哲学概論Ⅰ
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 哲学のなかでも、とくに人間関係論・実践哲学を扱います。中島義道『悪について』にもとづき、人間の関係の諸相についての基礎知識を学んでゆきます。アクティブ・ラーニングの手法を取り入れることにより、人間観に関する独自の思索を深められます。また授業に関連するセンター入試問題を活用して、西洋哲学史の基礎学習に配慮します。

1.ラスコーリニコフ
[授業目標]悩むことから人は倫理/哲学を開く

倫理を必要とするのは誰か、という問いかけからこの本は始まっています。倫理という耳慣れない言葉についての説明から始めましょう。
(スクラップを立てる)
今講壇上にあるスクラップブックを見てください。ページとページが寄りかかって、互いに支えあっていますね。人という字もこれと似ているでしょう。うがった見方をすれば、この字は、人間というのは人と人が互いに支えあいにおいて成り立つことを象徴している、という見方もできます。
なぜ「人の道」を守らなくちゃいけないの?
ドストエフスキー*の『罪と罰』は、その問題の核心に迫っています 。

 ちなみに『罪と罰』の入門書としては江川卓著『謎解き罪と罰』を推します。それに拠ると主人公ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフのイニシャルがであってキリストに敵対する、すなわち「悪魔」とか「アンチ・クリスト」を表す数字(「獣の数」)が隠されていると言われます。
もし「私」にとっての利益性/もしくは自己愛(ナルシズム*)を追求するならば、殺人の肯定論が出てきかねません。たしかに心理的葛藤はあるでしょうし、法的にも制裁されます。しかしそれらのマイナスを跳ね除けて、殺人を企てる人がいるかもしれません。
reading time 教科書p2-p8
□ラスコーリニコフは「生きる値打ちのない醜悪な人間は殺してよい」というみずからの思想には、流刑地においてもなんの訂正の必要も感じなかった。
□思想を実行に移したとき、もちこたえられなかった。だからこそ、「道徳的善さとは何か?」と問い続けてしまう。それが「道徳的に善くはなくとも、道徳的態度と言えるのではないか」。
□思索によってではなく行為によって、道徳、もしくは実地の哲学が開かれる。
□老婆を殺すことによって、彼は「なぜ?」と問うヨブ になった。


今日の味読箇所
〔資料〕「ああ、もし彼がみずから罰することができたらどんなに幸福だったろう!そうしたら、彼は恥でも屈辱でもいっさいのものを耐え忍んだはずである。ところが、彼は峻厳に自己を裁いてみたけれど、猛り狂った彼の良心は誰にでもありがちの単なる失敗を除いては、自分の過去に格別おそるべき罪を見ださなかった。彼が恥じたのはほかでもない。彼ラスコーリニコフが盲目的な運の判決によってかくまで盲目愚劣にむざむざと何の希望もなく身を滅ぼし、もし多少とも心を落ちつけたいと思えば、得体のしれない判決の「無意味さ」と妥協し、その前に屈服しなければならぬということなのである。……つまり、この一点だけに、彼は自分の犯罪を認めた。もちこたえられないというただその点だけなのである」(教科書、2-3ページ)。

〔問い〕
・「峻厳に」の意味を記せ。自己の何を裁いたのだろうか。失敗したこと。何を?道徳的悪さを裁いたのではない。
・「もちこたえられない」を出来るだけわかりやすく述べよ。
・「行為に出てしまったから、道徳について悩まざるをえなくなった」という考えについて共鳴しない点があれば、述べなさい。
・悩みを抱かざるをえない人は、その人のどのような徳に突き動かされているのか。

あしたのためのその一
 ソクラテスは、ノモス(人為)について問わざるを得なかった。問うことは人間の基本的欲求である。たとえそれゆえに、疎まれようとノモスのまことへと、己を投げ込まざるを得なかったのである。落日のアテナイにて・・・

Break time

http://article.coneqt-8.com/30dai-2/

〔文献一覧〕
中島義道、2005、『悪について』岩波新書。
ドストエフスキー、1999、江川卓訳『罪と罰』岩波文庫。
江川卓、1986、『謎解き「罪と罰」』新潮選書。

2.ソクラテス
[授業目標]哲学の核心とは問うことである

〔問い〕熊野純彦、2006、『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波新書、58-59ページの文章に関して空所を補充せよ。
 哲学のはじまりと神話とを截然と分けへだてることは、ことがらをひどく単純化してしまう。けれども、哲学的な思考がそのものとして離陸したとき、それは神話的な思考に対する啓蒙への動向をはらむことになる。いわゆるソフィストたちは、なによりも、そうした啓蒙の運動にかかわっていたひとびとであった。紀元前五世紀の中葉、アテナイはすでにパルティアの脅威を克服し、    同盟の盟主として地中海世界の中心である。歴史家      がつたえるアテナイ黄金期の宰相、      の演説によれば、アテナイでは、だれであっても「器量」(      )さえあれば自由に政治に参加することができた。ソロン以来、   世紀半にわたって育まれてきた、民主制(デモクラティア)の伝統である。そうした優秀さ、つまりポリスの一員としての徳(ポリティケー・アレテー)、なによりも  のすべを教えようとしたのがソフィストなのである。――ソフィストたちは多く、周辺の地中海世界に生まれ、各地を遍歴して、法と習慣が歴史と地域に    であることも知っていた。アテナイを訪れたソフィストは、文字通り「   」(ソフォス)であったのである。
□ソフィスト(一団の「知者」たち)は相対主義者であった。→プロタゴラス・ゴルギアス
□ソフィストは権力と結びつき、公受けする言論を言葉巧みに操った。その論理的限界を指摘したのがソクラテスである。

〔問題〕個々の人間の判断がすべての善悪を決める基準であり、普遍的な真理は存在しないと考えた代表的人物とはだれか。
〔問題〕ソフィストたちの活動にかんする説明として適当でないものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 報酬を受け取ってさまざまな教養を教えた職業教師であった。
② 自然研究よりも人間や社会に目を向けて議論することが多かった。
③ アテネのリュケイオンなど各地に学園を創設し弟子たちを教育した。
④ 民会や法廷で人々を説得するための弁論術をとくに重視した。


〔問い〕熊野純彦、2006、『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波新書、66ページの文章に関して空所を補充せよ。
 ソフィストとは   であった。ソフィストの知は、時代のなかで力とむすびつく。かれらの言論における卓越が、   を生んだのである。ソフィストは、その意味で有能な人間であり、有用な人物であった。けれども、有用さそのものはいったいなんのためにあるのだろう。そのように問いかけつづける者があったなら、その者は、どのような時代でも    として疎まれ、最後には憎まれることだろう。ソクラテスというひとが、おそらくはだれよりもそうであった。
〔問い〕熊野純彦、2006、『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波新書、68-69ページの文章に関して空所を補充せよ。
 ソクラテスがそのような問答をかさねたことには、理由があった。あるとき、「ソクラテスほど知恵のある者はいない」という、       のアポロン神殿の神託をつたえ聞いたからである。自分が  能であると思わざるをえないのは、そもそも求められている能力、     、つまり徳がなんであるか、わからないからだ。じぶんには大切なことをめぐる  が欠けている。けれども、    ある者と思われ、みずから自認するひとびと、つまり政治家、詩人、職人たちとの対話の果てに、ソクラテスにわかったことがある。一般的には「  れて立派なひと」(ホ・カロス・カガトス)といわれているかれらも、大事なこと、それが善くかつ美しいとされることがら(カロカガティア)については、  ないのである。

今日の味読箇所
〔資料〕無知の知という知のかたちをみとめるならば、ソクラテスはやはり「知者」(ソフォス)であることになるからだ。知者であるのは、たとえばプロタゴラスであって、それを自称する者たちこそがソフィストであった。ソクラテスは知者でない。あくまで「知を愛し、もとめる者」(フィロ・ソフォス)である。この一点で、同時代人の目にはソフィストそのものと映っていたであろうソクラテスが、ソフィストから区別される。ソクラテスはソフィストではない。だから、ソフォス(知者)でもない。フィロソフォス(哲学者=愛知者)なのである」(熊野純彦、2006、『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波新書、70ページ)。


〔問い〕ソクラテスは無知を知っていたのだろうか。上の資料を読むことによって、通俗的な解釈の問題点を指摘せよ。注:受験参考書などでは「何も知らないことを知ること」=ソクラテスの「無知の知」となっている。

〔問い〕ソクラテスの人生を決定づけた、デルフォイの神託の内容を述べよ。


 問うことは真理へとみずからを開いてゆくことである。ひとは問わざるをえない。それが真理の探究である。その過程で人から疎まれようと、社会から排除されようと、真理の探究の前では卑小なことである。
疎まれ社会から罰を受けようとも・・・


Break time
https://www.youtube.com/watch?v=0lwX_jQuNRk

〔文献一覧〕
熊野純彦、2006、『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波新書。



3.自殺について
[授業目標]人生の意味と自殺、もしくは安楽死について考えを深める
定言命法とは・・・
教科書p19-p20
(1)きみの意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ。『実践理性批判』
(2)きみじしんの人格における、またほかのすべての人格における人間性を、常に同時に目的として使い、けっしてたんに手段として使わないように行為せよ。『人倫の形而上学の基礎づけ』
★大前春子さんが溺れているところを助けて、ロシア語を教えてもらおう。・・・仮言命法
★条件なしの命令・定言命法、条件付きの命令・仮言命法

reading time 教科書p42-p48
□適法的行為とは、常識にとって自明である。逆に言えば何が適法的行為か、理屈で説明することは難しい。
□カントの適法的行為は、彼の自然法理解や人間観によって規定されている。
□自己愛が人間の行為をどこまでも突き動かしている。
□定言命法とは、自己愛(ナルシズム)という条件に限定されない命法である。
□仮言命法とは、自己愛の動機に条件づけられた命法である。★大前春子さんの例。
□「自殺」が、自己愛による「苦しみからの脱出」を動機にしている場合、道徳的に善い行為ではない。
□「自殺しない」のが、自己愛にもとづく場合と、そうでない場合 があるという考察が完全に抜け落ちているのはなぜか。
□自殺は有機的存在者としての人間の「目的」である「生命の保存」に矛盾するがゆえにすべきではないのである。定言命法の(2)。


今日の味読箇所
〔資料〕「カントの場合、非適法的行為の動機は自己愛しかないのであり、自殺は非適法的行為であるとはじめから決めてかかっているのだから、自殺の動機は自己愛に限られるわけである。すなわち、自殺をはじめから非的法的行為と断ずる姿勢が強いために、なぜ自殺をすべきでないか精緻な論証に至っていない。さらに、自殺しない動機に対してもわずかにも視線を向けていないのである」(教科書、48ページ)


〔問い〕
・ここでの推論連鎖を図式的に示せ。
・非適法的行為の背景にはカントのどのような方面の見解が示されているか。
・自殺の動機が「苦しみからの脱出」でないとき、筆者はそれを非道徳的と考えているか。カントの見解と比較せよ。

 世には摂食障害やリストカットで悩んでいる人がたくさんいる。その人たちは人生を生きる意味などないのではないかと疑い、しばしば自殺念慮にかられる。


〔問い〕行為を行う意志の主観的原則である格率が、常に同時に普遍的立法の原理として成り立つよう、行為すべきであるとする命令を何と言うか。
〔問い〕自らの内なる実践理性が立てた道徳法則に従って行為することを何と言うか。

〔問い〕道徳法則に従う意志で、無条件に善であるものを何と言うか。

〔問い〕「もし、~したければ、~せよ」という形式の条件つきの命令を何と言うか。カントの道徳法則に特徴的な無条件に「~せよ」というかたちの命令を何と言うか。

あしたのためのその二
 人生には、はたして本当に生きる意味などあるだろうか。ましてや、生きている意味が稀薄な「終末期」においては、安楽死*を選択したくさえ思えてくる。ひょっとしたら人生には意味はない。人生は意味がなくても、しかたなく生きてゆくものなのだ。もしかすると、人生には意味などさらさらないからこそ、ちょっとした、僥倖がうれしく思えてくるのかもしれない。つまり、意味など期待しないのならば、思いがけないオマケがあったとき、それがものすごくトクに思えるのかもしれない。

〔文献一覧〕中島義道、2005、『悪について』岩波新書。

4.人生の意味の絵を描く
[授業目標]人生の意味についての実習・シューシュポスの神話*を学ぶ

 「「幸福」の現実のもとでは「意味」は基本的に剰余である。その場合「意味」は、「観念」へと存在化されぬものとして一つの「フィクション」である。それは、必ずしも対象の様態としてではなく、意識のいわばノエシス的様態としてのフィクションである。そこにあるのは一種「遊び」の精神である」(安彦一恵、2005、「空転する「公民」教育」越智貢編『岩波応用倫理学講義6教育』岩波書店、210ページ)。〔フッサール的にいえばノエシスよりノエマが表現として適切。〕この文に、保守派にとっては、「遊び」の精神のもとに「歴史」が置かれる……という文章が続いてゆく。
 不幸という現実のもとでさえ「意味」は余計ものではないのか。たとえばこのことに関連して、シーシュポスの神話が思い出される。シーシュポスは罪を犯したため、彼に神罰が下る。すなわちシーシュポスが山に岩を押し上げようとすると、あと少しで山頂に届くというところで、岩はその重みで底まで転がり落ちる。そうした徒労の繰り返し。この苦行が永遠に繰り返されることをシーシュポスの神話と呼ぶ。日本の場合の、「賽(さい)の河原」と似ている。http://www.youtube.com/watch?v=LRJ-RsxVvuA

〔資料〕「われわれが理由なしに、そして理由を必要とせずに為したり欲したりしていることがら――われわれにとって何が理由となり何がそうならないかを決めている当のもの――は、われわれの懐疑論の出発点である。外側から自分自身を眺めると、自分の目ざしているものやそれを追求することが、いかに偶然的で特殊的であるかがはっきりしてくるからである。しかし、われわれがこの観点をとり、自分の行っていることが恣意的なことにすぎないと認めても、それによって人生から解放されるわけではない。そこに人生の無意味さがあるのだ。そのような外的な観点をわれわれがとりうるという事実に、ではない。究極的な関心事がそれほど冷静に捉えられている当の人物であり続けながら、その観点をとりうるという事実に、である」(Nagel,1979,p.15[トマス・ネーゲル著、永井均訳、1998、『コウモリであるとはどのようなことか」勁草書房、25ページ])。


 人生を無意味に晒すのは、人生を丸ごと対象化して観察するネーゲル的な視点に他ならない。要するに絵画における地が背景を前提とするように人生が意味をもつためには背景が必要だが、人生は背景をもたないから、(背景なき図柄が虚無にさらされるように、)「対象化される人生は退屈だ」という気分が醸(かも)しだされるわけである。

 人生の意味にとっての最大の味方:意味の実在論
 布置状況という背景に公共性なり社会なりがあって、そのなかで人生が或る一定の意味をもつというのが意味の実在論。もし、これに対置される立場を挙げよ、といわれたら、背景が虚無であるために、意味が支えられない観念論が、それであろう。実在論はしばしば公の場では、意味を味方につけて観念論に勝利する(フッサール『危機論文』における生活世界論を見よ)。以下のゴヤの絵 を参照。https://www.wga.hu/html_m/g/goya/9/index.html

今日の味読箇所
〔資料〕「画意は、誰にしろ、一見して明瞭に把握出来るものである。
 すなわち、と書くのもおかしいようなものであるが、赤褐色の砂――あるいは流砂とおぼしい傾斜に、一匹の犬の首だけがのぞいていて、あとは、このタテ長い画面(1.34×0.80m)全体がほとんど裸、つまりは非具象、あるいは抽象なのである。
 犬は、首をあげてわれわれには見えぬ何物かを凝視している。手前の砂の斜面がもし流砂であるとしたら、この犬は、いくらもがいても、いや、もがけばもがくほど、いくばくもなくして埋め込まれてしまうであろう。
 犬の表情は、これはやはり恐怖に近いほどの注視、注目である。
 何を注視、注目しているか」(堀田善衛、1994、『ゴヤIV 運命・黒い絵』朝日新聞社、372-374四ページ)。


〔問い〕
・人生が無意味であることのイラストを描いてみよう。逆に人生が有意味と考えるなら人生が有意味であることのイラストを描こう。この課題を出すと、学生の約何割かは、家族と自然(お日さま付)と……いった「幸福」な生活を描くのだが、もう少し頭をひねってほしい。セリフを入れるのがポイント


 人生には、ほんとうの意味があるようには思えない。もちろん社会に寄生したかぎりで、名誉・地位・物欲等の、価値観に依拠すれば、かりそめの意味は得られる。すなわちmeaning in the lifeは得られる。しかし人生全体についての意味は得られるだろうか。

〔文献一覧〕Nagel,Thomas,1979,Mortal Qestions, Cambridge: Cambridge Unversity Press. 
堀田善衛、1994、『ゴヤⅣ 運命・黒い絵』朝日新聞社。
安彦一恵、2005、「空転する「公民」教育」越智貢編『岩波応用倫理学講義6教育』。

5.苦行の否定・エピクロス
[授業目標]自然のなかの人間のあり方を考える

reading time 教科書p71-p75
□人間は、幸福そのものを道徳的善さと切り離し直接的に追求してはならない。
□実践理性は、義務が問題であるかぎり「私たちは幸福をまったく顧慮すべきでない」と主張するだけである。
□カントは宗教的苦行を嫌った。
□カントは、なまのエゴイズムや自己愛を互いに巧みに押し隠し社会から排斥されないよう細心の注意を払いながら賢くふるまい、永続的利益を求める存在者と見なしていた。
□幸福への欲求が道徳的善さへの欲求以上にのし上がることによって、悪が発生するのである。

幸福の追求がかくも強力と考えるカントは、エピクロスの「自足」(autrakeia)に対して真っ向から反対する。
★カントはなぜエピクロスの思想に共感できなかったのか。
                                       。
エピクロスは欲望を3つに分類した上で、「自然な欲望」を悪ではないとした 。https://kotoyumin.com/epicurus-2-81
1.自然かつ必須な欲望
2.自然だが必須ではない欲望
3.自然でも必須でもない欲望


 「われわれは、自然を強制すべきではなくて、自然に服従すべきである。そして、自然に服従する道は、(自然で)必然的な欲望を満たし、自然な(必須でない)欲望も、害にならないかぎりこれを満たし、害になる欲望はこれを厳しく退けることにある」(『ヴァチカン箴言集(以下VS)』 21)。


 エピクロスは、自然の欲求に従って生きることを提唱した。これは、一見ストア派の主張と似ている 。しかしストア派では全ての欲求を完全に退けること、つまり自然に従った心の平静さ(アパテイア)を考えたところにちがいがある。(倫理のテストで両者の共通性を自然に従うことと書いたら減点された。心して以下を読まれたい)
 エピクロスは無苦によって幸福を目指した一方で、ストア派は徳によって幸福を目指した。エピクロスは人間が選択・回避すべき欲望を、人間を身体の健康と心境の平静(アタラクシア)へと導くかどうかという見地に立って、選び出している。つまり一時の快苦に惑わされず、より大きな快へと導くよう、思慮深くあることを要求している。
 エピクロスは快を積極的に得るべきとは言っていない。アタラクシアは苦がない状態を言い、それを実現するために、人間は快を求める。飢えるから食べる。渇くから飲む。だから飢え・渇きが満たされれば、もう欲求は起こらない。かくてアタラクシアが実現するわけである。人は、その状態で自足すればよい。苦がなく、快も必要でないこの状態こそが、最高の状態とされる。
 では苦とは一体何であろうか。残存資料の中には、苦しみについての具体的記述が見つからない。エピクロスの理想とする知者は、少なくとも自分の生死に関心をもたない。なぜなら知者は、生においてアタラクシアを獲得しており、死については原子の分解という諦念をもっているからである。言わんとするところを酌めば、「身体を構成する原子が分解されれば感覚は無くなる。感覚に現われないものは、知者は無関係と考える。知者にとっては、生も死も、何らの煩いともならない。よって生きていること自体は苦しみではない。いつか来る死を受け入れ、限りある時間と生命に自足することに力を尽くす」、となる。

「亡くなった友人の回想は知者にとっては喜びとなる」
「亡くなった友人の思い出は快である」


今日の味読箇所
 〔資料〕「1.宇宙の本性を弁えず、宗教のもたらす畏怖の念に心を奪われる者は、もっとも肝心なることがらにかんして恐怖から解放されることがない。したがって自然学なくば、純粋無垢の快楽の獲得は為しえない。
 2.快楽は至福なる人生のアルファにしてオメガである」(『命題コレクション哲学』、31-36ページ)。


〔問い〕
・エピクロスは原子論を信じた。その帰結として、死に対して どのような考えをもつにいたったと考えられるか。
・宗教にしばれると、なぜ恐怖から解放されないか。
・また自然学に携わるなら、なぜ恐怖から解放されるか。

あしたのためのその三
 人の生は、事態に即して見れば(ザッハリッヒには)、物に還元できるのかもしれない。存在するのは原子や素粒子だけかもしれない。とすれば人間は本質的に自然と同等な存在、もしくは自然的な存在なのかもしれない。大いなる自然にかき抱かれた存在としての人間・・・視線は、その外なる自然へとおのずと向かう。

〔文献一覧〕
中島義道、2005、『悪について』岩波新書。
眞方忠道、1990、「神々と運命からの解放(エピクロス)」坂部恵・加藤尚武編『命題コレクション哲学』筑摩書房。

6.自然と対話する
[授業目標]自然のなかの人間のあり方を考える

★環境倫理学を考えるにあたって、以下の問いを参考にすること。帆苅猛/杉田正樹/浜田恂子、2003、『人間と倫理』丸善・ 関東学院大学出版会■。
① 生態系を重んじなければならないということは分かるが、一体どの程度生態系を判っているのか。
② 確かに生態系と人間とは相互依存関係にあるが、人間の特殊性もまた存在するのではないのか。
③ 生態系に価値を認めることは人間中心主義と両立しがたいものなのか。
〈生態系から人間にとって有用な部分を取り出し、それを出来る限り活用していけばよいという考え方について〉
 生態系の一部を、人間の利用できるものとして切り出してくること自体、一つの人間中心主義ではないか。生態系の価値に配慮したとしても、人間が評価する限りでの生態系に関心が限定されている、という批判があればどう答えるか。
人間中心主義で居直ってかまわないという考え方について〉
 ともすれば安易に生態系中心主義に流される風潮に対する反論として、有意味である。ただし今日、人間中心主義が説得性を失いかねないほど環境問題が切迫していること、その状況をもたらしたのが、万物の長を自認する人間であることを忘れてはいけない。その自覚の上で、環境問題にどのような提言をするにせよ、人間中心主義を離れられない人間の「性(さが)」を指摘すればよい。→人間の業(ごう)
 人間中心主義・・・病原体の絶滅を含めてすべて人間のエゴイズムである。それについての評価を括弧に入れてエゴイズムに依拠しているという自覚をもつことは必要。もし地球の生態系を中心に考えるなら人類が絶滅する道が一番「望ましい」。もしその言説が成り立たないとするなら、偽善的に振る舞わず自分たちの都合の良いように、自然に介入することを認めるべきではないか(→トキの飼育は自己満足)。もちろん別のロジックの立てようがないわけではない。
〔問い〕上の生態系中心主義を参考にして人間とよだかの対話を書きなさい。 『よだかの星』のストーリーを知っていますか。それは簡単にまとめると、以下の通りです。yodaka.pdf へのリンク
   
「みにくいよだかは、鷹に名前が似ていると難癖をつけられ、改名を迫られた。よだかは、そうして鷹に殺されようとしているにもかかわらず、罪のない羽虫や甲虫を無自覚のまま呑み込んだので、我が身を悔いて自殺願望を抱く。そしてお日さまや色々の星々に向かって飛んでいき、自分を星の仲間にしてくれ、と頼む。結局、空から落ちて息絶えたとき、よだかは星になった映像を見た。それは夢だったのだろうか、現だったのだろうか」。
 よだかは生存の可否を問いかける〈存在〉の罪から解放されて、星になったのです。そこには万人に犠牲を知らしめるような、肩をいからせた見せびらかしはありません。その動機を他人からの称賛を受けるため、もしくは輝かしい自分に悦に入るためとするのは、あまりに自己愛を強調しすぎています。よだかが羽虫や甲虫を食べるのは食物連鎖によることは自明ですが、鷹に殺されかけるのはアイデンティティーの危機にさらされてのこと(押野武志、2003、163ページ)でしょうか。すくなくともよだかの意識の中では、よだか:羽虫と甲虫=鷹:よだかという相似関係が生きています。このことは文脈から明らかです。ただし醜さに言及されているのは、この相似関係を累加する要素としてなのです。もちろん最終的結末に自己愛的要素はあるでしょう。しかし同時に地に落ちた現実との二重写しの落差にも注意すべきではないでしょうか。肉体としての地上・昇天としての恒星。この分裂の悲劇 がよだかの最期を絶対的自己陶酔から、おしとどめているのです。

例:
人間:よだかは何者も殺したくないあまりに、自ら昇天して星になりましたね。
よだか:自分が背負った食物連鎖にそもそもやりきれない業(ごう)のようなものを感じたんですよ。
人間:それをいったら、一番に消えてしまわなければならないのは、私達人間になってしまいますよ。
よだか:たしかに…。人間は生態系の調和を破壊させるほどに、他の生物を殺してしまいますからね。
人間:貴方のように自己否定しなければ、この業の連鎖から抜け出せないのでしょうか。結局他の生物の味方にはなりえないかもしれません。というのも私たちは人間に生まれた限り、自分かわいさ故に貴方のように自己否定を貫けないわけですから。
よだか:それでは人間中心主義で居直るしか、選択肢がないというわけですね。
人間:論理的に突き詰めると人間中心主義になるかもしれませんが、人間が生きていくということ自体、他の生物の存在抜きにはありえない。しかし、それは他の生物にとっても同じことですね。問題は貴方のように存在の業を自覚していないという態度にあるのではないでしょうか。
よだか:私は焼身幻想(自分の身を焼き尽くすという幻想)によってしか、答えを見つけられませんでした。結果的に自己の存在を否定するに至りました。しかしあなたがた人間が賢慮をもっているのならば、現実において業に気づき、現実の生の中でしっかりと受けとめることも可能かもしれません。もし地上に人間という星を輝かせることができるとしたら、業に正面から向き合い、現実の実践の中で、食物連鎖に抑制的である態度をとりつつ高いものに転化すること(=止揚*、つまり〔自己を〕否定しつつもより価値的に高めること)においてしか可能ではないでしょう。

 生物を親子兄弟のように身近なものと見ること*にかんしてどのように考えるか。
*これは、よだかの星、銀河鉄道の夜などの作品で知られる宮澤賢治の、身の回りの生き物に対する基本的態度でありました。賢治が信仰した仏教の経典でいうと、法華経では「それを信仰するものを誹謗すれば、畜生に生まれて人間に虐待される」という教えが説かれています。つまり無条件に動物と人間とが平等というわけではありません。しかしながら「誰もが成仏する可能性がある」という意味では平等です〔注:賢治の帰依したのは日蓮宗の一派=国柱会です〕。この観点から言うと、仏教に馴染んできた日本の思想的風土のなかに、身の回りの動物=親子兄弟という考えが一般的にあると言えるでしょう。
 1.宮澤賢治の家が信仰していたのは、浄土真宗。それに対して、賢治が国柱会(日蓮宗の一派)に参加したため、法華経の経典が引用されています。
 2.レトリック:みなさんにはなじみの薄いことばですね。あまり気にして下さらなくて結構です。
 3.業:これも理解しにくいことばです。前世の報いとして背負っている罪のようなことをイメージして下さい。どうしても自然界の食物連鎖に入り込まざるを得ないことへの後ろめたさのようなものです。
・総括:想像の上で食物連鎖の罪を解決しようとした「よだかの星」⇔食物連鎖を含めた環境破壊への罪を現実において解決する必要性
 この解決方法の軸に対応する形で、後者のためにはどのような具体的な処方箋があるか(もちろん「業」について的確な認識を持った上で)論じることが、課題として与えた対話に答えるためには必要でしょう。


〔問い〕環境倫理の問題です。空欄に適当な語句を入れなさい。

  
今日の味読箇所
「雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐ろしいようです。よだかはむねがつかえたように思いながら、又そらへのぼりました。
 また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)」(よだかの星)

〔問い〕
・なぜ食物連鎖 をよだかは肯定できなったのか。食べることは生きてゆくうえで、必要なことではないか。
・甲虫を食べる罪の意識に共感できますか。罪の意識の意味について考えなさい。

 自然のなかに居所を見つけることは、心安らぐものである。自然と自分が基本的にはおなじ、成り立ちをしていることに気づくことによって、自分というものを、そとなる自然に対して解放してゆくことができる。欲望というものに極端に否定的な姿勢をとらずとも好くなる。

〔文献一覧〕
帆苅猛/杉田正樹/浜田恂子、2003、『人間と倫理』丸善・ 関東学院大学出版会。
押野武志、2003、『童貞としての宮沢賢治』ちくま新書。
宮澤賢治、1989、「よだかの星」『新編 銀河鉄道の夜』新潮文庫。

7.愛と嘘
[授業目標]許される嘘・許されない嘘?

reading time 教科書p94-p103
□カントによれば、いかなる場合も嘘をついてはならない。
□人殺しが友人を追ってきた場合、彼に嘘をつくことはなぜ罪なのか。
□ナチスのユダヤ狩りの場合にも嘘をついて匿うことはできないのか。
□善意の嘘・窮余の嘘には二種類ある。
①                                       。 
②                                       。 

□愛していない人に親切にすることこそが、道徳的に善い行為である。
□愛を最優先するのがキリスト教である。道徳的善さを最優先するのがカント倫理学である。


 アンネ・フランクはドイツのフランクフルト・アム・マインの裕福なドイツ系ユダヤ人一家の末娘として生まれました。ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を恐れ、一家とともにオランダに移住します。第二次世界大戦勃発後の1940年5月、ドイツ軍のオランダ占領により生活環境が悪化、1942年、フランク家を始めとした8人のユダヤ人は、父の職場にあるアムステルダムの隠れ家にて潜行生活に入ります。結局1944年、ついにオランダ・ナチスとゲシュタポに捕まり、一家・友人全員は強制収容所に送られてしまいます。アンネ・フランクは姉のマルゴーとともに、ベルゲン・ベルゼン強制収容所に入れられ、命を落としたとそうです。死後、隠れ家での生活を描写した日記が出版され、世界的なベストセラーとなったことで有名です。

Break time
 アンネ・フランクの隠れ家についてはコミックを参照して下さい(資料配布)。貴方がアンネ・フランクをかくまっていたとして、ナチスの親衛隊に所在を聞かれたらこう答えなくてはなりません。「ここにはユダヤ人がいません」と。
 これに対してカントは、嘘をつかないことを、それ自体として善として捉えます。
 こうした義務を重視する倫理学を義務論と言います。カントは、人間に具わっている実践理性が命ずる(普遍妥当的な)道徳法則に従って人間は、生きるべきであると考えました。人間は、最高善・魂の不死・神といった理性的対象に支えられる存在ですが、感覚に因る欲求をもつ存在であるため、実践理性が命ずる道徳法則は、自律的な「すべし」として現われるのです(ただし意識するだけではなく、行為に結実していることが重要・中島義道、2006、『カントの法論』ちくま学芸文庫■)。
 ちなみに同様に、義務として完全にまもらなくてはいけないものとして、「自殺の禁止」を挙げています。言うまでもなく、そこには端的な善を認める態度が現われています。『人倫の形而上学の基礎付け』(1960、『道徳形而上学原論』岩波文庫、104ページ参照)で次のように言っています。「苦痛に満ちた状態から逃れようとして自分を死に至らしめるとき、その人は、自分の人生を耐えがたいものとしないために、〔自分という〕一人の人格を手段として利用してしまっている」。カントによると私たちの生命、嘘をつかないことはそれ自体で価値をもっているのであって、他の何かのための手段ではないのです。
Gefangennhame Andreas Hofers


今日の味読箇所
〔資料〕「「人間愛からなら嘘をついてもよいという誤った権利について」(1797年)で、「われわれの友人を人殺しが追いかけてきて、友人が家のなかに逃げ込まなかったかとわれわれに尋ねた場合、この人殺しに嘘をつくことは罪であろう」と言います。なぜなら仮に「いない」と嘘をついても、人殺しと友人が出会い頭にぶつかれば友人は殺されてしまうかもしれない。逆に「いる」と真実を告げても、友人は脱出して殺されないこともあろう。したがって「真実を語れば殺される」という因果関係はない、というのです。その友人が殺されるか殺されないかは、偶然の結果であって、それに対して責任を負う必要はない。むしろ誰にでも、それら結果とは独立に真理を語る義務がある、というわけです」(加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫、20-22ページ)。

〔問い〕
・嘘をついた方が、友人が助かる確率が高くなると言ったら、カントはどう答えるか。

あしたのためのその四
 嘘をどうしてもついてはいけない水準というものがある。私たちは嘘をついてはいけないと知りつつ、嘘をつくのである。また、処世術上、嘘をついてしまうのである。道徳的には悪くとも、偽証や沈黙で逡巡するのが人のあり様である。

〔文献一覧〕
中島義道、2005、『悪について』岩波新書。
中島義道、2006、『カントの法論』ちくま学芸文庫

加藤尚武、1997、『現代倫理学入門』講談社学術文庫。

8.ホッブズ
[授業目標]嘘ではないにしても私たちは黙秘・偽証をとおして協調関係をつくってゆく
 

 ホッブズの倫理学説☟の根底には、人間は利己的な存在であるという前提がある。ここに一個のアップルパイがあるとして三人が三人ともエゴイスティックな存在で、それぞれ飢えに苦しんでいるならば、丸々一個を奪おうという喧嘩が生じるのは目に見えている。この喧嘩は、死を避けるための生存欲求に由来するなら、決着がつかない。これが〈ホッブズの自然状態で想定している万人の万人に対する戦い〔闘争〕〉である。この局面を打ち破るべく、社会契約=〈自分の権利を制限してルール「自然法」を取り決めること〉がもちだされる。すなわち互いに争うことの限界に思い到り、欲求に制約を及ぼすのである。これを契約論的倫理学というが、その特徴は、短期的な利益追求を棚上げにし、社会での長期的な利益を洞察することを通じて、利己性を克服・社会的な協調性を実現するところにある。ここにおいては、あくなき生存欲求が貫いている。

 権利(アップルパイを分与してもらう)を国家に移譲し、国家制度の前提するルールを結ぶさいも「只乗り」を完全に排除しえない。逆に言えば、そうした逸脱を想定しつつも、刹那的で衝動的で非合理的に利己的なだけの人間を、狡知に長けた長期的利益を追求する利己的な人間に引き上げることがルール遵守のかぎである。
 だから、社会契約の仕方で問題が立てられ、それこそがポイントだと意識されるとき、真の問題はすでに解決されている。そのポイントとは、だましだまされるということがあっても、トータルに見て自分が得をするメカニズムになっていれば――自分も社会も万々歳である。つまり全体として利己的な約束のふりが有効に働く社会においては、社会的秩序ばかりか、社会契約はもう成功している。つまり、契約するのは、約束を守るか破るかのみが問題だからではない。
〔問題〕ホッブズが主張した自然状態の人間のあり方で、自己保存の本能にもとづいて他者と闘わざるをえない状態のことをどのように表現したか。
〔問題〕ホッブズは社会契約で主権者に対して自然権をどうすべきだと考えたか。
☟ホッブズの倫理学説 ホッブズ=マンデヴィル説の主要特徴として(浜田義文、1981、『カント倫理学の成立』勁草書房、20-21ページ)。
 第一に、利己的人間観。人間の行為の真の動機をなすものは「自己愛」である。この点について補足しておけば、それは人間の情念と行為に関する事実認識であること。
 第二に、自己愛が理性と結合している。注:小児の無邪気の利己心とは異なり計算ずくであること。
 第三に、利己的本性の発見は、自然的個人の自発的原理たる「自己保存の欲望」の発見を意味した。
 第四に、理性の活動の余地が残されているが自己愛に比べて従属的役割を演ずるにすぎないこと。
 第五に、人間把握のリアリズム。仮借なき人間観察にもとづいていること。

【問題意識共有メモ】・・・個人主義の転調。
私\相棒 逃げる 留まる
逃げる 二人ともたぶん助からない 私は確実に助かり相棒は死ぬ
留まる 私は死に相棒は助かる 二人ともたぶん助かる

 個人主義を貫くこと、或る意味エゴイズムを追求することにおいて、社会的秩序が自然に出来あがる。もとより只乗り に控え目でなければ、秩序はなりたたないが。

〔問い〕囚人のジレンマ的状況で、囚人同士が協力する場合と、社会契約の類似性について論じなさい。
〔答え〕マッキーという倫理学者が『倫理学』という本の中で、以下のようにジレンマ的状況を説明している。「私と相棒は前線に配備された二人の兵士だとする。二人がそれぞれの持ち場に留まって戦えば、救援隊が来るまでもちこたえて、二人はたぶん助かる。もし二人とも逃げれば、敵はただちに追撃するので二人の助かる可能性はかなり低くなる。一人が持ち場に留まって、もう一人が逃げた場合には、「逃げた者が助かる可能性は、二人とも留まった時よりも大きくなるが、留まった者の助かる可能性は、二人とも逃げた時よりもっと小さくなる」。
 このジレンマの選択において、双方が社会的協調を目指して、留まれば(これが社会契約の場合に当たる)、社会的に最善の状態が実現するが、人の常として相手を出し抜こうとするから、双方が逃げて(これが自然状態に当たる)、社会的には望ましくない状態を迎えてしまう。前者では長期的利益が追求されるのに対して、後者では短期的利益が追求される。

Break time
https://www.youtube.com/watch?v=7ZpQcGLLrE4
〔勉強のすすめ〕
デフレスパイラルと囚人のジレンマの類似性を説明せよ。

〔問い〕貴方なら囚人のジレンマに直面したとき、どうしますか。

〔文献一覧〕
浜田義文、1981、『カント倫理学の成立』勁草書房。
J・L・マッキー著、加藤尚武監訳、1990、『倫理学 道徳を創造する』晢書房。

9.息子を殺さねばならない
[授業目標]愛と憎ということを考えられるようになる・国語テスト

reading time 教科書p126-p129
テスト→別刷りの問題用紙に設問があります。

今日の味読箇所
〔資料〕「心の底から人を殺したく思っている人々のうち、ある人はなぜか殺人を思いとどまる。ある人はなぜかそれを犯す。これがすべてである」(教科書)。

・「翼のない鳥」PartⅣ(サンコミックス版ではPartⅣは二つあるが、前の方)より
J(ジョーイ):「ずっと/ずっと/ずっと
/ずっと/ぼくは/
空を/飛ぶことを/夢見て/いました/」
R(ロバータ):「さあ/もうしゃべらないの」/
J:「ううん/聞いて」/
J:「ぼくの知っていた/ただひとつの想いを/たよりに/
ぼくは/それを/得たいと/思いました/」
「けれど/同時にぼくは」/
「ぼくの心のなか/を深く/のぞきこみ/
それに/ふさわしくない/自分をも/見出しました」/
R:「わたしを/殺してしまう/かもしれないと/いったこと?」/
J:「ぼくは/憎むことも/殺すことも/……/ほかのどんな/悪いことだって/できるんです」/
R:「モラリストさん/
あなたが/なぜあなたの/生まれたあとに/身についた規則に/したがわねば/なりませんか?」/
・・・人は自然人として、人を殺すことも殺さないこともできる。あなたが人を殺さないのはなぜか?

あしたのためのその五
 外形的な適法行為にしがみつくより、個人にとってのリアルなものがある。しかし。たとえどんなに人を殺したく思っていても、人はなぜか殺人を踏みとどまる。人影の翳のなかから、定言命法の輝きが頭をもたげるのはそんなときである。
〔文献一覧〕中島義道、2005、『悪について』岩波新書。

10.ヘーゲル
[授業目標] 愛と憎・主と奴の弁証法を学ぶ

〔問い〕熊野純彦、2006、『西洋哲学史 近代から現代へ』岩波新書、167-168ページの文章に関して空所を補充せよ。
 生命がヘーゲルにとってその存在理解の範型であったとすれば、「愛」がヘーゲルにあって   との関係の原型となる。他なるものとの「理論的」な関係は、対象をそのままに認識することを目標とする。それは完全に「客観的」なものでなければならない。他方、他なるものに対する「実践的」な関係は、対象を変容し、そのかぎりで   する。それはまったく「主観的」な関係である。「ただ愛にあってのみひとは客体とひとつであり、客体が支配することも支配されることもないnur in der Liebe allein ist man eins mit dem Objekte,es beherrscht nicht und wird nicht beherrscht」(『初期神学論集』242ページ)。「愛において分離されたものもなお存在しているが、それは   されたものとしてであり、生ける者が生ける者を感じるのである」(246ページ)。
 愛というこの原型が、いわゆる「相互承認」のひな形である。「ひとつの自己意識が自己意識に対して存在するEs ist ein Selbstbewußtsein für ein Selbstbewußtsein」(『精神現象学』140ページ)。自己意識は、かくてはじめて存在する。    の存在によって私はようやく私となる。他者との関係が愛であるならば、私はじぶんの存在を、他者のうちに有している。自己意識はもうひとつの自己意識のうちでじぶんを失う。自己意識は他方、他者の自己意識のうちでこそ自己を肯定する。愛する者の存在が、私を肯定するからである。こうしてふたつの「      は、たがいに承認していることを、相互に承認しているSie anerkennen sich,als gegenseitig sich anerkennend」(『精神現象学』143ページ)。知覚を問題とする場面で、ヘーゲルがすでに確認していたように、存在者は「自己に対してあり、また他なるものに対して」存在する。この両者は「二重のあいことなる存在」のしかたである。とはいえ対自と対他は、「他方また一である」(97ページ)。
〔問い〕熊野純彦、2006、『西洋哲学史 近代から現代へ』岩波新書、171-172ページの文章に関して空所を補充せよ。
 フィヒテの原理「私は私である」は、若きシェリングがそう考えたとおり、「私」がすべてであることをあかす行為によって確証される。私は私以外の存在のすべてを否定することで、私となる。けれども、私による否定が完全なものであるのは、それ自身も自己意識である   が対象となる場合にかぎられる。「自己意識はただ、他の自己意識においてのみ満足に達する」(『精神現象学』139ページ)。自己意識どうしの関係は、かくして、たがいの「生死を賭けた    Kampf auf Leben und Tod」となる(『精神現象学』144ページ)。
 暴力は、ただ他者に対してのみ可能である。「意識は、他者の死をめざす。しかし、自身を危険にさらすことで意識は、みずからの死に向かうことになる」。イエナ期の精神哲学構想のこの一節を引きながらコジェーヴは、人間である死は暴力的な死なのである、と註解をくわえた。      なら、私が殺そうと欲することができるのは、ただ他者だけであると語りだすことになるだろう。
 対他存在とは、他方、奇妙な存在の次元である。他なるものに対する存在とは、それが私の存在のしかたであるかぎり、私に帰属する。たとえば、知人と出会ってあいさつすべき存在、あるいは見知らぬ他者たちとそしらぬ顔ですれちがうべき存在は、たしかに、私のありかたである。とはいえ、その存在のかたちは、他者たちにも所属する。あるいは他者たちにこそ由来している。既知の他者が   するから私はあいさつし、疎遠な他者のなかにいるので、私もまた匿名のだれか或る者なのだ。ヘーゲルの「       」論を読み替えて、サルトルなら、「他者のまえでの、じぶんについての   honte de soi devant autrui」が「対他存在étre-pour-autrui」の典型であるというだろう。それは、たしかに、ほかでもない私のうちに食いこんだありかたでありながら、他者を巻きこんでなりたっている存在の次元なのである。

★芥川龍之介『侏儒(しゅじゅ) の言葉(遺稿)』の「わたし」の節を見てみよう。■
・・・愛と憎に関連して
「わたし
 わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。
   又
 わたしは度(たび)たび他人のことを「死ねば善い」と思ったものである。しかもその又他人の中には肉親さえ交(まざ)っていなかったことはない。
   又
 わたしは度たびこう思った。――「俺があの女に惚(ほ)れた時にあの女も俺に惚れた通り、俺があの女を嫌いになった時にはあの女も俺を嫌いになれば善いのに。」
   又
 わたしは三十歳を越した後、いつでも恋愛を感ずるが早いか、一生懸命に抒情詩(じょじょうし)を作り、深入りしない前に脱却した。しかしこれは必しも道徳的にわたしの進歩したのではない。唯(ただ)ちょっと肚(はら)の中に算盤(そろばん)をとることを覚えたからである。
   又
 わたしはどんなに愛していた女とでも一時間以上話しているのは退窟(たいくつ)だった(後略)」(芥川龍之介、1997、82-83ページ)。

 このような愛と憎の類似性は古今の文学作品の主題となってきた。たとえば人間の有り様を容赦のない筆致で描き出すラ・ロシュフコーは次のようにいっている。「女を愛せば愛すほど憎むのと紙一重になる」(La Rochefoucauld, 1954,p.21=Dラ・ロシュフコー著/二宮フサ訳、1989、111、40ページ) 。
また、異性を愛さなくなったら、憎悪と疎(うと)ましさとが隣り合わせになる、というのも真理である。愛が陶酔的な情念ならば、それは「自己の濃密な接触に浸りたい」という願望にもとづく。しかし現実においては、その自閉願望から他の価値が犠牲にされる。結局、愛へのめりこめれば、その反動として愛は消沈へといたる。この倒錯はしばしば愛以外の別な情念、憎悪を喚起する 。
 たとえば昔『あしたのジョー』というコミックがあった。愛と憎悪ということでいえば、そのなかの、主人公矢吹丈に対する白木葉子の両面的な態度が思い出される。
 丈は少年院から更正するにさいしてボクシングを習得する。そのライバルが力石(りきいし)徹。彼は白木葉子の父が主催するボクシングジムに所属していた。やがて矢吹丈は、少年院を出所し、プロボクサーとして活躍してゆく。その途上で丈は、ウルフ金串(かなぐし)を再起不能にせしめるばかりか、ライバル力石をリング上の疲弊によって死なせる。そうした紆余(うよ)曲折の途上で、葉子は丈に対戦相手をけしかける冷徹な、存在として立ち現われる。その白木葉子が、力石の死から落胆する丈に投げかけるセリフ。
 「あなたはリングでウルフ金串のアゴを割り、再起不能にし、そして力石徹をも死に追いやった罪ぶかきプロボクサーなのよ。こんなところで酒にひたり、ぐちをこぼし、おだをあげている気楽な身分ではないはずだわ! このままでは、男として義理がたたないでしょう。あなたはふたりから借りが……神聖な負債があるはず! いま、この場ではっきり自覚なさい。ウルフ金串のためにも、力石くんのためにも、自分はリング上で死ぬべき人間なのだと!」(先取りすれば、この憎しみの裏には隠れた愛がある)。
 白木葉子は矢吹丈を殺戮に駆り立てる冷徹な機械、もしくは破壊の女神セクメトである。
 にもかかわらず、物語の最後、世界チャンピオン戦の目前で、パンチドランカーになってしまった丈を廃人にしないよう懇願する、「丈!リングへ上がらないで」と。そして、丈に対する愛を告白するのである。やすっぽいロマンティシズムと笑わないでください(昔の世の男性は『あしたのジョー』の白木葉子に憧れたものなのだ)。http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/ashita-no-joh.html
風と共に去りぬ→https://www.youtube.com/watch?v=PgF-rcHcPqE


今日の味読箇所
〔資料〕谷川俊太郎の『世間知ラズ』のなかの「父の死」の一節に次のような箇所がある。
 「葬儀屋さんがあらゆる葬式のうちで最高なのは食葬ですと言った。/
  父はやせていたからスープにするしかないと思った」。

〔問い〕
・「ヘーゲルが自己疎外で考えているように、愛とは他者のなかに自己を見出す営みであろう」。この文を解説せよ。

 私が他者とかかわるさい、必然的に相手を奴隷にするような、主と奴*の関係が成り立ってしまうことを、愛と憎の類似性は思い起こさせる。たとえ他者をわがものとし、合一するような愛の体験においてすら、その根本には相手の存在を否定する要素が含まれている。かようにも、愛と憎悪はやすやすと逆転しうるものなのである。
 どんなに憎んでいても、人の存在を否定してはならぬ言説が一方にある。ただしそれはどんなに愛していようと、その人を自分の物とするため、一種の倒錯から殺してはならないのと、ほとんど同じ水準にあるのかもしれない。

〔文献一覧〕熊野純彦、2006、『西洋哲学史 近代から現代へ』岩波新書
谷川俊太郎、1993、『世間知ラズ』思潮社。

11. 自己愛以外の意志の他律
[授業目標]倫理における心の平静さを理解することができる

reading time 教科書p132-p142
□「定言命法」「道徳法則に対する尊敬*」「意志の自律」の対義語を書きなさい。
□意志の他律とは、自分のうちなる理性以外のもの(自己愛・快・傾向性)に盲目的にあるいは計算ずくで従う態度であり、また自分のそとの権威・法・掟・習慣などに疑問を感ずることなく従う態度である。
□自己愛という動機にもとづかず道徳的には善いとは言えない行為が意志の他律から生ずる。
□①道徳的に善い行為 ①+②適法的行為 ③非適法的行為
□意志の他律を前提にすると「最大の利益を得る行為」に流される。
□「他人に親切にするべき」であることを、義務だからではなく、ただ多くの人がそうしているから従っている人はカントによって非難されている。
□意志の他律を促すものとして、自己愛・完全性・神の命令・善良な市民的常識がある。
〔問題〕ストア派のゼノンには、普遍的な理性の法則によって生きることを求めたが、この考えを示した彼の言葉を答えよ。                       。 
〔問題〕ストア派の人々は、ポリスに縛られない生き方を求めたが、このような人々のことを何と言うか。                              。  
〔問い〕熊野純彦、2006、『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波新書、130-132ページの文章に関して空所を補充せよ。
 一六一年、マルクス〔・アウレニウス〕はルキウス・ヴェルスと共同皇帝に即位する。おなじ年、パルティア軍がアルメニアに侵入、親ローマの王を廃し、さらにシリアへと進軍する。以後、アウレニウスは、ほとんどの時間を戦雲のもとですごすことになる。一六六年、パルティア戦役はローマの勝利におわるが、翌年にはゲルマン部族の侵攻がはじまる。三九歳で即位した皇帝は、五八歳の年に冬営地のウィーンで死去するまで、主として戦場の幕屋で日々を送ったのである。
 生来の資質からするなら、むしろ「紅旗征伐吾ガ事二非ズ」(藤原定家)ともしるしたかったであろう。皇帝はかわりに『    』につぎのように書いた。「私の属する都市と国家はアントニウスとしてはローマである」。マルクスの名は正式には、Imperator Caesar Marcus Antoninus Augustusという。だが、「人間として属するのは  である」(第六章四四節)。「つぎのことをつねに気にかけねばならない。  の自然とはなにか。私の自然とはなにか」(第二章九節)。「身体をめぐるいっさいは流れであり、たましいにかんするすべては夢と煙である。生は戦いであり、旅の宿りであり、死後の名声は忘却にすぎない」(同、十七節)。
 ストア学派といえば、「      」(無感動)の理想が挙げられる。ひとは欲情や憤怒の虜となってはならない。そればかりではない。同情や後悔にとらわれてもならない。 
     は、戦場を宿とするアウレニウスにとって、ただの説教ではない。「波が絶えず砕ける岩のようでなければならない。岩は立っている。そのまわりでやがて波は静かにやすらう」(『自省録』第四章四九節)。「すべては   の自然にしたがっている」からだ。「そして、まもなく、きみはなにものでもなくなり、どこにもいなくなる」(第八章五節)。「まるで一万年生きるかのように行動してはならない」(第四章十七節)。それでは、どのように生きるべきなのか。
  あたかも、きみがすでに死者であるかのように、現在の瞬間が、きみの生の最期の瞬間であるかのように、自然にしたがって生きよ。(第七章五六節)
 現在こそが永遠である。現在が永遠であるならば、「もっと長い生も、もっと短い生も等価である」(第二章十四節)。みずからは戦場に生きざるをえなかった哲人皇帝が、おそらくはじぶんのためだけに書きつけたこのことばは、深い  とふしぎな慰めに満ちている。

今日の味読箇所
〔資料〕「ここで、カントが「完全性」という概念のもとに考えているのは、例えばストア派やCh.ヴォルフのように、個々人が(外的完全性を具えた)全体の目的達成に役立つような(内的に)完全な生き方を設定し、それに倣う行為を道徳的に善いとすることである。彼らにとっては、生活の隅々に至るまで、何が完全な行為=道徳的に善い行為であるか決まっている。彼らは、それに一点の疑いももたずに修行に励み、ついにいかなる状況にあっても、いわば自動的にからだが動いて道徳的に善いことを実行してしまう。たしかに、これは意志の自律ではなくて、他律である」(教科書)。

〔問い〕
・生き方が「完全」であれば、なんら道徳的に非難する筋合いはないのではないか。なぜカントはストア派の生き方を批判したのか。
・ものごとに動じない心の強さと弱さについて考えるところを述べよ。


あしたのためのその六
 ものごとに動じない人は外形的な(外から見た)強さを保つことが出来る。しかしその人は、道徳的な苦悩がない。熱い心をもって、ものごとに苦悩することがない。道徳的で政治的な焦りを大切にしよう。それは若者の特権である。

〔文献一覧〕
中島義道、2005、『悪について』岩波新書。
熊野純彦、2006、『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波新書。

12.政治的な意識
[授業目標] コミック「わたしたちの始まり」から考える
 

 「わたしたちの始まり」■で、べトナム戦争に反対する募金対して佐藤君が表明した否定は、なぜ肯定に変質したのだろうか。それは端的に言って、「海」を経由しヴェトナム民衆に通じる「流れ」に通じていたからである。we shall overcomeの熱さとともに。
 「その時間に/夏休み中に激化された/アジアでおこなわれて/いる ある戦争の話を/クラスの委員が/まえへ出て話した/
 みんなに/回覧を希望した/新聞の切り抜きは/なんだかひどく/残酷なもので/
 それから/その写真の中のような/キズついた子どもたちを/救うために/なんとかという団体を/通じて募金を/送ろうということになり/たぶん全員賛成だと/思ったのだろう/
 『反対の人/
 手をあげて/ください』/
 と/委員の/ひとりは/いった
 それは/ほんとうに/一瞬の差/だった
 彼が手を/あげなければ/azami.pdf へのリンク
 わたしが手を/あげていた/ところだった/
 『めだち/たいんだよな/佐藤!!』/
 けれど/クラスメートが/いった/そのことばの/意味は/
 彼には/
 わからないものだった
 わたしは/彼のかわりに/顔を赤らめ/
 彼は/みんなが/わからないのを/怒った/
 採決は多数決で/なんなく決まって/しまったけれど/
 ノーという形を/とってしまった/熱い想いのイエスが/彼のなかにあるのを/その時/わたしは見つけた/

 
〔問い〕なぜ佐藤君は募金に反対したと思いますか。
 それはわたしが/その熱さを/半分おそれながら/だれにもいえずに/自分のなかに/見つづけてきたものと/おなじ質の/想いだった」/
 日常の怠惰の中にあるクラスメートにとって、戦争に反対することは安易である。しかし生半可なボキンに賛成することで掬われないものがある。それは大きな状況を撃つこと、例えば戦争に対する根本的な疑問を呈することである。もし「消極的な賛成」が大きな状況に対する告発を隠蔽するものなら、逆に「積極的な肯定」は、「反対」という先鋭化した形を取る。その逆説性故にこそ、クラスメートの惰性にとっては、佐藤君の行動は異物に映る。そうした経緯から、「ささくれた」想いに抱え込んで、佐藤君はクラスから孤立せざるを得ないのである。

今日の味読箇所
〔資料〕「採決は多数決でなんなく決まってしまったけれど/否という形を取ってしまった熱い想いの肯定が彼のなかにあるのをその時わたしは見つけた」「それはわたしがその熱さを半分おそれながらだれにもいえずに自分のなかに見つづけてきたものと同じ質の想いだった」(「わたしたちの始まり」)


〔問い〕
・たしかにその募金が届かないとは断言できない。しかし安易に募金してよいものだろうか。
・もとより募金一般が悪いと言っているわけではない。生死の境にいる弱者に対しては最も効果的な手立てではないだろうか。
・ここではいつも運動会・・・この比喩は何を喩えているか。

 
大状況を射抜くこと。一見、幸福を手放すかのような、逆説的な連帯の輪が抵抗としての意味をもちうる。熱い想いを抱くことの重要性。アパテイアの対極にある真実。

Break time
岡林信康の「わたしたちの望むものは」について、感想を述べよ。
http://www.dailymotion.com/video/x7038p__music

13. ブランテラの場合
[授業目標]愛ゆえの苦悶について考えを深めることができる

reading time 教科書p158-p163/p206-p208
□道徳法則(真実性=誠実性の原則)がまず立てられ、それによって何が道徳的に善い行為かが決まり、次に何が善い行為(適法的行為)かが決まる。
□すべてを自分の内部(理性)によって決するのであるから、そしてそれ以外にどこにも基準を仰ぐことができないのであるから、神のような存在者でないわれわれ人間は、むしろいつでも誤りうる。
□肺病の妻は出産によって死ぬ危険があることを知り、医師である夫は悩み苦しむ。彼は妻に事態の深刻さをそのまま告げ、堕胎を勧めるが妻はガンとして聞き入れない。彼女はいくたびもの危険を脱して出産までこぎ着けた。しかし、死産であった。それを彼女に知らせずにいるあいだ、にわかに彼女は危篤状態に陥り、息をひきとる。
□カントの眼から見れば、カトリック司祭は道徳的ではなく、プランテラのみが道徳的である。なぜか。
□良心の声を聴けば「何をなすべきか」たちどころにわかる、というのは、意志の自律と相容れない。
□われわれは良心の声を聴いた瞬間に「自動人形」のように、行為に移せるわけではない。もしそうなら、われわれの意志は自律ではなくなる。
□妻は出産までもちこたえた。男児を出産した。妻は歓喜に震える。だが、じつはその子は三日後に死んでしまったのだ。プランテラはそのことを妻に告げることはできなかった。彼は、その日生まれた別の子を、わが子と偽って妻の腕の中に抱かせた。妻の喜びは測りしれない。彼女は幸せを神に感謝する。そして、その一週間後に、彼女も息をひきとるのである。
□カントはこの場合、どうすることを提案しているか。

question あなたの妻が肺病を患って妊娠したら?もしあなた自身が妻の身に置かれたら?

今日の味読箇所
〔資料〕「「そうすると、つまり教会はちっぽけな不格好な胎児よりもむしろ一人前の人間、ひとりの妻、ひとりの母を犠牲にするわけですか?」プランテラはほとんど激昂してくってかかった。「われわれは、われわれの原理にあくまで忠実ならんとすれば、それ以外にどうしようもありませんな」。老師は遺憾の意を表した」。

〔問い〕
・なぜ子どもを産むことが適法的行為なのか。
・妻を落命の危険にさらすことは、最大多数の最大幸福に反するのではないか。
・悩むこと、すなわち倫理的という考え方がある。これについてどう考えるか。






あしたのためのその七
 道徳的に正しいことは、ほぼ自明であることが多い。にもかかわらず、人がそのすべてを実行することは不可能である。自己愛と定言命法に宙吊りにされた思考の空間は、苦悩に満ちている。道徳的な苦悩があるからこそ、愛ゆえの苦悶が厚みを帯びる。
〔文献一覧〕中島義道、2005、『悪について』岩波新書。


14.サルトル

[授業目標] 愛の倒錯・ヘーゲルを再び論じる

加藤尚武、1983、『ジョーク哲学史』河出書房新社ISBN:4309471420/NCID:BN04457309。236ページ。
 「意識(対自)の内発性が、絶対的な能動性であるとき、対自と対自の関係はどのようになるか。私にとっての他我の存在は、私の存在といかにかかわるか。サルトルは卑近な例で説明している。
 「私が嫉妬にかられて、興味にさそわれて、あるいは悪癖にそそのかされて、扉とぴったりと耳を当てがい、鍵穴から中を覗(のぞ)いている場面を想像してみよう。……私は私の諸行為を何ものかに帰し、それによって私の諸行為を性質づけるということはできない。私の諸行為は決して認識されるのではない。反対に私は私の諸行為である」(『存在と無』三-一-四)。
 私は耳になり切っている。私は私の行為の主人である。「ところが突然、廊下で足音のするのが聞こえた。誰かが私にまなざしを向けている。……私は突然、私の存在において、襲われる。本質的な変容が私の構造にあらわれる」(同)。血の気がひいて、見る私は、見られる私に変容する。私はもう私の行為の主人でない。他人のまなざしの奴隷である。まるで私自身が風呂の水であったところへ、突然、誰かが、風呂の栓を抜いたかのように、私は「存在の減圧」をこうむる。私と他者との関係は、認識の関係でない。存在の関係である。私の存在減圧を代償としてしか、他者にとっての私の存在はない。「私の存在の無とは、他者の自由である」(同)」。
 見る側が主人であり、見られる側が奴隷である。
 見ること=所有すること=愛すること 見られること=所有されること=愛されること
★ちょっと立ち入った解説。http://philosophy.hix05.com/France/Sartre/sartre05.sad.html

〔問い〕人間は、「~である」=本質存在があらかじめ決まっておらず、「~がある」=事実存在ということが、先にあるということを主張した言葉を挙げなさい。

〔問い〕人間が可能性のなかに投げ込まれている(企投)されているのではなく、可能性としての未来に自らを投げ出してゆくことを指した言葉を何と言うか。

〔問い〕人間は自由というかたちで自己を作りあげてゆくしかなく、またその責任を引き受けざるをえないことを何と言うか。

〔問い〕人間が状況にかかわって生き方を選び、他者とかかわりながら社会に参加することを何と言うか。

〔問い〕サルトルの影響を受けた大江健三郎が、社会運動としてベトナム反戦運動等について発言した書物を何と言うか。

  愛の極限に他者の我有化ということがある。他人を愛しているつもりでも自己愛の変形であることがある。だから愛が隣人愛という、曇りのないまっすぐな他者への気持ちを大切にしなくてはならない。

Break time
https://www.youtube.com/watch?v=PBfe9uX0Xk0
サルトル・愛?https://www.youtube.com/watch?v=ohOcptVc8uo

〔問い〕ヘーゲル・サルトルを批判するかたちで、他者にまっすぐに向き合う愛について論じなさい。

〔文献一覧〕
加藤尚武、1983、『ジョーク哲学史』河出書房新社。

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