医師が、瀕死の末期癌患者を5人担当している。そこへ健康診断のために一人の患者が訪れた。この一人の患者の健康な臓器を5人に分配すれば、5人は助かる。医師はその一人に麻酔をかけて臓器を取り出し、一人の命と引き換えに5人を救った。
 前問で見たとおり、5人の命の方が一人の命より大切であることは当然である。では、医師は正しいことをしたのだろうか。多くの人が正しくないと感じるはずだ。では、なぜ正しくないのか。なぜ①と違う結論になったのか?
  
 

◆補足・
 カルネアデスの舟板の場合、もし二人が板につかまって、双方ゆずらないとしたら、両方とも溺死する。それに対して、一人が他の一人を突き落とせば、少なくとも一人は助かる。功利主義的に考えると、前者は0人救助、後者は1人救助。したがって他の一人を犠牲にした方が、最大多数の最大幸福を得られる。

①違法性阻却説 刑法と道徳を峻別して考える立場の人。功利主義の立場。「刑法としては、できればA・B2人の命を救いたいのであるが、それができない状況にある以上、せめて2人とも犠牲となる事態だけは避けなければならず、そのためには少なくともどちらか1人だけが生き残る途を模索しなければならない。そして、生命の間に価値の序列がつけれられない以上、法としてはAが助かろうとBが助かろうとどちらでもよいわけで、Aの行為は法を容認する事態、つまり適法行為となる」。[→三井誠・曽根威彦・瀬川晃、2000、『入門刑事法』有斐閣、20ページ。]
②責任阻却説 刑法を道徳に近づけて考える立場の人。モラリスティックな立場。「Aの行為は何ら落ち度のない第三者Bの正当な利益(この場合は生命)を侵害するからやはり違法であるが、板をBに渡してみすからは身を引くという適法な態度を期待することができない以上、現実にAの取った態度を法的には非難できない」(同箇所)。
 緊急避難は、現在の危難を避けるため、危難とは関係のない第三者の正当な利益を侵害するという「正 対 正」の関係にある。緊急避難が成立するためには、「現在の危難」が存在しなければならない。「現在」とは、差し迫った現在の意味であり、過去および将来の危難に対しては、緊急避難は認められていない。このさい「危難」はその正・不正を問わないと考えられている。また緊急避難は、自己または他人の生命・身体・自由・財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為であることが必要である。刑法37条は、緊急避難について保全することができる法益を列挙しているが、通説は、貞操や名誉もこの中に含まれる。さらに避難行為が必要最小限度のものでなければならず、それ以外にとるべき方法がないことが要求される(補充性の原則)。
 
◆功利主義への挑戦・ジムのケース
 探検の途中で軍隊が原住民20人を射殺しようとしている場面に遭遇したジムは、司令官から「あなたがこのうちの1人を射殺するなら、残りの19人は解放しよう」という申し出を受ける。この場合ジムはどうすべきかという仮想ケースを設定して、結果の最善を求める功利主義からすればその申し出を受け入れてしまうことになるとして、ウィリアムズは批判した。
 これに対する功利主義者の反論。功利主義者は、功利原理に理想としてコミットしている。したがって、ジムの場合、指令官の「申し出」に応じないことの方が「統合性」「アイデンティティ」の喪失となる。これに対しては、そこで前提になっている自己は、抽象的で「薄い」ものではないか、貧しいものではないかという批判がありうる。ひょっとすると、ジムが1人を殺すことは、人間として「賞賛すべき不道徳性」=道徳性に対して、より善い人間性を示しているのかもしれない。
〔資料〕P.Pettit,1997,"The Consequential Perspective",in:Baron,M.W./Pettit,P./Slote,M.,Three Methods of Ethics,Blackwell,p.126.
 或る平和主義者達は、どの国にとっても最も重要なのは、平和を促進するためにできることのすべてをすることである、と語っている。バートランド・ラッセルはこの態度の好適な事例であった。彼のこの態度は、第一次大戦におけるイギリスの参戦に反対せしめた[……]。しかしその態度は[……]第二次大戦におけるイギリスの参戦には賛成せしめた。彼の態度は、平和を愛することは[……]平和の促進が求めるところのすべてをすることを意味していた。そして、そのことは、平和をもたらすこと(the cause)に対して何も為さない戦争を避けることを意味していたが、[……]同時に、長期にわたる平和の見込みに本当に必要だと思える戦争の場合は、――気がすすまなくても――それを遂行することを含んでいる。
 他の平和主義者達はこれとは別の見解を採っている。第一次大戦時にラッセルと共に[戦争反対の理由で]拘束された多くのクエーカー教徒達は、彼が第二次大戦に手ぬかりなく、力添えしたことにショックを受けた。彼らも、第二次大戦におけるイギリス参戦は、世界の平和にとって渡りに船であろう、参戦しなければ対抗勢力をもたないヒトラーが暴れ回る[すなわち平和を破壊する]であろう、とけだし考えたにちがいない。だが彼らは、平和を愛する国は、平和を体現(instantiate)べきであって、必ずしも平和を促進すべきではない、という見解を採った。

 
11.功利主義への批判(1) 厚生経済学における非帰結主義
[授業目標]認知科学と拡張された選択肢
 
「拡張された選択肢」:相互に排他的で、結合すれば網羅的となる帰結xの全体集合をX(X∋x,y,z, ……, n(X)をXの要素の数とすると、3≦n(X)<∞)と、Xの非空な有限部分集合全体の集合族をKとする。Kの要素はA,B,C,……によって表わされて、それぞれ機会集合と呼ばれる。ここでXとKの直積X×Kの要素(たとえばx∈Aで直積(x,A))は「拡張された選択肢」と呼ばれる(鈴村興太郎、2009、『厚生経済学の基礎』岩波書店、310-311ページ)。このとき、「拡張された選択肢」(x,A)に「Aからxを選ぶ」という解釈を与える。
 これらの道具立てで、たとえば、(x,A) (x∈A)と (x,B) (x∈B)を比較してみよう。帰結主義者は共通の帰結xを実現したいとき、「Aからxを選ぶ」と「Bからxを選ぶ」のどちらを選ぶだろうか。ひとつには親近性に固執するなら、価値体系に準拠して、A,Bという機会集合と関係なく、両者を無差別に扱うという答えがある。これはつまり、「A からxを選ぶ」ことと、「Bから xを選ぶ」こととのあいだの選好に、差異が生じないという見方である(極端な帰結主義,鈴村興太郎、同書、313ページ、定義4.1)。意思決定の状況がリスク下にある場合とちがって、機会集合を選ぶさい、確実性下「選択肢を選んだことによる結果が確実に決まってくるような状況」では、「拡張された選択肢」が両立することが往々にしてある。たとえばA店でもB店でも確実にカレーを食べられると分かっており、いつもの選好に忠実であるなら、いずれでもカレーを食べることになる。

 上にややこしいことが書いてあるが、選択をするさい重要なのは、xつまり選択する帰結と、Aつまりxを選んでくるメニューのバライエティ―さである。
 xのみで選ぶ人は帰結主義者であり、Aの自由度を考慮する人は非帰結主義者である。自由度と言うと価値がかかわってくるので、それを単純にあつかうため、機会集合における選択肢の多寡を指標にとる。
 「非帰結主義者」はいま、食事をとろうとしている。二つの料理店があって、何がメニューに載っているか知らないけれども、A店の方がB店よりもメニューが多いこと(n(A)>n(B))を知っている。そのとき彼女/彼は「拡張された選択肢」(x,A)(x∈A)を(y,B)(y∈B)より厳密に選好するとする(極端な非帰結主義2,鈴村興太郎、同書、319ページ,定義5.2)。このたぐいの人を以下では「厚生経済学の非帰結主義者non-consequentialist」と呼び、[N-C]と略す。けだし機会集合が豊富なほど、新奇性が満たされるからである。
 また、ハイキングコースで山頂まで登る経路が多い方が、思いもかけぬ景観を楽しむことができるのではないか、と考えて、そちらを選好する行為者は、非帰結主義者である。非帰結主義者のポイントとして、①帰結以外の価値を扱う(簡略化のために豊富さを指標にしているに過ぎない) ②価値は直接的なメリットを保証するものではなく、探索的要素が大きい。
・・・脱線:ゲームのプログラミングで好奇心を要素として加えると達成度が高くなるのと、関係しているであろう。

 下條信輔によれば選好は、新奇性と親近性に大きく左右されると言う。また顕在的情動が新奇性にかかわるのに対し、潜在的情動が親近性にかかわると言う。これは新奇性感応的な顕在的情動と、親近性感応的な潜在的情動(後者は述定的な価値体系と顕著に寄り添うことになる)とに分岐するわけである。下條信輔からの引用をもって語らしめる。
 「さて、音楽のような聴覚刺激の場合、赤ちゃんの視覚やクロスモダル(感覚間)の場合、おとなの視覚の場合と、いろいろ見てきました。共通しているのは、古い覚えのある刺激の方が魅力的になるという主張(親近性原理と呼びましょう)と、新しい刺激の方が魅力的という主張(新奇性原理)とが、両方あるということです。言うまでもなくこの両者は論理的な意味ではもろに対立しているのに、です。
 このようにあからさまな矛盾があるのに、それを解こうとする研究者が現われないのは不思議です。現われないのではなく、現在の水準からするとまだ手のつけようのない問題なのだということかもしれません。……考えてみれば知覚の機能はもともと、感覚入力の規則的なパターンを記憶し、その記憶に基づいて次を予測する機能です。しかしそれは一面にすぎず、半面では他とは異なる目立つものやなじみのないもの、変化などを検出する機能でもあります。これらはどちらも生存や繁殖のために有利なはずです」(下條信輔、2008、『サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現代』ちくま新書、89-90ページ)。
ちょっと厚生経済学に興味がある人は以下を読むこと。
この論点を補足する、いくつかの前提に触れよう。グラヴェルは、ある帰結をaとする行為の選択肢の集合{a}からaを選ぶより行為の選択肢の集合Aからa(∈A)を選ぶ、したがって Aの方が、選択肢の多さを「享け」(enjoy)られると論じた。同様にABのとき、「Aからxを選ぶ」方が「Bから yを選ぶ」よりは乏しくない「自由」があると考える(Gravel,N.,1994,”Can a Ranking of Opportunity Sets Attach an Intrinsic Importance to Freedom of Choice?”,American Economic Review:Papers Proceedings,Vol.84,p.455.)。そして「自由」度に対応した選好を公理化している(Gravel,N.,op.cit.p.456)。つまり、ABのとき、「Aからxを選ぶ」方を「Bから yを選ぶ」より厳密に選好する、と。なおゴティエ前掲書では以下のごとき単調性の説明が見られる(デイヴィド・ゴティエ著,小林公訳,1986,『合意による道徳』木鐸社、59ページ)。
「いま二つのくじXとYがあり、両者がただ一点でのみ異なっている場合を考えてみよう。すなわちXにおける景品(ないし諸結果)のうち一つのPが、Yにおいては別の景品Q(もちろんQの蓋然性はPのそれと同一とする)で置き換えられているとする。単調性は、もしQがPより選好されているならYがXより選好されていることを要求する」。
そのさい帰結PとQとの蓋然性の等しさを無視し、単に「多様性というべきもの?」にのみ注目すると、以下の鈴村興太郎、同書、324ページ」の単調性の定義となる。
[単調性Monotonicity]機会集合についてABのとき、「Bから yを選ぶ」より「Aからxを選ぶ」方が行為者により選好されると公理として定義する。
ここで鈴村興太郎、同書、325ページ等にしたがって、帰結主義・「非帰結主義」の〈理想型〉(Idealtypus)をかたちづくる、いくつかの公理の名称を列挙しておきたい。
まず、いま挙げた単調性の代わりに、(独立性(IND)と単純な無差別性(SI)をベースにして)局所的な無差別性(LI)をとる公理選択の道もある。それをとるとき導き出される極端な帰結主義とは別の方途として、公理に(同じく独立性と単純な無差別性とともに)、〔局所的に厳密な〕単調性(LSM)と、選択のない状況の無差別性(INS)――(x,{x})、(y,{y})のように、ひとつの選択肢のみを含む機会集合から、二つの拡張された選択肢のいずれかを選ぶ状況に直面したとき、所詮、選択の自由を与えられていないのだから、行為者はこれらの選択状況で無差別の選好を示すという公理――とを置くとき、前掲した「厚生経済学の非帰結主義者」[N-C]の〈理想型〉が導き出されるといわれる。ここでは詳論する余裕はないので、[N-C]がABのときにとどまらず、n(A)>n(B)のとき(x,A)を(y,B)より厳密に選好する定義を議論の出発点として一応、認めておこう。
 たとえば以下のごとき例が、[N-C]による多選択肢からの選好を例証している。ウィリアムズは帰結主義を批判して、――就職すれば兵器開発に関与するので――化学生物兵器研究所に就職することを回避する、仮想主人公ジョージの「非帰結主義的」選択を挙げている。そんな彼に以下のように説く先輩化学者(センは後の引用で彼をハリーと呼んでいる)がいるかもしれない。
 「私なら、その問題をさほど気にかけていたわけではないが、それについていえば、ジョージが結局拒んだところで、研究職はなくならないのだし、研究所が姿を消すわけでもないのだから。なおいっそう重要なこととして、たまたま知っているところでは、ジョージが就職を拒否したとしても、良心がとがめてやましいと感じない同輩のところに職が回るだろうということだ、そうした人が採用されたら、ジョージより熱心に研究を邁進させるだろう」(Williams, B.A.O.,1973,"A Critique of Utilitarianism", in:. J.J.C Smart,and B.Williams (eds.),Utilitarianism For & Against, Cambridge: Cambridge University Press,pp.75-150.Bibliography,pp.97-98)。[W]の例。
 にもかかわらず就職を拒否するジョージは「自分の人生そのもの」という限りなく多様な「選択肢の大海」中で、「豊富な機会集合」から選択する[N-C]となろう。彼女/彼がより「豊富な機会集合」を選好することは、「目的合理主義者」が「厚生的-帰結」を獲得するために、「研究所に自ら就職し、開発への消極的に関与すること」を中心にした「貧困な機会集合」(の「拡張された選択肢」)を選好するのと比較すれば首肯されよう。[N-C]にとっては、化学生物兵器研究所に就職せずに反対運動の署名に励むこと/ハンガーストライキをすること/就職活動を延期しながらインターネットで反戦キャンペーンを綴ること/就職してサボタージュすること/場合によっては、積極的に開発に参加することも含めて、「人生という選択肢の大海」中の諸要素が、「豊富な機会集合」となる。ここで合理性は状況を単純化し、機会集合の豊富さを価値的な指針とする。そのかぎりで「非帰結主義者」は、帰結より価値観に意味を見いだしている。
人が非帰結主義をとるのは、以下のような選択肢の間の決定によっているものと考えられる。つまり兵器研究所への就職は、サボタージュによる兵器開発遅延をとおした負傷の軽減のような世界の「厚生的-帰結」(兵器開発遅延という利他への些少の寄与)、就職をえられる自己の幸福(みずからの不遇の改善)、並びに自己の「非厚生的-帰結」への無視(失意の自己価値放棄)とをもたらす。他方、兵器研究所への就職の忌避は、兵器開発に反対をもたらさぬ、世界の「厚生的-帰結」の無視(なおざりにされた些少な利他)、就職できない自己の不幸(価値観尊重に派生する不遇)、自己の価値観を尊重した「非厚生的-帰結」(余りあるみずからの自己価値実現)をもたらす。両選択肢は、その帰結要素を総計できないものの、二者間で選択の自由がある。このさい、社会全体の幸福実現の可能性が少ないのならば、ジョージのように自己価値実現は、意志貫徹をとおして戦争への抵抗のメッセージを発信しうる。その方が戦争という「状況」に抗する連帯の「輪」となりうるのである。 
★「豊富な機会集合」を簡便(法)的に記述すること
 簡便(法)的な効果を参考とすることで、 [N-C]の定式化には見られなかった、以下のごとき理論整備が見とおせる。たとえば先のレストランの例において[N-C]は、メニューの少ない牛丼の吉野家より、泥の皿までずらっとメニューを並べた料理店で、泥の皿を食らう非合理的な選択肢を選ぶことになる。これは[N-C]の欠陥とも見なせる。それに対して本稿の「非帰結主義者」は、「豊富な括り」という簡便(法)的見地を選好の要件とする。いま問題にしている泥の皿を食らうことは逸脱的な例であり、普通の「括り」中には組みこまれにくい。したがって、行為者の選好が比較できるような「括り」を探すのではないか。そして他の帰結(の選択肢)が予期不可能な場合にあっても、機会集合の豊富さに対応した簡便法が行動の指針を与えるのではないか。たとえば「収容所での食事」という限定された「括り」中に、まずいコーリャン料理食、冷や飯等の帰結があるなら、泥の皿を食らうことは、「とんでもない拷問に甘んじる」こととして「サブ機会集合」が括られよう。逆に「豊富な括り」があるとき、たとえば絵画、彫刻、文学、音楽、建築、スポーツの祭典である「初期近代オリンピック競技」のようなとき、泥の皿を食らうことは、「アーチストの実演としてパフォーマンスでやってみる」と「サブ機会集合」が括られよう。そのさい「非帰結主義者」は、後者の「拡張された選択肢」からの(泥の皿を食らう)帰結を選好するだろう。つまり「拡張された選択肢」の選好は、「豊かな括り」と相関的である。
 この「豊富な括り」からの選択は、期待効用に違背する指標を手引きとする。それらは、目的合理性と趣を異にした意思決定に支えられている。つまり、「非帰結主義的」な簡便法は選択肢の枚挙を前提としない限りで、魅力ある選択の一つの指標として役立つ。注意:「豊かな括り」が特異な帰結のみを促すわけではない。未確定領域の倫理問題として扱うべきかもしれない。
ethics11.pdf へのリンク

12. 功利主義への批判(2) 「自己善」と平等主義
[授業目標]自己からいかに離れるべきか 
 人が非帰結主義をとるのは、以下のような選択肢の間の決断によっているものと考えられる。[W]の例なら、兵器研究所への就職は、サボタージュによる兵器開発遅延を通した負傷の軽減のような世界の「厚生的-帰結」、自己の幸福、並びに自己の「非帰結主義的なプラス」への無視とをもたらす。他方、兵器研究所への就職の忌避は、兵器開発に反対にかかる、世界の「厚生的-帰結」の無視、就職できない自己の不幸、自己の価値観の尊重をもたらす(ロールズの「格差原理」のごとき、世界の「非厚生的-帰結」については、いまだ考えがいたっていない)。両選択肢は、その要素を総計できないものの、二者の間で選択の自由に晒される。
 自己定位した非帰結主義の例として、――ソクラテスのごとく自己納得して、――自己を形成・陶冶してゆく(これが先に述べた「自己という「トポス」で考えられる」ことの実質である)、いわゆる「非移転的結果」(Finnis, J.,1983, p.139.)が想定できる。比喩的に言えば、利他的善を語る議論が、自己の価値観に端を発しているのである。
 こうした規定はセンの議論を髣髴させる。幸福(効用)は人の豊かな生を反映しているが、人はそれのみを、評価の尺度とすることはできないだろう(アマルティア・セン、2002、第二章)。われわれは、目標、責任、価値等を形成する人間の能力を尊重すべきである、とセンは言う。ところで利他的価値観でさえ、〈自己というトポス〉で善を追求する主観的合理性の範疇に収めることは可能であると考える。
 これに対し、安彦一恵は、「世界の善」の倫理を「自己善」に正対せしめる。そもそも責任倫理は、彼の言う「世界の善」の倫理と、結果の善し悪しを問う点だけを取りだせば、似ており、重なる部分を追求してゆけるだろう。「世界の善」とは、
 「或る行為が帰結する、その行為以降の世界の全状態の属性である。……功利主義における「動機」性とは、この全般的な「世界」事態の「最善」を目指そうというものである」(安彦一恵、2013、165ページ、下線強調原文)。
 安彦は、この概念を彫琢するにあたり、とくにゴティエに依拠している。例えば、彼は、『合意による道徳』のなかで、「合理的選択理論」、ゲーム理論、バーゲン理論等を駆使し、目的合理性に沿った道徳を考えていた。すなわち目的合理性をお手本とした戦略的合理性が、道徳の基礎とされる。というのも、戦略的合理性は、その理想がたとえ実現されずとも、人びとが共通の知識を前提にする以上、「選択と期待はともに各々の行為者が遂行するかもしれない行為に関し各人が抱く信念に基盤を置かなければならないし、また、これら行為から生じうる結果と、これら可能な結果がもたらす効用にも基礎を置く……」(Gauthier, D.P., 1986, p.60.)由。しかも戦略的なゴティエの契約論は、半透明性という自他の非対称性に配慮しており、帰結主義の範囲内で能う限り、普遍化可能性を追求する工夫がなされている。
 がしかし、安彦はかくのごとき目的合理的倫理への結果が、個人にとって通時的に損となることがあることを認める。そして非合理的だが、頭から「世界の善」を信じた方が、〔功利主義的に〕「トータルには」得になるとする態度に、道徳的要素を見出している。これがゴティエには見られぬ安彦の「追加的修正」である(安彦一恵、2013、68ページ)。このように考えると、一定の自己利益を留保しつつも、協調的信頼のなかに身を置く、という倫理学固有の解釈が可能となる。その解釈では、「総和的に見て、他者たちの状態が最善になる」という理想すら、不要とされる(安彦一恵、2013、160ページ)。ひいては、そのさい自分の責任意識(それは、往々にして充足感という〈帰結〉を生む)さえ、自己から離れるというよう要請からして、不要と見なされなくてはならない。かくて、他者たちの善を指向することで、安彦は「世界の善」を抽出しえた。Sitteという準拠枠を取るなら、「自己善」に対して、当然「世界の善」は価値的に高いだろう。
 
 、「自己価値」に準拠したからと言って、誠実な関係を他者と築ける保証はない。それゆえ安彦が言うように、帰結の点から言えば、個人にとって「賭け」にとどまる(これは2016/12/24の科研費研究会にて加藤泰史氏が指摘された論点(科研費最終報告書参照)でもある)。
 「価値観的に」同形の他者が「論理的には」想像可能であるということである。したがって、「賭け」に共鳴する他者の論理的可能性を示唆するという点で、十分な意味をもちうる。「自己価値」に定位するとしても、その他者へと開かれる可能性を信じるということ、もしくはその可能性を考量することは、他者への倫理的な〈通路〉を排除するものではない。
 そもそも賭けにも似た普遍性を立てると、他人に思量を及ぼしえるのかが疑問である。これに対して、例えばルソーの倫理学説を見てみれば、その特質として、自他の利益を理想化し、あえてその差異を問わない――自己から離れる構造が成り立っている。つまり理想化された自他の可能性のなかで人称の差異を問わないことにより、普遍化が成立している。復唱すれば帰結主義の範囲内で、普遍化可能性を追求するのが「世界の善」である。
 つまり「主義」に固着化することなく、功利性を達人的隣人愛として位置づけることを試みている。もしその途をとるなら、特定性に拘泥する「自己決定」に制約を及ぼせよう。そもそも「イエスの愛は、まさしく「隣人愛」であって、結果的に第三者無視的にその隣人を優先するというところが在る」(安彦一恵)のであった。この非特定性を範として、隣人愛的功利性にアプローチするというのである。
 「非-功利主義ヴァージョンについては、そうした"特定主義"を排して、たとえばイエスの「隣人愛」を一つの優位化したい。それは、目前の者――それが即ち「隣人」である――(のみ)に対する愛であるのだが、しかし誰であれ自分と遭遇してくる者への愛である」(下線強調。安彦一恵,二○一三年,一六○頁)。
 
ここで言われているのは、功利の主義ヴァージョンへの批判である。つまり功利の主義ではなく、功利の態度を推奨しているのである。そうして特定の他者を有意化するものを排し、非特定性に定位する、イエス的隣人愛を高く評価しているのである。安彦の私信から引用すれば、
 「(或る時点で)隣人ではなかったものの抗議・訴えといったもので、行為者の方も、これを場合によっては「想像」によって認知することができる。いわば、そこにもう一人の隣人が出現することになる。そして、そこで、いわば愛が二分されることにもなる。ただし、この(隣人愛の)現実的偏向性の克服は困難であって、そこで道徳が愛を統制するという在り方を主張してもいます。――このようなイメージで考えています」。
 特定的な個人への愛というものが考えられる場合、私の子ども・私の配偶者・私に近しい人……ということになり、エゴイズムへの傾きを否定できないことになる。裏返せば、愛の非特定性は、私に対する関係性を有意化してはならぬ、ということになる。純粋な愛があるとすれば、非特定性に定位しなければならぬ所以である。非特定主義、別言すれば「無差別主義」に焦点を結ぶことによって、カント的普遍主義を非特定主義に置きかえ、理想としてのカント主義を換骨奪胎する可能性を探るべきである。
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13. 功利主義への批判(3) 近代資本主義と宗教
[授業目標]マックスヴェーバーと経済倫理 
 私は折原浩による羽入書『マックス・ヴェーバーの犯罪』(羽入辰郎、2002)批判に共鳴し得ないことをあらかじめ断っておく。羽入辰郎の問題提起を受け、以下のように論じたい。なお学的誠実性という観点から言えば、第一次文献に当たらず、丸山尚士の論考の査閲をしないまま、―もちろん羽入書を二次文献とする旨を明記した上―ジュネーブ聖書の刊行年に言及した九鬼の軽率さ(九鬼一人、2004、48ページ)については自己批判する。
 羽入の資料精査を通じ提起された、フランクリンの理想型に関する議論の妥当性への疑問を、別の角度から再確認する。
https://www.youtube.com/watch?v=V8EzYvyt4JM
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一、橋本による総括の検討
 羽入書の論述において、ヴェーバーは以下の難所を切り抜けるべく苦労したと指摘されている。すなわち、ヴェーバーの論証は、フランクリンが『自伝』における 英訳聖書としては正統的でない “calling”という語によって聖書の句を引用したこと、そして宗教的含意を持たない表現“Geshäft”を足掛かりとしてヴェーバーが宗教改革の父まで遡ろうとしたことから無理が生じたのである、と (「ヴェーバーの論証の持つ問題点」) 。もちろんヴェーバーはその点を自覚しており、補足的な論証を用意していたが、成功していないと羽入は言う。すなわち、かつて宗教的であったBeruf概念が今日の世俗的な意味において初めて現れたのは、「ルターの聖書翻訳においてであった」ということが文献的に検証されていない点からヴェーバーは不十分であるとする。
橋本によれば、これに対する折原による反論は次の五点にまとめられている(以下引用、橋本努、2003/12/03、「ウェーバーは罪を犯したのか――羽入-折原論争の第一ラウンドを読む」『未来』2004年1月号(No.448) 、8-17ページ、Website)。第一に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」全体の論証構造は揺らいでいない。第二にヴェーバーは知的に不誠実な人間ではない。第三にルターはイギリスのプロテスタント諸派に間接的な影響を与えた。第四に羽入の評定、すなわちヴェーバー論証における「コリントⅠ」七・二○の軽重に関するそれは、必ずしも適切でない。第五にヴェーバーはフランクリンの資料を使った資本主義の精神の理想型の構成に成功している。この整理に即して折原の立場を検討して行こう。〔なお羽入書のかなめである第四の論点にコメントする資格はない。〕
 うち第一の論点と第三の論点を結合させると次のような疑念が生じる。折原の第一の論点によると、羽入の論証は、プロテスタンティズムの倫理が「意図せざる結果として、中産階級の勤勉精神や、徹底した利潤追求と簡素な生活に基づく資本蓄積をもたらした」という中心テーゼを揺るがしていないとされる。羽入の批判したヴェーバーの論証箇所は高々補助的なものに過ぎない、と言うのである。羽入が指摘したような「ヴェーバーの論証の問題点」の持つ意味は、たしかに折原の応答によって相対的に薄められたものの、羽入書が文献内在的な値踏みをするよう、問うていることに変わりはない。他方第三の論点として折原は、ルターが英訳聖書に対してすら直接の影響を与えたとヴェーバーは述べていないのだ、とはいえ「ルターの宗教改革事業が、聖書独訳以外の著作その他の活動を経由して、他言語圏の宗教改革者達に影響を与え、後者が自国語聖典を翻訳/改訳するさい、もとより進行途上のルター訳を参照しながらも、それぞれ熟慮の末、聖典の関連各所にBeruf相当語を採用していった、というごく自然な間接の経路」(折原浩、2003、61ページ)を類推できるのだ、と言う。資料から間接的な影響を類推せよという、この要請については、曖昧さが付きまとっており、―プロテスタンティズムが資本主義の精神を促したかという点に関して、羽入が指摘するような問題点がある以上―第一の論点をめぐり、ヴェーバーの因果帰属には然るべき根拠がなかったのではないか、という「裏因果律」(PがQの原因なら、PでなければQでない)に関係した疑問が湧く。
 次に第五の、フランクリンを使った理想型構成に関して羽入が行なった問題提起にも注意しなければならない。第五の論点として折原は、資本主義の精神を「職業観/職業義務観」(折原浩、2003、88ページ)と呼び換え、理想型がフランクリンの人格総体を捉えるものでないことを強調する。
 橋本のこの総括で挙げられた第五の論点を詳しく見てみよう。もし羽入の功績があるとしたなら、「コリントⅠ」七・二○の釈義上の問題(クレーシスをruffと訳しているか否かの問題)を別にして、フランクリンにまつわる理想型への批判 (羽入辰郎、2002、第3章)を表明している点にある、と考えられる。ここで理想型論に解釈の幅が許されるなら、今度は橋本の第二の考察(橋本努、2004/01/20、Website)中、応答可能な論点にのみ言及しておく。
 第一に理想型は「ある一面を鋭く構成すること」に意義がある以上「デフォルメされた抽象絵画のようなもの」である、と橋本は指摘する。しかし、そのような美学的比喩は、ヴェーバーがヴィンデルバント的「個性記述的idiographisch」手続きを審美主義〔つまり芸術に模して「個性記述的」に直観すること〕として見咎めたこと(Rickert, H., 1921,S.ⅹⅸ,1913,S.302-303.) と矛盾する 。ここから理想型とは果たして何であったのかという問題を抽出できる。
 第二に資本主義の精神という理想型がヴェーバー理論を検証するために必要としても、フランクリンの言説に関して、彼の「神の啓示」以外の意義を否定する論拠を羽入が挙げていない、と橋本は指摘する。この第二点はそのまま次の点に直結する。神の啓示に意義を置かない宗教的契機と架橋するために、ヴェーバーの分析概念に多義的な「改釈」を与えることで解決の途を探るのが、橋本の第三の論点である。ヴェーバー自身の議論は、こうした契機を「功利的な傾向」であると同時に「反功利的な傾向」として捉える難点を抱え込んでいると言う橋本が、代替案とするのは、次の三つの功利主義の区別である。すなわち(1)善悪の行為の外観を重視して、有用性や快楽のために役立つ限りで道徳的に振舞う功利主義。⑵善悪の実践を規範的に内面化した功利主義。⑶幸福主義や快楽主義の観点をまったく持たない功利主義。
 この区別に関連して目的合理性をどう捌くのか、という根本的論件が待ち構えている。そこで項を改め、目的合理性/価値合理性を意図性の次元に設定するという、客観主義的解釈のために、学説史的な外堀を埋めておこう。

二、折原の目的合理性解釈
 さてヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」から「社会学の基礎概念」への方法論的シフトに対応した西南ドイツ学派の展開に最小限の配視をしながら、目的合理性概念に関する係争点を提示しておこう。この二つの文献の間には以下のような相違が見られる。目的合理性を規定するにあたり、「主観的」という限定は後文献において取り除かれてしまった。それと歩みを合わせる如くに、客観的可能性への言及が省かれる。それは目的合理性による整合合理性の包摂と足並みを揃えていた。宇都宮京子によれば、かかる事態は、以下のように解説されている。「主観的に意味されたものと実際に存在するものとの関係を問う厳密な態度がこの〔客観的可能性という〕範疇への言及を必要とさせていたということである。もしも、それらが峻別される必要がなくなれば、この範疇への言及も必要なくなる」(宇都宮京子、2001、69ページ)。この箇所の言及は、〔例えばヴァーグナー/ツィップリアンによって指摘された〕クリースの「可能性に依拠した因果帰属の定式化」との対比において為されている。クリースが因果帰属をえたのは、「原因を現実のXから反実仮想的な〔可能な〕X‘に変更したら、異なる結果がもたらされたとしよう、その時Xは真性の原因になる」(Wagner, G./Zipprian, H., 1985,p.201.) という定式化を通じてである 。宇都宮はここに伏在する客観的可能性の着想を検討し、ラートブルッフやラスクの現象学的諸論考に、「理解社会学のカテゴリー」における、その原型を見出そうとする。そしてその後、「因果連関は構成される範疇であるという視点と、客観的に妥当なものと主観的に行為者が妥当とするものは厳密にいえば違うという視点」(宇都宮京子、1991、90ページ)がもはや追求されなくなった「社会学の基礎概念」では、客観的可能性概念が棄却されている、と説明する。
 
私はこの件に関わる直接的な資料を持ち合わせていない。しかしながら、後期西南ドイツ学派が現象学の流れに棹差し、可能性の範疇を客観的なものとして、敢えてその限定をつけるまでもなく使用するに至った経緯については、間接的に承知しているつもりである。例えば1918年に公刊されたブルーノ・バウフの「真理と正当性」(バウフが『真理・価値・現実』中、「妥当性」に「正当性」の意味を籠め、客観的真理と適合した主観的〈形象〉としてRichtigkeitを用いていることにも表れている(Bauch, B., 1923, S.69.初出は1918, Festschrift Johannes Volkelt zum 70. Geburtstag, dargebracht von Paul Barth, O. Beck.)。ヴェーバーの整合合理性も、そうした「正当性」からの外插において理解されよう。内在的意味は九鬼一人,1989、第二章第二節参照。)は、客観性を軸に推転した西南ドイツ学派の展開の傍証と考えられる。ここから普通、主観的「私念」(meinen)の領域に押し込めてしまう可能性を、客観的に解すことが自然となる。可能性を客観的なものに繰り込む流れに置くなら、「主観的に思念されたもの」といえども、その主観性に対して、一定の留保が必要である。
 〈主観的なものへの限定=主観的観念論への頽落〉を圧し留める、方法論的反省を通じて「社会学の基礎概念」では可能性の範疇は客観的であることが言わずもがな、のことと自覚され、整合的合理性/目的合理性の区別の撤去に至ったのであろう。それはこの文献において目的合理的行為から「主観的な」という形容が除かれていることに示されている。つまりヴェーバー方法論のシフトを、現象学に触発されて可能性を客観的に設定する文脈で考えた方が、〔新カント学派の出発点とは異なり、対応説に近い現象学と類縁関係にある〕西南ドイツ学派の流れに沿っている。他方、皮肉なことに西南ドイツ学派の妥当説と反対に、現象学は超越論的(主観主義的)転回を見せた。それに対する反発から、ヴェーバーは中期フッサール〔ないしは最晩期ラスクの主観主義〕から離れたのであろう。
 たとえこの客観性重視の文脈であっても、個別的主観という〈人格財〉に〈意味〉を帰属できる。つまり研究対象たる個別的主観の持つ〈意味〉の言及にのみ、論点を絞ることが出来る。ヴェーバーはこうした〈意味-財〉図式に依拠していると思う。この〈意味-財〉図式に関連して、「社会学の基礎概念」における、整合合理性と目的合理性の関係の問題(中野敏男、1983、209-217ページ)がある。たしかに池田昭と折原の間でかつて行なわれた論争におけるように(池田昭、1975、34ページ以下参照、整合合理性の解説も当該箇所に委ねる)、整合合理性は目的合理性と別個の次元に設定されているのだろうが、単に前者が客観的で後者が主観的という違いを言っているのではなかろう。
 周知のように「社会学の基礎概念」の中で「思念された意味」を「正当な」「妥当な」意味とは異なると捉えている(Weber,M., 1976, S.1f./清水幾太郎訳9ページ、訳語改)。そのさいの整合合理性は、比較基準である超越的価値と、リッカート的な内在的意味との関係において成立することを示唆する 。
・・・要するに整合合理性と目的合理性とは、由来を異にする概念であること。
 それに対し、目的合理性は―折原の自覚性(―カントにおける人格概念が自覚性に定位していなかったごとく、合理性の昂進を意識の自覚性(折原浩、1969)と結びつけることには難がある。自己知が直観によって得られるとすることは、カント哲学から見て前批判期的独断の危険を孕んでいる (Heimsoeth, H., 1981、214ページ)。ヴェーバーも「人間の振舞いの「内側」」は危険な語用法である、と注記するのを忘れなかった(GAzWL, S.430.)。だから内観心理学的な比喩の使用に対して抑制的だったのではないか。ヴェーバーの意味が外的に知覚される経験的過程の背後に措定される「本質」であったことについては、1907年の「R.シュタムラーにおける唯物史観の克服」(GAzWL,S.331f.)、また意味の無自覚性については林道義、1969、104-105ページも参照。―)ではなく―「帰結主義的」な意図性を指標とする、むろん客観的な、実質的条件を論じているのであろう。そのように考えなくては、例えば「目的合理的行為の「客観的」に適切な諸条件」への言及(GAzWL, S.432.)が浮いてしまう。そもそも目的合理的行為とは「外界の諸事物や他の人々の振舞いを予想し、そのような予想を、合理的に追求され考量される成果としての自分の目的のために「条件」や「手段」として利用しつつ行われる行為」(Weber,M.,1976,S.12/清水幾太郎訳39ページ、下線ゲシュペルト。vgl. GAzWL, S.149, S.441.)となっていた。この定義における行為の結果に対する予想を、合理的な思考において計算される目的のための条件と読むことは可能である。つまり例えば泥の皿を食べたいと欲して、泥をこねているだけでは計算不十分なのであって、「計り出される目的」(abgewogene Zwecke)をもつ意図性が、実質的条件として盛り込まれていなければならない。
 折原は一方で行為当事者の自覚性を目的合理性の指標とし、「没意味化」の問題を定式化する。他方、この意識的明晰性との対比において、整合合理性を観察者にとって「客観的に妥当なもの」によって特徴付ける。この対比を通じて折原は主観的目的合理性と客観的整合合理性の緊張関係の想定を得ている。しかしながらそれから出来する〈没意味化〉(折原浩、1969、397ページ)に、初期マルクスの物象化以上のどれだけの意義を盛り込めるだろうか。私には、目的合理的主体を「意味覚醒した達人」として把握する、そうした深読みは、林道義が指摘するように(林道義、1969、116ページ)、不適切に思える。代わりに上に論じたように自覚性とは別個の意図性という次元を設定し、目的合理性を「帰結主義的」に、価値合理性を非帰結主義的に解釈すべきであろう。そうするとひらける「現象学的」客観主義的解釈が、むしろ羽入の理想型解釈に有利に働くことに言及しよう。

三、資本主義の精神の理想型
 ようやく折原の第五の反論に関連する橋本の代替案を議論の俎上に置き、「帰結主義/非帰結主義」の対比を検討する段に及んだ。そこでは先に触れたように三つの功利主義が区別されていた。まず功利主義の定義に共通の認識を得ておきたいので敢えて問題にする。
 橋本は「有用性や快楽のために役立つ限りで道徳的に振舞う功利主義」(1)を「規範的に内面化していない功利主義」と呼んでいる。ヴェーバーはそうした「正直」、「時間の正確、勤勉、質素等」の美徳を「功利的な傾向」に数え(GAzRS,S.34/梶山・大塚訳(上)46ページ)、それらの善徳を実践するように「改心」(Bekehrung,GAzRS,S.34/梶山・大塚訳(上)46ページ)した物語を特徴付けているが、ここでの功利性が価値合理的に把握されていることを、橋本は明確にしていない。今日の厚生経済学の標準的規定によると、功利主義は「厚生主義」・「総和主義」・「帰結主義」から構成されるはずであり、非帰結主義的なこれらの「傾向」を通常の意味での功利主義的なものの中に数えるべきではない。
 目的合理性と価値合理性との間に懸隔があるとしたら、それは〔橋本への言及の場を借りるのは恐縮であるが〕折原のヴェーバー擁護論にも影を落としていると思われる。折原がここでの功利主義を、あくまで自己目的的な利害関心であるばかりか、「各人に義務として命じられている」ものである(折原浩、2003、98ページ)と断っているが、その言葉さえ見咎めざるを得ない。〔なお折原浩、2005、195-196ページのように、自足するはずの「価値合理的目的」を目的合理的手段性に回収しようとする記述は晦渋を極めているように思われた。〕それは義務論的な倫理は功利主義と呼ばないからである。たしかに大庭健が言うように普遍性の要求においてカント的定言命法と、功利主義はほとんど変わらない(大庭健、1988)が、前者の要求するのが端的な義務であるのに対し、後者は効用という帰結を要求する。何よりもまず価値合理的な行為者相関的モラル(ref.Sen, A.K., 1997, pp.285-287.)は定言命法に服さないことに思い至るべきである。
 翻って橋本に戻れば─(1)「規範的に内面化されていない功利主義」は、「エートス」以前の問題であり、額面通り受け取るなら、橋本の言う⑵の「規範的に内面化した功利主義」つまり〈ミル的に有用性の基準に従ったことを望ましいとする立場〉が勝義の〈功利主義〉と呼ばれるべきである。それは「帰結主義」つまり目的合理性に焦点を結んでいる。ところがこの⑵ミル的な〈功利主義〉が (1)「規範的に内面化していない功利主義」と⑶「幸福主義や快楽主義の観点をまったく持たない功利主義」の中間型と見なされる難点がある。まず橋本が自ら⑶を「「反功利主義」と言ってもよいだろう」と述べていることは、この間の混同を露呈したものである。なぜなら常識的に言って「幸福主義や快楽主義等の外衣」(GAzRS, S.35/梶山・大塚訳(上)47ページ)を帯びない以上、効用を持たず「厚生主義」でないから、功利主義と呼ぶことを拒む方が価値論的に見て自然だからである。したがって(1)非帰結主義的美徳と⑶非厚生主義的反功利主義を対比しても、⑵〈功利主義〉を中間に位置付けるなど無理筋と考える。
 そして「帰結主義的」に特徴付けられた⑵〈功利主義〉は目的合理性を貫こうとするから、羽入によって示唆された世俗的利益追求 (羽入辰郎、2002、第3章第5節)の促しとなる。故にそれは価値合理的精神と別物であるし、宗教的傾向との連関自体、問いに晒される必要がある。しかるに橋本が⑵の「規範的に内面化した功利主義」をそうした非帰結主義的な精神と結合させる概念操作を安易に提唱しているのは問題だと思われる。
 以上「帰結主義的」な意図性に即して、目的合理的功利主義の定義に関する認識の基礎を得、非帰結主義と対照した。義務論は目的論にとって異物に留まるのである(手近な所ではPettit,P./Smith,M.,2004を参照)。次に合理性の背後に客観的価値を想定することが、「現象学的意味」という思想史的背景から正当化される点に触れよう。
 もしイデアールなものが、数学的形象の認識を成り立たしめることとのアナロジーがヴェーバーに利くなら(この論点自体問題を含んでいるにせよ)、理想型を解すべきでかもしれない。言うまでもなく、数学的直線は経験世界において、模写像として見出されないが、黒板の上に描いた直線の統整的原理として働く。大森荘蔵がかつて例証したように――曲がっている黒板の直線はイデアールな直線という了解の下に立つものであるし、幅がある黒板の直線に対して、直線のきわにおける幅のない境界の直線の了解が先立つ。比喩的に言えば、知覚の風景に直線の概念が埋め込まれている。理想型が資料を模写するものでないにせよ、デフォルメされた抽象絵画とのアナロジーで説くのは、一大論点となる。現象学の「本質直観」に倣いヴェーバーを解釈する途も探られてよい。

〔結び〕
 ゆえに第一に、資料内在的な理想型を要求する羽入書から得られる規範的共通了解は、「イデアールな資本主義の理想型をフランクリンの資料の行間に読み取るべし」というものである。そのさいたしかに解釈学的地平の溶融という観点から見て「研究対象にかんするなんらかの予備知識/事前了解がなければ」(折原浩、2005、99ページ)ならないのだが、そのプロセスは「暫定的な例示」(折原浩、2005、99ページ)によって完結され得ず、綿密な資料読解を介した正確な「理解」を通じ、「本質直観」されることを要求するのではなかろうか。〔例えば『いきの構造』の緻密な概念分析のように。〕
 そこで第二の示唆として、「フランクリンの宗教観に関する疑義」(羽入辰郎、2002、第3章)を受け留めることができる。資料に即すと、フランクリンの宗教観における価値合理的契機が、―彼の倫理が「個々人の『幸福』や『利益』を超越している」、という議論が破綻している(羽入辰郎、2002、185ページ)とする羽入に俄かに賛同し難いにせよ―目的合理的利益追求をもたらす因果的駆動力を持ち得たか疑問である。翻って、前述した「帰結主義」の考察を端緒として「帰結主義」と非帰結主義の線引きに留意するなら、フランクリンにおける宗教観中、非帰結主義的契機が「帰結主義的」な営みに直結すると結論を急いではならない。つまり、フランクリンの宗教的精神に含まれる、そうした契機は目的合理的利益追求を触発しなかったのではないか、という批判的態度が羽入書から得られる。
 しかもこの批判的態度を承ける形で、「“calling”の概念が「天職」の意味で普及したのは、もしかするとフランクリンよりも後の世代においてであった可能性もある」(橋本努、2003/12/03、Website)とするのなら、X(ルターのBerufの翻訳)とは、別の可能性X’(別途の天職概念の普及)によっても資本主義の精神は成立し得、因果関係を帰属せしめることは出来ないだろう(「裏因果律」)。そればかりか、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神は、近代の「内部指向型社会性格」の成立と相互作用を持つのではないか、という―カントからヘーゲルへの発展的転換に対応した―因果性のカテゴリー自体に対する疑念に対しても、討論が開かれていなくてはならないだろう。故に近代において価値合理的な宗教的契機と世俗的利益追求が随伴したことは偶然ではないか、という問いにも相応の配慮が要請される。─羽入書はこうした問題提起の書である。〔文中敬称略〕webertext.pdf へのリンク

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Gert, Bernard, 2005, rev.ed., Morality, Oxford University Press.
羽入辰郎、2002、『マックス・ヴェーバーの犯罪』ミネルヴァ書房。
橋本努、2000、「現実認識とは何か――形相的理念型による啓蒙」『情況、特集 マックス・ ヴェーバー再考』情況出版、2000年7月号、6-20ページ。
林道義、1969、「ウェーバーにおける歴史と『意味』―折原浩氏の批判に答える―」『思想』岩波書店、544号、1969年10月号、101-122ページ。
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14. 功利主義の応答。自分の利益は棚上げにして他者の利益を追求してゆく
[授業目標] 「道徳的である」とはどういうことか第6
第1節
 行為の記述のいかん?自己が何を為すのか、他者をどう扱うのかの違い。
 「人を殺すべきでない」という義務。ジムのケースで「1人の殺害を拒否」を優位化する「自己志向的倫理」か、「19人の救助のための犠牲」を優位化する「他者志向的倫理」かのちがいが問題となる。「申し出」の拒否=「ジムが1人を殺さないこと」が出てくるのは、あくまでジム当人を優位化する場合にかぎられる。
第2節
 「功利主義」の本質は、「自己」を有意化しないところにある。「他者志向する自己」ではなく、「他者志向」を優位化する。それが他者に対する愛だとして、「自分の愛すること」=「愛する者として自己を価値化する愛」を無意味と考える。「行為主体中立性」とはちがい、「行為主体相関性」とは行為者との特定の関係にある特定の他者を、愛の対象として有意味と考える立場を言う。この特定化は、結局「自己」との関係に由来する。これに対して功利主義の「他者志向」は、他者一般への志向である。
 この「他者志向」は、他者達の状態がトータルで最善となるという「理想」への志向ではない。そうであるのなら、それもまた一つの「自己価値実現道徳」となり、そういうものとして結局「自己」定位となる。「理想」とは、ほとんど定義的に自分の「理想」であるからである。そうではなくて、あくまで他者達が「最善」であることを、それを「価値」として自己措定することなく、求めることであるから、その動機は他者への愛のみである。
 例えば、イエスの「隣人愛」をお手本として、功利主義というものを考えてゆけるかもしれない。それは、イエスの場合、目前の者(「隣人」)のみに対する愛であるのだが、しかし誰であれ自分と遭遇してくる者への愛である。その他者の属性は完全に非有意化されている。この「誰でも」として「誰」が多数であっても、アノニマス・匿名の多数者への愛として、このあり方が成立するのである。
 帰結主義のなかで自己を優位化する「利己主義」、他者を優位化するもの、さらに自他に区別をつけないものに分けられるが、安彦の本意に反して、功利主義は他者を優位化する「利他主義」に属する、と思われる。この「他者志向」は、自他に区別をつけるか、どうか、問題含みであるが、一応、「公平道徳」としておき、「利他主義」の俗人道徳版であると、功利主義を理解できるかもしれない。
第3節
 安彦は「関係者総体への愛」を、功利主義の動機と考えるが、功利主義はさらにトータルとしての最善を目指すものだとし、複数の相手を等しくカウントするという契機に目を向けている。そこに例えば「正義」「平等」といった要素が「愛」とは別のものとして加わっていると言えるかもしれない。だが、そうなら、複数の子どもに対しても公平で純粋な(=つまり正義などもたない)愛は存在しないということになるかもしれない。ここで、愛の偏向性が視野に入ってくる(たしかに本能的愛は、統制を予期せず、偏愛的でありうるので、純粋な愛から省くべきかもしれない) 。したがって「愛」も一定の統制のもとに服すべきだということになり、何が最善かを与件として前提にし、その最善状態を志向することが純粋な愛である、つまり功利主義は動機において純粋である、ということになる。これに対して、「愛」が統制に服すことは、一つの自己矛盾であって、統制に服すならそれはもはや「真正の愛」ではないと言われるかもしれない。しかし、そもそも「偏愛」といっても、いわば結果的にそうなるにすぎない。意識的に特定化するのなら、その愛は、特定化に結局「自己」が有意化されるゆえに、「真正の愛」ではなくなる。偏向性が結果するのは、言わば行為者に対する愛の対象 出現の偏向性による。「真正の愛」とは、誰であれ出会われる者への愛のことであって、偏向性は単に、その「出会い」の偏りに因由する。「統制」とは、この対象出現の偏向性を、「最善」の出現へと矯正する。この矯正のもとで、「愛」は偏向性を免れることになる。その愛は、対象を愛するというものではない。無偏向性、つまり平等性はしたがって、愛を統制する別の要素である。真正の愛は、「理想」を引き受けることではなく、あくまで内発的な愛のかたちであり、統制への服従の動機として愛をもつのである。・・・
特定的な恋愛は価値として高くない。
 このさい重要視されている「愛」という動機は、個別の「目的を志向するのではなく、或る行為が帰結する、その行為以降の世界の全状態属性を志向するのである。功利主義における「動機」性とは、この全般的な「世界」事態の「最善」を目指すものである。
第4節
 反―功利主義系のフィニスは、功利主義を、「人は、それを通して歴史がより多くの量の善、あるいは、より少ない量の悪を作り出す単なる水路となるために、何であっても行い、何にでもなる用意をしている」として、人間を世界進行の歯車とするものであると批判する。そしてこれに対して、みずからが何を為すべきかの「反省」が重要であると説く。それに対して、功利主義にとっての「反省」は、一つの「世界」への志向である、と言える。それゆえ「他者志向的倫理」は「善き世界の倫理」と言える。ただしみずから「世界」の最善状態を規定するのであってはならない。注:功利主義の「最善」?関係者個々人がそれぞれ自分で自分の「善」と考えるところの総計の最大。
 それに対してフィニスは、あくまで自己のあり方についての「反省」を説く。その反省の定位点は、あくまで自分が善であることである。だがしかし、なぜ自己を善なるものへと構成しようとするのか。例えば、自己の救済ということが、その答えとして考えられていないか。とすれば「自己善の追求」はそれじしんすでに一種の利己主義、もしくは魂の救済を求める宗教的利己主義ではあるまいか。
第5節
 近代的な自己統合性の志向には、端的な利己主義の含意はない。それでも、「道徳的利己主義」として、志向がもっぱら自己に向いていることには変わりはない。これに対して「善き世界の倫理」は利他主義である。そして「自己善」に対して優位化される。
 だが、そもそも「倫理」とは対他関係のことがらではないと反問されるかもしれない。代表的にはM・フーコーが、近代的な道徳を自己―他者関係に定位するものだと批判して「自己の配慮」としての「自己善」を重要視している。そのことは、A・センにもうかがうことができる。センは、功利主義的な人間観を「効用」のみを重視するものとして批判し、「コミットメント」を説いている。注意:安彦による「コミットメント」の説明が正確かどうかは疑問。
 センは功利主義を批判して、結果をもたらす行為を脇に置き、行為の本性と行為者主体性を無視していると批判する。こうした「自己」を有意化するあり方を道徳性の外に放擲することも可能である。ただしこれは、定義のあり方の問題である。ここでこれをも含めるかたちで広義の道徳=人間論=自己論を提起することも可能である。ref.ゴーギャン。

ethics14.pdf へのリンク
 
15.倫理的相対主義。社会にとっての善とはなにか(死刑・信頼)。[→教科書第一四章]
[授業目標]立場によって意見が変わる、とする見解の限界【ブレインストーミング】
 
 普遍的だと思われていた価値基準が、場所によって正反対になることを地理的相対主義と言います。永遠だと思われていた価値基準が、時代と共に変わり、時には逆転することを歴史的相対主義と言います。
 
 相対主義の立場をまとめると次のようになります
①「善い」という言葉は、「ある特定の社会にとって善い」ことを意味する。
②ある社会の人々が、他の社会の価値や道徳的行動を非難したり、干渉したりするのは不正である。
〔問い〕空所を補充せよ[→教科書226-227ページ]
相対主義を主張する者は、   性の根拠を尋ねられることになります。すると、相対主義者は無根拠に二つの思考の枠組み・発想は正しいことを主張するのが関の山です。無根拠である点において、相対主義者は   論である、と暴かれてしまいます。
なぜなら相対主義はそれ自身二重の基準を採用しているからです。すなわち「正しい考えが存在しないという態度を取ることが正しいことである」という主張である、と分析できるでしょうが、考えの正しさと態度の正しさは、衝突します。
〔問い〕ある学会で、朝日新聞社の大熊由紀子さんが、日本の老人ホームで夜間にベッドに縛りつけられる老人の写真とデンマークの老人ホームの写真を並べて比較して見せたことがありました。この発表に対して文化人類学者の山口昌男さんが、西欧の尺度で非西欧の文化を批判することはできないと、警告のための発言をしました。山口さんは、宗教と宗教が互いに独立しているのと同じように、文化と文化も、デンマークの病院と日本の病院も、一方を正しいとか、進歩しているとか言って、他方を間違っているとか、遅れているとか、論ずべきではないと、相対主義を主張したわけです。これにまつわる相対主義の問題点を指摘せよ。
〔問い〕ジョン・レノンと火星人は倫理を共有できるか。
〔問い〕犯罪者を「貴方はけだものよ」と非難することは、逆に相対主義のわなに陥っていることを、述べよ[→教科書229ページ]。
 
 
第一の例としてたばこの喫煙を正当化するためにナバホ・インディアンが毎朝喫煙していたことが引かれます。健康に悪いものを摂取するなという価値判断は変化していません。変化して誤ったのは健康によいものの基準となるタバコの摂取量に関する事実認識です。
タバコの例とは違う、もうひとつ例を挙げれば、医療における価値判断が変わってきていることがあるでしょう。とはいえ、依然としてよい生を全うすべき、という価値判断を変えるべきではないのです。変わったのは生命の質の重視、すなわち何をよい生と考えるか、に関する事実判断です。
〔問い〕倫理的判断やシステムが、時代によって変化する理由を三つ挙げよ。
 ①未熟児の場合                              。 
 ②古い倫理的システムの無効化 ※補足:入会権 一定の山林原野または漁場に対して、特定地域に居住する住民が、平等に利用、収益しうる慣習法上の権利。          。 
 ③決定主体と利害関係者のズレ                      。 
【問題意識共有メモ】
 価値判断が変化したと言われることがあります。そのような例であっても、厳密に言えば、価値判断は変化していないことが、ままあります。
  
このように人々が「価値観の変化」と信じていることは、価値判断以外の別の要因の変化です。ですから時代の変化が急激であるほど、「何が同一であれば変化に耐えうるのか」が差し迫った問題となります。
〔勉強のすすめ〕死刑賛成と死刑反対のいずれかの立場に立ち、自らの立場を正当化する立論を考えられる限り展開せよ。
〔勉強のすすめ〕
死刑について、存続・廃止という観点から、意見を述べよ。
死刑賛成派(野矢茂樹、2006、『新版 論理トレーニング』産業図書改変)
死刑賛成の立論:死刑は賛成である。なぜなら、死刑があることによって凶悪な犯罪がある程度防げているからだ。もし人を殺しても死刑にならないというのであれば、殺人事件がさらに増加するに違いない。
ありうべき批判:死刑の犯罪抑止効果は過大評価されるべきではない。
批判への異論:犯罪抑止効果は有効ではないか。というのも死刑を目の前に突き付けられれば、大抵の人は恐怖のため、思いとどまる割合が増えると考えられる。もちろん、死を以て殺人を制するという矛盾は、指摘できるかもしれないが、社会全体で見た犯罪率の低下という実効に比べれば、その矛盾は無視できる。

〔勉強のすすめ〕
経済における信頼の重要性について論じよ。 http://socio-logic.jp/luhmann_acc/201710_trust.php
 
 
 
〔文献一覧〕順不同
赤林朗偏、2005、『入門・医療倫理Ⅰ』勁草書房。
Griffin, James, 2002(←1986), Well-being : its meaning, measurement, and moral importance, Clarendon Press, pp.13-14.
濱田恂子、2002、『生きる環境の模索-苦悩する知-』創文社。
D.ヒューム、大槻春彦訳、1952、『人性論』岩波文庫、第四巻、第三篇第一部第一節。
加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫。
樹村みのり、1979、「みのりの女性探訪」『プチコミック』小学館。
松嶋敦茂、2005、『功利主義は生き残るか 経済倫理学の構築に向けて』勁草書房。
三井誠・曽根威彦・瀬川晃編、2000、『入門 刑事法』有斐閣。
見田宗介、1995、『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫。
三浦俊彦、2002、『論理パラドクス』二見書房。
森村進、2001、『自由はどこまで可能か』講談社現代新書。
永井均、2003、『倫理とは何か』産業図書。
西村和雄著、1995、『ミクロ経済学入門』岩波書店
野矢茂樹、1997、『論理トレーニング〔旧版〕』産業図書。
大庭健、2006、『善と悪』岩波新書。
斉藤慶典、2000、『力と他者 レヴィナスに』勁草書房。
坂口緑・中野剛充、2000、「現代コミュニタリアニズム」有賀誠・伊藤恭彦・松井暁編『ポスト・リベラリズム ―社会的規範理論への招待―』ナカニシヤ出版。
Sen, Amartya K.1997(←1984), pap. Resources, Values and Development, Harvard University Press.
立岩真也、1997、『私的所有論』勁草書房。
若松良樹、2003、『センの正義論』勁草書房。48-49ページ。